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7-6.ライラと、動揺

「妹はたしかに、良く出来た従者です。モアカンダー家の輩出してきた歴代の従者の中でも、特に優秀な部類でしょう。しかし……」


 バーハリーは視線だけでアルの屋敷を見渡す。どこもかしこも整えられている、「完璧」な屋敷の外観を。


「しかし……妹は、『従者の心得』に反している。どんなに従者としての仕事を完璧にこなしていたとしても、最も大事なそれが抜けてしまっています。……だからこそ、『完璧』などという言葉は褒めすぎなのです。実に惜しいことに」

「? それって、どういう……」


 鐘が鳴る。夕刻を知らせる鐘の音。冷たい風が二人の間を駆け抜ける。


「……ほんの世間話のつもりが、お引止めしてしまい申し訳ございません。一従者の戯言と思って、どうかお忘れください。それでは」


 去り行く馬車の窓越しに、笑顔で手を振るユークレースが見える。ライラは馬車が見えなくなるまで、その場から動けなかった。バーハリーの言っていること……「従者の心得に反している」とはどういうことなのかがわからなくて。

 冷たい風に体がぶる、と震える。


「……あ! い、いけない。早く行かなきゃ……!」


 今日は皿洗いを少し手伝ったくらいで、他には何もできていない。午後に手伝えなかった分を取り戻すべく、ライラは屋敷裏の庭園へ向かって走り始めた。今時分はジュリエットが、洗濯物を取り込んでいるはずだ。


♦ ♦ ♦ ♦ ♦


 前方で馬車を走らせるバーハリーの背中に向かって、ユークレースは不思議そうに声をかけた。


「珍しいこともあるものだね」

「何が、でございましょう?」

「君があんな風に感情を見せるなんて、そうそうないものだから」


 いやあ良いものが見れた! とユークレースは微笑む。対して、バーハリーは少し気まずそうに苦笑いだ。


「それにさっき言っていただろう、『従者の心得』とやらを。君があれほどこだわるくらいだから、相当大切なものなのだろうね。ぜひ聞かせてもらいたいものだ」

「……きっとお耳に入れたところで、何も面白くはないと思いますが……殿下がそう仰るならば」


 バーハリーは少しだけ馬車の速度を落とす。

 揺れが小さくなったことで、静かな彼の声もユークレースの耳にはしっかりと届いた。


「モアカンダー家では幼い頃より、『主君に仕えることこそが自分の幸せ』と教わります。……けれどそれには、文字通りの意味とは別に、二つの意味が込められています。一つ目は──『主君に対し、特別な感情を抱いてはならない』。そして二つ目──『主君よりも自分を愛してはならない』ということです」


 ひとつひとつを咀嚼し終えたのか、ユークレースはふむふむと頷いた。


「なるほど。滅私の精神というやつかな」

「その通りでございます」

「しかし、そんなことが可能なのかい? 自分以上に主君を愛せよ、ただし特別な感情は抱かないように……なんて。その二つは両立するのかな?」

「可能でございます。いいえ、可能というよりも、不可能でも両立させなくてはなりません。それがモアカンダーの従者の、あるべき姿というものです」


 長年、自らに仕えてくれた逞しい背中をユークレースは見つめる。


「……なるほど。君が先ほど、あんなに感情的になっていた理由が少しだけわかったかもしれないな……」


 ユークレースは理解した。「従者の心得」のすべてを。

 そして、


「つまり──君も僕に懸想しているが、従者としての立場を弁えて表には出さないように努めているということ──だねっ!」


 そう曲解した。

 バーハリーは慣れていた。ユークレースという男の思考回路に慣れていた。


「全然合っていませんね。いっそ清々しいです」

「はっはっは! そう照れて隠さずとも良いだろうに! 皆がこの僕を愛してしまうのは致し方ないことなのだからっ!」

「殿下……失礼ながら、言葉を選ばずに申し上げます。ドン引きでございます」

「なんとっ!」


 やり取りにふっと頬を綻ばせながら、バーハリーは馬車を走らせた。夕食までに終わらせなければならない公務は、まだまだ山のようにあるのだから。


♦ ♦ ♦ ♦ ♦


 屋敷の裏の庭園に向かって、風を切りながらライラは走る。シュシュとの日々の特訓のおかげか、少しずつ体力が付いてきている気がする。栄養素まで完璧に計算し尽くされた、ジュリエットの食事のおかげもあるだろうけれど。


(それにしても……ジュリエットさんが完璧じゃない、なんておかしなことを言うなぁ、バーハリーさん。あんな完璧な人も、そういないと思うんだけどな)


 屋敷の角を曲がればすぐに裏の庭園に辿り着く。やはり、目当ての人物はそこにいた。夕陽を背景に佇む長身細身のシルエットに、ふわりと風に揺れるロングスカート。


「ジュリエット、さ……」


 彼女に声をかけようとした瞬間、ライラは、全身の機能が止まったかのように思えた。

 足も、呼吸も、まばたきも、もしかしたら心臓だって。一つ大きな鼓動を最後に、数秒だけ止まっていたかもしれない。


「……アルヴィン様……」


 まるで愛おしいものを抱きしめるかのように。


 ジュリエットが手にしているのは、そっと顔を寄せているのは……白いシャツ。遠目で見てもライラにはわかる。あれはジュリエットのものじゃない。ましてやライラのものでもない──アルのものだ。

 シャツの香りを嗅いでいるのか、それとも口づけているのか。あるいはその両方、なのか。


 例えば洗い立てのシーツを体に巻き付けたことくらいならライラにもある。太陽の光を浴びて清潔になったそれで、体を包みたいという思いからだ。

 けれど、違う気がした。ライラの知っているそれと、いま視界に映っている光景は何かが大きく、根本的に異なる。そんな気がした。


 静かだったはずの心臓がうるさい。ジュリエットに気づかれないよう、ゆっくりと後退さることしかライラにはできなかった。

 後退さった後はがむしゃらに走り去り、屋敷内に用意された自室のベッドに飛び込んでしまう。


(……今のは、何? ボクは今、何を見てしまった?)


 ヒューマンの女性は、皆がああいうことをするのだろうか。他人の洗濯物に唇や鼻を寄せるのは普通のことなのか。普通じゃないと、したら。普通じゃないとしたら、いったい何だと言うのだろう。


 どうしてこんなにも胸が騒ぐのか。どうしていつもジュリエットの一挙一動に、発せられる言葉のすべてに焦りを覚えてしまうのか。


 長いこと燻っていた疑問はいつの間にか、大きな炎へと進化を遂げていた。

 誰かに相談したい。この胸の内を誰かに明かしてしまいたい。


 けれどアルにだけは訊いてはいけない気がする。キッドにも相談できない。アルに伝わってしまうかもしれないから。いま、心配そうにライラの髪の香りを嗅ぐシュシュは、相談したって答えをくれない。


 口が堅くて信用できて、困った顔一つせずに話を聞いてくれそうな──なんなら助言までくれそうな──そんな条件の揃った一人の人物の名を、ライラは心の中で情けなくも叫んでいた。


(ヒ──……ヒルダさん──! 助けてください──!)





 ライラはその日、ジュリエットの顔をまともに見ることはできなかった。アルが不在なのも今夜に限っては幸いした。二人に挟まれた状態で、何も見なかったように平然と過ごせるほど、ライラだって大人じゃない。

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