カルとザザがたまたま遭遇したのは、街の栄えた場所にあるとある建物の前だった。
「あ」
とお互いに目を合わせて、近づいた。
「こんな場所で会うとはな、カル」
「そうだね。ザザはどこに行ってたの?」
「適当に歩いていただけだ。散歩だよ」
「ふうん」
「カルは何をしていたんだ?」
「本を買ってきたんだ。あと図書館にも行って、その後にご飯も食べて来たよ」
「図書館もあったのか」
カルは頷いた。
「どんな場所だった?」
「どんな建物? そうだね……ちょっと見つけにくかったよ。僕は本屋さんで訊いて行ったんだ。木造の建物で、中庭に生えた木の根が壁に絡みつく、お洒落な場所だったかな」
「ほう」とザザは興味深そうに呟いた。
「分かった。明日にでも行ってみようと思う」
「案内しようか?」
「頼む」
「明日ね。分かった。ザザも何か本を読みたいの?」
「そういう訳じゃない。俺は建物が好きなんだ」
「……へえ、意外だね」
「意外?」とカルの言葉を繰り返してザザは云う。
「……まさかカルは、オリアナで一緒に散歩したとき俺が楽しんでいないと思っていたのか?」
ザザは隣に立っているカルに訊いた。
「そういう訳じゃないけど、思っていたより散歩が好きなんだって、改めてね? 度合のことだよ」
カルとザザはそのあたりで会話を締めくくり、そうして前方の建物を眺めた。
豪華でキラキラと点滅する電球が縁に一定間隔で設置され、そして巨大な看板には色とりどりな配色でこう書かれていた。
『天才役者ジェイムズが御贈りするリッカーマンの英雄記、愚者行進が今ここに』
「劇場かな?」とカルは首を傾げながら呟くと、ザザはそれを肯定した。
「そうだろう。チケットもそこで売っているな」
「僕、こういうの行った事がないので少し気になるんですよね」
「入ってみるか?」
「いいんです?」
カルはそうやって見上げながら言うと、ザザは何てことなさそうな顔を見せた。
「ダメなことがあるか」
「申し訳ございません、午後の部の席は全て完売しておりまして」
と、左の方でまちまちと人が劇場へ入る中。
カルとザザは看板の下に当たる位置にある売り場で高齢の女性にそう止められた。
「今日はもう厳しいのか?」
とザザが尋ねた。
「そうですね。他の方が事前にとったチケットを譲渡されない限り、恐らくは」
「譲渡?」
「交渉ですよ。あ、もちろん私達が見えない場所でやってくださいね」
どうする? とザザが視線をカルに移す。
「席が全部埋まっているなら仕方ないね。また今度、機会があったらで大丈夫だよ」
「いいのか? 劇場なんて滅多にこられる場所じゃない」
「いいよ」
カルはそう言ってザザを見つめた。
カルの中で劇場というのは確かに興味あるものだが、何も今すぐ見なければ二度と見られないという訳ではない。
今日は単純に突飛な行動でもあったから、こういうこともあるだろうと、カルは割り切っていた。
ザザは「そうか」と云い、女性に軽く会釈をして劇場から後退りした。二人は大通りに進みながら、ふとカルは劇場の前に建てられた看板に書かれた文言に視線を注ぐ。
「天才役者、ジェイムズ。有名人みたいだね」
その看板には『天才役者のジェイムズ』という人物について、
それはもう美辞麗句を並べて解説されていた。
「名前だけは俺も知っている。演技力も卓越している美しい女性だと聞いている」
「女性なんですね。男性っぽい名前だと思っていたけど」
「らしいな。俺も実際に劇を観覧したことはないから知らないが」
カルは意外に感じながらも、ザザと共に劇場から離れて大通りに戻る。
その戻りかけだった。
「お二人さん」
とたん、背後から声をかけられた。
カルとザザが振り返ると、そこにはやけに小奇麗な正装を着て、山高帽を被ったブロンド髪の青年が気さくな表情をして立っていた。
「誰だ?」
とザザが問うと、青年は笑い出す。
「ちょっとお兄さん、怖いじゃないですか。ほら、スマイルですよスマイル。まあいいですけども」
青年は陽気な口調でザザに微笑みを浮かべた。
「えっと、なんの用でしょう?」
カルは彼の言動を不審に想いながらも、首を傾げて訊くと――右手の人差し指を立て、青年はジャケットの内ポケットに左手をゆっくり突っ込み、中から紙切れを二枚取り出した。
そうして青年は、飄々と云った。
「劇をみたいんでしょ? これを無料であげますよ」
*
「道理が分からないな」
最初に口を開いたのはザザ・バティライトである。
「道理かい。それは、僕がこの劇のファンだからだよ。愚者行進。知らないかな?」
青年は僕らの顔を伺った。
そして何かを察して「なるほどね」と納得した。
「愚者行進は偉大なる『杖の貴族』の劇でさ。リッカーマンという人物が記した物でね。あの大戦時、魔術というのが依然として謎の現象でしかなく解明されていなかった時代に、いち早く魔術の仕組みに気が付きそれを用いて大戦を終わらせようとした英雄の物語。それが、愚者行進」
青年の言葉でカルは思い出した。
そういえばエミリアさんの隠れ家で読んだ本に『愚者行進』という小説があったはずだ。
少し前のことだったから、すっかり忘れていたが。
「ファンか。じゃあこのチケット譲渡は布教活動の一環、というわけか?」
ザザが注意深く質問すると、青年は右手を帽子に添えた。
「その通りさ。別に怪しいと思うのなら強制はしないよ。そういうエチケットは弁えているつもりだから」
「怪しんでいることは分かっているんだな」
「もちろんですとも。傍から見たら僕は、唐突に見知らぬ人に布教活動をする怪しい青年だ」
青年はそう云って帽子を右手で取った。
「でも大丈夫です。僕はここらへんだと有名人なんですよ。あっ、誤解しないでください。有名人とは自称しましたけど、言うまでもなくあの天才役者ではありません。僕は、この周辺の道行く人に、愚者行進を布教しすぎて有名なんです」
「ほう」
ザザは青年の言葉をひとしきり聞いてから、相槌を打ってまた青年に視線を注いだ。
「言葉に棘がないな。やけに安心させようとしているように聞こえる」
ザザは眉をひそめ、静かに青年を見据えた。
「……そうでもありませんけどね」
青年はザザの視線を見たうえで、薄ら笑いを浮かべた。
「いいでしょう。僕を疑うのはあなたの自由意志だ。僕はそういう個としての強さがめっぽう好きなんです。世間なんて知らない。自由であり、愚者である。――『変装』はいらない」
青年はザザの疑うような視線を見て、尚も、道化の様に強気であった。
(ザザがここまで疑い深いのは、
きっと司教を恐れているからだろう。
これまでの二度の襲撃は、明らかに事前に情報が洩れているものだった。
だからこうやって、脈絡のない対人トラブルは気を付けるべきだと分かっている。
でもあの人も引かない。
というより、こっちの腹の内を分かったうえで吹っ掛けて来てる?)
「小賢しい言葉だな」
「独り言ですよ。さて」
青年は「さて」というと、唐突に服を叩いて埃を払った。
そうして青年は、カルを見つめる。
「大事な事とは何だろう」
「え?」
「きみにとっての大事ってなんだい。僕は」
「おい」とザザは青年の肩に右手を突っぱね、威嚇するような声で云う。
「僕は『大人である』ことに重きを置いている。これはタイトルだから、内情については事細かく解説をしなくてはならないけど、まあ聴いてくれ。大人になるとね、体のいい嘘をつけるようになって、自分が何をしたかったのか忘れてしまうことがあるんだ。これは残酷だし、極めて卑怯な事なんだけど――」
「いい加減にしろ」
ザザは青年の首元を掴み上げ、声を荒げた。
「卑怯な事なんだけど、それは一般的に当たり前である。これを、都合がいいと言う。でもね、僕は嘘つきが嫌いだ。僕は騙す人が嫌いだ。僕は愛がない奴が嫌いだ。わかるかい?」
「……要は、筋を通せって事ですよね」カルは渋々と答えた。
青年の喋り方は妙な雰囲気であった。
「まあ、大方そういう感じだよ。ニュアンスが多少異なるけども。僕はそんな虚飾だらけの『大人になる』のではなく、『大人である』ことを大事にしている」
「カル、離れろ」ザザは背後の少年に命令した。
だが、カルは既に青年の言葉に魅入られている。
魅入られる。というと、何か特殊な能力があるような言い方になるがそうではない。
これは青年の技である。青年の話術である。
彼は、どうやったら人が話を聞くかを熟知している。
――しているようだった。
「なあ、少年よ。君の心に隠した孤独を、僕は見たいんだ。それをひた隠しにする『大事なもの』も含めてね。信念、意志、足りないね。僕は君の自由意志に問うことが、目的だ」
「それ以上喋るな、布教活動の度が過ぎているぞ」
ザザは腕先から魔術を行使し、青年の胸に青い刃が静止させた。
そして力いっぱい、青年を持ち上げた。
青年は両足を浮かせ、ザザにされるがままである。
青年は不敵に笑う。
「痛いよ、金の亡者」
「――――!」
刹那、ザザ・バティライトは青年を鎌で切りつけた。
だが鎌を召喚し切りつけたときには、青年はザザの腕から消えていた。
同時に空から鳥の羽がいくつも落ちて来た。
周りの大衆はそれを、劇場の演出だと勘違いして盛り上がった。
カルとザザには分かっていた。
それは、あの青年が去り際にばら撒いた物だと。
まるで、何かが消えた証のように。
間もなく鐘がなる。劇場の、開幕の合図である。
*
「ただのチケットのようだ」
「どういうことだろう? 劇場に何か罠があるのかな?」
「どうだかな。あったところで、俺らにはシャルロットがいるし、人目がある場所で目立ったことは出来ない筈だ」
ザザは拾い上げた劇場のチケットを見ながら考察した。
周囲には鳥の羽が散らばっており、大衆はそれに釘付けであった。
ザザの手元にはあの青年から渡されたチケットが、まるで無感情に風に靡いている。
「でも、『失格』の前例があるから、杞憂では済ませられないよ」
カルは左手で右腕を触りながら呟いた。
人目が多いから安全は、確かにもう通用しない。
「ふむ。しかし、あのままあいつを放っておくと危険な気がする」
「どうして?」
「きっと奴は何かをしでかす。というより、あの登場と退場は計算だらけだった。俺の手から逃れるのも、それなりの心構えがあったから可能だった。あいつはほっといていい問題じゃない」
「一旦シャルロットに連絡する?」
「時間がないだろう。あの男が何か企んでいるのなら、この劇場の中だろうからな」
ザザは呆れたような口調で云い、眼前の劇場に視線を注いだ。
「どうする? カル」
「……僕のちっぽけな正義感に従うなら、僕は劇場に入ります。でも、理屈で現状を見るなら、それは適切ではありません」
「確かにその通りだ。様々な恣意的事情を考慮した場合、適切ではない」
「でも……」
カルが呟く。ザザは息を吐いた。
「敵の正体、目的も分からない現状。カルが選べ。俺はそれを尊重する」
「いいの?」
「俺は一人の大人として責任を持つべきだと思っている。大人として子供を危険から遠ざけ、保護して守護する。これが大人の責任だ。だが、俺は生憎カルを子供だと思っていない」
「…………」
「一人の人として俺はカルの意思を尊重する。これは皮肉にも、あいつが言っていた『大事』にすることに同意してしまうがな」
「ザザ……」
ザザはカルを見つめている。
あの無感情な顔が、そこにはある。
でも彼から溢れているオーラは、カルにザザの真意を伝えた。
(ザザは僕がどんな結論を出そうとも、尊重してくれるだろう。
そのコミュニケーションのやり方は、ある意味シャルロットに似ている。
僕は今、ザザからシャルロットのような優しい温もりを感じている。
シャルロットは直接的な救いではなく、間接的に救われることを望んでいる。
それを、ザザも抱いている。
僕はどうしたい?
考えれば考えるほど、僕は危険性を深く理解する。
劇場に入り罠にはまって、司教に連れ去られる可能性。
劇場に入ると壇上に司教があがり、結界術を展開する可能性。
なんだってある。どんな可能性もありうる。
僕が会った事のない司教が待ち構えている可能性だって。
でも僕は、今迷っている。それは、『正しさ』を決めあぐねているからだ。
何が正しいのだろう。
ザザの云う通り恣意的にやるのなら、僕らは劇場に入らないべき。
でも、ザザの云う通り劇場の中であの人は何かをするのかもしれない。
その一抹の不安はきっと消えることはない。
僕は顔を上げた。劇場へと吸い込まれていく人々の表情を追う。
期待に満ちた目、楽しげな足取り。
彼らは何も知らない。ただ、舞台の幕が上がるのを待っている。
僕は、ここで見ているだけでいいのか?)
カルは瞳を瞑って瞼の裏に自分を写した。
自分を観察する。そこにいるのは暗闇で赫怒に踊らされる孤独の少年ではない。
そこにいるのは、シャルロットとザザと対等に話す少年だった。