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「……こんなところにあったのか……」
アルは屋敷の執務室で「あるもの」を見つけたところだった。だいぶ埃を纏った状態でようやく掘り起こされたそれは、分厚い封筒の束だ。中身を確認していると、コンコン、コンコン。ノックの音が部屋に響く。
「アルヴィン様、ハーブティーをお持ちいたしました」
「……ああ。入ってくれ」
扉を開けたジュリエットは、きょとんと琥珀の瞳を丸くした。いつもは整然と片付いている執務室が、まるで泥棒にでも入られたかのように荒らされていたので。もちろん犯人がアルだということは一目瞭然だけれど。
「お探し物でございますか?」
「まあな」
「仰ってくだされば、私が探しましたのに」
「いや。……自分で探すべきだと思ったんだ」
なぜそう思ったのかはわからないが、と最後に付け足して、アルは後片付けを始めた。
「そのご様子ですと、お探し物は見つかったようですね」
「なんとかな。……ジュリ」
「はい」
「調律師を呼んでくれ。できれば今夜か、急で難しいようなら明日でも構わない」
アルのその発言に、ジュリエットの胸中はぱっと明るくなった。十年ぶりにアルの演奏が聴けるのだ、そう思って。
「かしこまりました! 明日は……その、グラーヴトット家と婚儀の打ち合わせがございますので、私は一日中不在なのですが……」
「? 別に構わない。調律師の応対くらい、俺一人でも出来る」
「そ、そうですよね! それではなるべく早く手配をいたします。日時が確認できましたら、お声かけいたします」
「ああ」
珍しいことに──非常に珍しいことに、ジュリエットはわかりやすく破顔しながら部屋を後にした。それがどうしてなのか、なんてアルには知る由もない。彼の視線はジュリエットにではなく、ようやく探し当てた楽譜に注がれていたのだから。
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ユークレースから再び絵のモデルを頼まれたので、ライラは椅子に腰かけた……のだが、
「ふむ、今日の君は、前回よりもだいぶ大人びた表情をしているね……。以前のような少年特有のあどけなさ、いたいけな雰囲気もとても良かったが! 大人になりかけの憂いをおびたその表情もまた良い! 今この瞬間にしか醸し出すことのできない空気感を、描き切ってみせるとも……!」
なにやら燃え上がっているユークレースとは異なり、ライラは珍しく気だるげだった。
最近、感情のコントロールがきかないことが増えたせいだ。怒りに打ち震えたり、妙に寂しく思えてしまったり……。まるで何かに、心をぐちゃぐちゃに踏み潰されているみたいだ。
ふとした瞬間に脳裏に過るのはサイファーの指摘だ。忘れようと思っても、忘れたいと思っても、いつまでも反響して鳴り止まない。
──「アルに構ってもらえなくて寂しいって、顔に書いてあるから」──。
自分は絵のモデルに向いていないなと、ライラは思った。心がぐちゃぐちゃなまま、それでもじっと座っていなくてはならないなんて、はっきり言って苦行だ。
なにか別のことをしていればきっと気が紛れるのに。そんなことばかり考えていた。
そろそろ次の公務に取り掛かりませんと、とバーハリーがストップをかけたのはそれから数時間後のことだ。時計を見れば間もなく夕暮れの時間。
ユークレースは不満そうだったが、
「ではせめて、アルの屋敷の前までは見送らせてもらうとしよう。手紙の返事を書くくらい、馬車の中でもできるだろう?」
そんな折衷案を通してしまった。
バーハリーの操る馬車に揺られて、ユークレースとライラは向かい合う。ライラは意識をどこかへ追いやりながら、流れゆく夕暮れの景色をひたすら視界に映していた。
「……今日の君は、どこか上の空だったね。退屈させてしまったかな?」
「……え? あ、いえ! そんなことは……!」
「謝ることはない、否定も必要ない。誰にでもそんな時はあるものさ!」
快活にそう答えながら、ユークレースは羊皮紙の上でペンを走らせていた。同時に別のことを並行してできるなんて、とライラは密かに舌を巻く。
「それにしても、先ほどからたくさん手紙を書かれていますね」
「うむ。いわゆる恋文へのお返事というヤツさ。僕レベルともなると周囲の、というより国中の女性たちやその親族が放っておいてくれないものだからね! 中にはさる国の御令嬢からも熱烈なアプローチを……おっといけない、これ以上は自慢になってしまうね!」
「こ、恋文……すごいですね……」
ユークレースの傍らには大量の封筒が山のように積まれている。これがすべて恋文や婚姻を提案する書類なのだとしたら、返事を書ききるのにどれほど時間のかかることやら。
(……アルくんもこんな風に女の人から手紙をもらうこととかあるのかな。そりゃそうだよね、王子様なんだし。もしかしてアルくんも、その返事を書くのに忙しい、とか……?)
途端、心の内に靄がかかる。ライラは再び黙りこくってしまった。
なぜこんなにも何もかもを、アルと結び付けて考えてしまうのかわからない。
けれど誰かに相談するわけにはいかない。……どうしてか理由は不明だが、このことは誰にも知られてはいけない気がするのだ。
馬車が屋敷に着いた頃には、既に
「ライラ様、お足元にお気をつけて」
「はい。ユーくん。それにバーハリーさんも、お忙しいのに見送りまでしてくださってありがとうございました!」
ライラが頭を下げると、バーハリーはにこりと笑みを深くした。その時になってようやく気付く。彼の目は琥珀色だ。そしてどこか眼差しや面立ちも、ジュリエットに似ているような。いや年齢的には、ジュリエットのほうが彼に似ているのか──。
「……もしかしてバーハリーさんって、ジュリエットさんのご親戚ですか?」
「ええ。私はジュリエットの兄です。十つほど歳は離れております」
「や、やっぱり!」
ということはバーハリーもまた、モアカンダー家の出身なのだろう。
「互いに別の主人に仕える身ゆえに、なかなか話し合う機会もなく……。こんなことを尋ねるのは失礼かとは思うのですが、ライラ様から見てジュリエットはいかがですか。アルヴィン殿下のもとで……きちんと、仕事はこなしているでしょうか?」
バーハリーは控えめな笑みをライラに送る。年の離れた妹のことを心配しての優しい眼差しだ、ライラはそう思った。
「も、もちろんです! お料理はもちろん、お掃除にお洗濯に、とにかく何から何まで完璧すぎるくらいですよ! アルくんのこともいつも気にかけて、大切に思っているのがよく伝わってきますし……」
嘘はついていない。思ったことをありのままに口にしただけ。それなのにバーハリーは、常人なら気づかない程度に小さな溜め息を吐いてみせた。
「……完璧ですか。ありがたいお言葉ですが、それは些か褒めすぎかと」
「え?」
バーハリーの目を見て、ライラは思い出していた。
竜人族の里で剣術を教えてくれる師範に、「おまえはダメだ、基礎からしてなっていない。剣術には向いていないよ」と言われた時のことを。
バーハリーのどこか諦観に満ちた目が、記憶の中の師範のそれと重なった。