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翌日。
ジュリエットは正午からは不在とのことだった。午後に屋敷に訪れたキッドを、ライラは急いで出迎える。
「ライラちゃん、こんにちはー。あら、今日は執事の格好じゃないのね?」
軽やかな口調に優しい笑顔。いつもと変わらない彼の態度に、ライラはこんなにも救われる。
「こ、こんにちは! ……あの、キッドさん」
「ん?」
喉から出る声に情けなさが滲み出ているのが、自分でもわかった。
「これからヒルダさんのところに行っても問題ないでしょうか? あの、しばらくお会いしてないですし、なにかお手伝いできることがあればと思ったんです……」
尻すぼみになっていく声になにか思うところでもあったのだろうか。一瞬の間を置いて、それでもキッドは笑みを深くした。
「もちろんいいよ。これから仕込みの時間帯だから、猫の手も借りたいってところじゃないかな」
「そ、それはよかったです」
「ただ、一応ライラちゃんは保護対象だからね。護衛にエリカくんと、そうだな……新人くんをひとり、付けることにしようかな」
“エリカ”。その名前には覚えがあった。
「あの、御前試合の時の女性ですか? たしか副隊長だって」
「そうそう。エリカくんならあらゆる意味で任せて安心だからね! さっそく馬車の手配するからね~」
馬車はすぐに城からやってきた。サーベルを携えた長身の女性が、ライラとシュシュを出迎えるべく颯爽と降り立つ。
「お迎えに上がりました。初めまして、エリカ•シキと申します。本日はキドリー隊長のご自宅と、その帰路までをご同行させていただきます。よろしくお願いいたします」
恐ろしく丁寧な言葉遣いと共にそう言って頭を下げると、黒髪のポニーテールがさらりと流れて艶めく。綺麗な女性だ。アルの周りには、いつも綺麗な女性がいる。
……また、そんな風に思ってしまった。
「ラ、ライラと申します! 急なお願いをしてしまってすみません! こちらこそよろしくお願いいたします!」
「はい。ではライラ様と呼ばせていただきますね。それでは早速参りましょう。奥様にはもう話は通してあります」
「ありがとうございます!」
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王都の下町へ向けて、馬車が走り始める。その様子をキッドは、執務室の窓から眺めていた。
「……アルくんさあ、最近、ライラちゃんと何かあったー?」
「何も」
書類に目を通すアルは、短くそう答えるだけ。
「じゃあ、なにか傷つけるようなことは言ってなぁい?」
「何も」
「ほんとにぃ~?」
「しつこいぞ」
「だってさぁ……なんか、しょんぼりしてたわよ~? 憔悴の二歩手前って感じ」
一瞬だけ、アルの手が止まる。
「……だとしても、それは俺のせいじゃないな。ここ最近、ヤツとは会話はおろか、顔も合わせていない」
「…………」
脱力したように、キッドはその場にへたり込んだ。
「やーっぱりアルくんのせいじゃないのよぉ……」
「何をごちゃごちゃ言っている。いいから、早く次の書類を寄越せ」
渋々キッドは従う。しかしアルの態度に、いつもと違うものを感じ取ったのはその時だった。
「なーんか、やけに急いでるじゃない? 用事でもあるの?」
「来客が一人な。それまでに仕事を片付けておきたい」
「おや珍しい。どちらさま?」
「…………おまえには関係ない」
キッドの耳にギリギリ届くか届かないか、それくらい小さな声でアルは答えた。
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城下町までたどりつくのに、まだ時間がかかる。馬車の中は静かなものだった。きっとエリカは元々、物静かな女性なのだろうけれど。会話なんて必要ないと思っているのかもしれないけれど。それでも気まずい状態が続くのは胃に悪い。
「あの、エリカ……さん」
「はい。どうされました?」
「御前試合の時、見てました! あんなに重たい剣を持って、男の人とも対等に戦ってて、すごくかっこよかったです!」
ライラの発言に、エリカの頬はふっと綻んだ。
「ありがとうございます。そんな風に言っていただけて嬉しいです」
落ち着いていて、凛とした話し方だ。
「キッドさんが言ってました。エリカさんが得意としてるのは、その……ばくじょうずつ、とかいう……」
「
エリカ曰く、縛縄術とは縄をはじめとして、ありとあらゆるものを使って相手の動きを封じることに特化した武道の一種らしい。
「元々は城の医療班にいたのですが、縛縄術の価値を見込んだキドリー隊長が、私を隊に引き入れてくださったのです」
「そうだったんですね。かっこいいです、見てみたいです!」
「ふふ。そうですね……。今、馬車を操っているのは、今年入隊したばかりのクレオという隊員なのですが……何か大きなミスをしましたら彼を使って、縛縄術をライラ様にご覧に入れましょうか」
「エリカ副隊長⁉ それはひどくないっスか⁉」
そう言って振り返ったのは、まだ若い男性。アルと同い年くらいだろうか。エリカの冗談──恐らく──に、焦ったように上体を捻っている。……そのせいで、手綱が大きくぶれてしまった。
「前を向きなさい、クレオくん。また馬車をどこかに擦ったら、今度は縄ではなく椅子で固定しますよ」
「前向くっス! 絶対擦んないっス!」
……モンブラン隊の上下関係は緩いのではないか、とライラは思っていた。
今、この瞬間までは。とんだ思い違いだったようだ。
しかしほとんど脅迫されているに等しいはずのクレオが、僅かに嬉しそうに見えるのは気のせいか?
「クレオは剣の腕はそこそこですが、機械関係が得意なのです。キドリー隊長は戦闘とは別に、なにか一つ特技を持っている、そんな人材を隊に引き入れる傾向があります」
キッドの人となりを知っていると、たしかにそんな傾向はありそうだ。
「すごいなあ……ボクにもなにか、特技があったらなぁ……」
「なんだよおまえ、まさかモンブラン隊に入ろうってんじゃねえだろうな?」
やけにフランクに、いやフランク以上に、クレオがライラに問いかける。
「勘弁してくれよ~。護衛対象が二人も常駐してるのはこっちとしてもキツイって」
彼の言う護衛対象というのは、ライラとアル、二人のことを指すのだろうけれど。
「ち、違いますよ! だいたい、ボクなんかが近衛騎士団になんて入れるわけがないですし……」
「クレオくん。近衛騎士の台詞とは思えませんよ。王族の身辺警護をするのが我々の仕事です。先ほどの発言は撤回なさい」
窘めるエリカに対し、いやいや、でも、とクレオはなおも続けた。
「だって俺、他の隊の奴から噂を聞いたんっスよ。 何でもそいつが言うには、アルヴィン殿下は王族と言っても、
「クレオくん。もう、何も話さなくて結構です」
いつの間にかエリカの表情から微笑みは消えていた。いよいよ黙ったほうが賢明と判断したらしい、クレオはそれ以降、何も発言しなかった。
馬車に乗り込んですぐの頃より、空気が異様に重たい。ライラは後悔した。迂闊に話を広げるべきではなかった、と。
唯一気まずい空気を和らげてくれたのは、膝の上のシュシュの大きな欠伸。本当にそれだけだった。