どこからか、ぽかんと木と木がぶつかり合ったような乾いた音が部屋の隅から隅を往復した。
(視界が悪い)とシャルロットは顔を顰めながら、その部屋をぼうっと見た。
霧に覆われ熱気のある部屋を一望した。
「王城のお風呂って、こんなに豪華なものなの⁉」
オリアナの王城の浴槽にやってきたシャルロットは、そう叫んだ。
ぽかんとまた乾いた音が鳴った。
「シャルロット、出入り口で止まらないでよ~」
ピンクの短髪を下ろしてシャルロットの間を抜けた。
「ちょっとクリス、お風呂で走ると危ないよ」
とたしなめるものの、クリスはそのまま勢いよく霧の中に消えてしまった。
ため息を落とす。ふとシャルロットとクリス以外に人がいるのが見えてきた。
霧が晴れ、次第に人影が形を凝固とする。
「では、歴史的に亜人の起源というのは分かっていないのですか?」
紫紺の瞳とギザギザの歯を持った美女が、湿った黒髪の一本を鼻の上に乗せていた。
髪の毛を下ろすと印象が大分違った。
「そうなる、かな」と緑の髪の毛を頭の後ろでまとめながら考えるように顎を触って呟いた。
「亜人は魔物と同じように魔力の発生が始まりではと言われているけど、明確な生まれについてはまだまだ分かってないことが多いの。その当時は荒れていたから、文献が残されるほど文明が安定していなかったってのもあるとは思いますけど」
「そうなんですね。ワタクシに出来る事なら協力しましょうか? もちろん、倫理感がある方なら」
「……別にシスターさんがいいなら構わないけど、倫理観がある方? 変な言い方ですね」
うふふとそのエミリーの言葉にシスターは微笑を浮かべた。
どうやらエミリーとシスターは同じ浴槽で会話をしているらしい。
二人は亜人と歴史学者という珍しい組み合わせであるが、どうやら性格的に相性がいい見たいだ。
そこに先ほど走り出したクリスが突撃し、お風呂に飛び込んだ。水
しぶきが立ち、エミリーとシスターがびしょびしょになった。
「クリスティーナさん、お風呂で飛び込むと危険ですし、何より迷惑です」
「全くもう、元気なんだから」
「エヘヘ! わりいわりい!」
悪ぶれない少女の姿を見て、シスターは更に怖い笑みを浮かべてクリスに近づいた。
その様子をみてエミリーは「あちゃ~」と右手をおでこにあて、これから行われる『指導』に目をつぶった。
年が明けて三日が経過した。
ラクテハードとザバク、及び聖都ラディクラムの乱暴な干渉はもうない。
南の王国オリアナは、聖都ラディクラムとは絶縁した。
近々二人の司教の追放が行われ、やっと平穏がオリアナに戻るだろう。
結果的に、様々な『問題』が丸く収まった。
現在シャルロットとカルは司教たちを追放するまで王城の保護下にあり、王城付近の宿に越して暮らしている。お金も住処も困っていない。
王城の特別待遇でオリアナダウンでの買い物が全て割引されたりする。
二人はオリアナにとっての英雄だ。
聖都ラディクラムとの絶縁に大きく関わり、かつザザ・バティライトの裏切りが結果的に局面を大きく覆した。
彼との信頼関係が、こうして打倒司教に一役買ったのだ。
無論、シャルロットとカルの二人だけが、ザザとの関係において『信頼』の二文字がいかに無駄かを知っていた。
三人の旅仲間は決して仲間であるが絆はない。
だが、周囲の眼からすれば。
その三人の関係は絆以外の何物でもないのかもしれないが。
「シャルロット」
声が聞こえ、シャルロットは霧の中を探した。
すると右手前の浴槽からとある人物が手招きしていた。
シャルロットはそこに向かって歩みを進めると、そこにはオーロラが静かに座っていた。
「はあ、やっと落ち着いて話せそうね」
「ええ」
シャルロットは足先から湯船につかり、そして彼女の右側に腰を下ろした。
「改めてお礼を言わせてください」
彼女は霧を見上げながら呟いた。
「司教の鎮静化、ありがとうございました。今回あそこまで大胆な攻撃を行ってくれたおかげで、私達は動くことができました。公正であり厳粛であるべきが故に、我々は司教たちを野放しにしてしまった」
「そこまでする腹積もりがあった訳じゃないけど、結果的に良かったよ」
「ええ」とオーロラは微笑んだ。
「ラクテハードとザバクの両名の追放も間もなく執行されます。ラクテハードは既に回復しており、ザバクについては欠損がありますが意識を取り戻しています。万全とはいかずとも咎人は厳正に対処しなければなりません。例え他国の使節だとしても」
「うん。ザバクも無事でよかったよ。聞きだせた情報とか無かった? ほら、私が気になってたこととか」
「それがなのですが……」
オーロラは分かりやすく言葉を詰まらせた。
「どこで『シャルロットが魔女の卵である』ことと、『穹の魔女が親である』ことを知ったかは口を割りませんでした」
「そっか……」
これはカシーアから抱いていた疑問だった。
魔女の卵がバレることは確かに、シャルロットは黒魔術を隠している方ではないから、多少大目に見て納得することはできる。
だが、自分が『穹の魔女から卵を渡された』という事実は。
いったどこで相手にバレたのだろうか。
そんな事を自分で誰かに言いふらしたことはない筈だし。
とすると、憶測になるけど……。
私達は既に、『救済』『失格』『爆裂』以外の司教と遭遇しているのかもしれない。
それも時期でいうなら、『救済』と遭遇する前。
――考え得る可能性。
それは、それら秘密が
彼らの技術には目を見張るものがある。
もしかすると、他人の心を暴いて読み解く聖装があっても不思議じゃない。
カシーア、それかカシーアの前の段階で、シャルロットは既に司教に見られていた。
ふとシャルロットは頭を横に振った。
「考えすぎよね」
「どうされました?」
「ううん。何でもないよ」
気持ちを切り替えて微笑みを返した。
それに共鳴してオーロラも微笑んで灰色のまつ毛が線になった。
とたん彼女は、はっとした。
「そういえば何ですけど」
「ん?」
シャルロットはお風呂の中で背伸びをしながら相槌を打つ。
「私はあなたの事をなんて呼べばいいかしら? シャルロット? それとも……」
「ああ、それか」
そう問いかけられたシャルロットは考えた。
正直分からない。
自分はシャルロットであるけど、今回の件から案外、過去に置いて来たつもりだった様々な物が顔を出していた。
それはオーロラという過去の友達が鍵になり、強引に詰め込んで蓋をしていた扉が解き放たれたのだ。
でももう、さほど難しく考える事はないのかもしれない。
あれからもう、年月が経過しているから。
「シエスタでいいわよ」
とは霧に視線を投げながら言った。
シャルロットの本名は。
『シエスタ・シック・ノワール』という。
もう無くなってしまったノワール王国の名を冠していた。
「……本当に久しぶりに聞いたわ、その名前の響きを」
「オーロラは気に入っていたよね。私の名前」
オーロラは嬉しそうに頷いた。
「あなたと話すときだけだけど、その間だけ私はシャルロットではなくシエスタに戻ってあげる」
とシャルロットは付け加えて言うと、更にオーロラは嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔は美麗ながらも、あの頃の子供的な無邪気さの面影を残していた。
*
お風呂から上がり、あの凄惨な傷跡が残る舞踏会会場へと二人は足を進めた。
抜け落ちたバルコニーへオーロラが歩みを進め、そこから国を薄い目で見渡した。
冬の蒼穹の元に広がる街々には、微かに人の活気がこの場所にも伝わってきている様に感じた。
人の流れが、人の言葉が交わされる。
これが、彼女の統治する国だった。
「……シエスタはいつまでこの国にいるのですか?」
王女は背後に立つシエスタに尋ねた。
「本当は長居はしないつもりだったんだけど、
「そうなんですね」
王女は国を見ながら頷いて、振り返った。
彼女――シャルロットに向かって顔を作った。
「シャルロットさん」
「……何でしょう、王女様」
「オリアナは本当に、今のままでいいのでしょうか?」
その言葉が宙へ投げ出された。
そして言葉は、重く地面に落下して、大きな塊が落ちた鈍い音がシャルロットの耳に届いた。
シャルロットは固唾を呑み込んだ。
王女は今、王女としての責任を果たそうとしているのだ。
「芳しくはないよね」
「ええ」オーロラは頷いた。
「聖都ラディクラムという元凶が去ったにせよ、ここから彼らが残した爪痕を治していかなくちゃいけない。主に辺境の治安問題、孤児問題、犯罪組織やごろつきへの対処。様々な問題がまだ山積みで、明確な解決法は未だない。これから話し合うにしても、問題があまりに膨大だから、時間が惜しい」
「……ええ」オーロラは深く頷いた。
「今のままでいいかと訊かれたなら、ダメだと言わざるを得ない。これは私の感想でもあるし、辺境に住む現地の声を聴いたからこそ言える事だよ」
シャルロットは、出来る限り伝わるように言葉を模索して語った。
今はシャルロット、あのノワール王国の王女にして王国崩壊の中心人物である彼女、シエスタではない。
過去の出来事について今は関係ない。
シャルロットは自身のこれら大罪を重々理解している。
だが友の頼みとなれば、別だ。
「やらなくてはいけないこと、助けなくてはならないひと、捨てるべき物事、拾うべき意見。それをあなたが聴いて判断し、話し合う。政治がどれだけ大変なのかは私も知っているけど、やらなくちゃいけない」
「――――」
「あなたは王女なのだから」
オーロラ・メール・オリアナは、白銀の髪を冬の風に揺らした。
揺らして、ぽつりと零した。
「一貫した思想を人は信じるが。それは真理じゃない」
オーロラはその時、儚げな膜を頭からかぶり、鈴のような声でそれを、読み上げるように呟いた。
「言い方を変えればそれは頑固なだけで、価値観をまったく変えようとしない老人とも言える。もちろん立場とか責任があるのならそれなりに『意思』を貫くべきだが、一人の人間としては、毎日価値観を変えて生活する人の方が、それなりに聡いのかもしれない。固定観念にとらわれ、常識という空想に縋り、忌み言葉みたいに価値観を押し付けるよりかは、ころころ意見を変えたりする人の方がいい。素っ頓狂な思考を持った人、固定観念を疑う人、国を疑う人も、別に悪い人じゃない。問題はそれを、何に向けるのか……」
「父の言葉よ」とオーロラは付け加えて前を向いた。
シャルロットと彼女は目が合った。
「……お父さんの?」とシャルロットが小声で漏らした。
そうしてオーロラは、その言葉で父の遺言を締めくくった。
「――考え続ける。それが凡人にも出来る、素敵な選択である」
静寂が、静かな森林の奥のような純粋な静寂が室内に充満していた。
二人の王女は互いを見つめ合い、そうして静寂の中で意思を交わした。
それは言葉ではない。
それは音じゃない。
それは、形而上的な一種の対話である。
シャルロットは彼女の顔をみて理解した。
(あの子は、責任を果たすつもりなんだ)と。
冬の風が会場を走る。静寂が風に乗せられて逃げていく。
その静寂の退散に、一片の迷いはなかった。
少女たちは最後に笑いあった。あの古い記憶と違わない、無邪気な笑い声だった。