―――どこか妖しい艶やかな雰囲気を醸し出し始めたイェンリンに、八雲は無意識にゴクリと息を呑む。
「まずは……先に余のことを話していこうか」
イェンリンは脚を組み替えながら、語り始める―――
「―――昔むかし、あるところにとっても汚くて、惨めで、何も持っていないひとりの女の子がいました」
イェンリンの話しに耳を傾ける八雲。
「その子は親もおらず、友達もいない。ましてや助けてくれる人なんてひとりもいない女の子で、時に人から石を投げられ、時に何もしていないのに人から殴られ、時に人扱いされず馬車馬のように働かされ、そして泥のような食事しか与えて貰えませんでした……」
「えっ……その話しって……」
途中、声を漏らした八雲だったが、イェンリンの話しは止まらない―――
「女の子は思いました……ああ、どうして私が私だけが、こんな思いをしなければいけないのだろう。どうして皆、自分を見る目がこれほどまで憎しみに染まっているのだろう。どうして誰も助けてくれないのだろう。どうして、どうして、どうしてと少女はずっとそのことだけを自分自身に問い掛けて、でもいつまでもその答えは出ませんでした」
―――これは八雲がイェンリンと初めて出会った日に闘技場で聞かされた話だ。
「ですが、そんな少女の前に―――突然一匹の龍が現れたのです」
黙って話を聴く八雲にイェンリンは語る。
「その真紅の龍―――紅神龍は少女に御子になって欲しいと伝えます。少女は逆にどうして自分を御子にしたいのかを問い掛けます。そこで紅神龍が伝えた理由に、少女は今までとは違う涙を流しました」
イェンリンは続きを話していく―――
「―――そこから紅神龍の御子になった少女は、その与えられた御子の力を使い様々な戦いを繰り広げていきました。何度も死ぬほどの苦しみと痛み、傷を負いながらも、いつか自分の手に入れたい国を、理想の国を夢見て戦い走り続けました」
―――八雲は話に呑まれて、動くこともできない。
「そうしていつの間にか彼女は『剣聖』とまで呼ばれるフロンテ大陸最強の剣士となり、この世界に並び立つ者のいない強者にまで昇り至りました。それまでに長い長い年月が過ぎて、気がつけばもう百年の時が流れていました」
「……」
「―――その御子はヴァーミリオン皇国で後に王となる当時の王子に見初められ、その後に王妃の位に立ちます。ですが御子は龍の加護により、その龍と同じ寿命を与えられるため愛した人も、仲良くなった友人も皆、寿命を迎えて彼女を置いて逝くのです。そうして何度も大切な人達を看取った悲しみに暮れる彼女に、周辺国がこれ見よがしに戦争を仕掛けてきます。彼女は誰かに自分を殺して欲しかった。でも、彼女は強すぎた……剣の腕も、生きることへの執着も。それから彼女は皇国の皇帝の地位に就きます」
「―――それが……」
「そう……余のことだ。余が産まれたのは、今はもう存在しない亡国の一地方にあった貧しい村だった―――」
―――大陸歴310年……
今から凡そ七百年前に当時は存在した亡国の貧しい村が
―――貧しい家で生きていることが奇跡と思われるほどの過酷な生活環境の中、彼女は生き抜いていく。
―――しかし、突如その村は悲劇に襲われた。
―――そんな地方の村に何処からともなく盗賊達が襲撃してきたのだ。
―――逃げ惑う村人達。
―――その村人に斬り掛かる盗賊達。
―――阿鼻叫喚の地獄絵図と変わった村には血に染まった村人の死体だけが転がっていた。
―――偶然ひとりで山に食物を探しに行っていたイェンリンは茂みに隠れ、惨劇を只々見つめながら震えていた。
―――貧しいながらも助け合って生きて来た村人がひとり残らず殺される光景
―――何より父が血の海に沈むのを、歯を食いしばって見ているしかなかった。
―――そして母が盗賊達に蹂躙されるところを握りしめた拳から血を流して目に焼き付けていた。
―――それは、まだ十を数えた歳になった幼いイェンリンの心に生涯消えることのない深い傷を残すにはあまりにも凄惨な出来事だった。
それから数年後―――
―――イェンリンがどう生きてきたのか、細かい話はなかったが廃村になった村の傍で自分の知識で集められる食物で生き延びていたという。
―――父や母に教えてもらった木の実や野草、簡単な罠を仕掛けて捕らえた小動物を捕まえて生きていたのだ。
―――しかし、そんな生活にも限界はやってくるもの。
―――廃村から一番近い街へと向かうことにする。
―――村人と両親を葬った墓の前で別れを告げたイェンリンは、こうして育った村を出る。
部屋の中でイェンリンの話しを黙って聴いている八雲と、そこまで話して手元にある紅茶に手を伸ばすイェンリン。
「その、今はなくなった国って……」
「今はヴァーミリオンに併合されて一地方になっている」
紅茶を口にしたイェンリンは話の続きを始めた―――
―――街に出たイェンリンは、その街で人が自分からやらないような労働でも、ここで生きるためと自分を殺して汚れ仕事をした。
―――しかし、イェンリンに限らず街の中で下水や汚物の処理をするような汚れ仕事に就いている者への世間の扱いは残酷だ。
―――時に人から石を投げられ、時に何もしていないのに人から殴られ、時に人扱いされず馬車馬のように働かされ、そして泥のような食事しか与えて貰えなかった。
―――ああ、どうして私が私だけが、こんな思いをしなければいけないのだろう。
―――どうして皆、自分を見る目がこれほどまで憎しみに染まっているのだろう。
―――どうして誰も助けてくれないのだろう。
……どうして?……どうして?……どうして?……
どうして?……どうして?……どうして?……どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?ドウシテ?ドウシテ?ドウシテ?ドウシテ?ドウシテ?ドウシテ?―――
どうして!どうして!!―――どうして私が!!!
―――いつまでも答えの出ないイェンリンに更なる不幸が訪れる。
それは隣国との戦争だ―――
―――激化した両国間の戦争は遂にイェンリンのいる街にも戦火が及んだ。
―――火をかけられる家屋
―――略奪を始める敵兵達
―――捕らえられ犯される街の女達
イェンリンの目の前に広がる二度目の地獄絵図―――
―――だが、何もかもが蹂躙されるその地獄でイェンリンは生きることへの執着が込み上げてくる。
―――当時、街の人々から受ける扱いで理性の擦り減っていたイェンリンには自分の中に残った本能だけが表に突出し、その戦火の中で転がり回る様に逃げながら、まだ生きることを続けたのだった―――
―――壮絶な経験の詳しい話が出る度に八雲の胸がグッと掴まれるような気持ちになる。
「―――本当に酷い人生だった……どちらを向いても死体の山だ。だが、それでも余は生きたかった。自分の深層にある何か……本能とでもいうものが耳元で囁いたのをたしかに聴いたのだ―――死にたくない!生きたい!!生きろ!!!……とな」
「……」
その言葉に八雲は返す言葉がないところでイェンリンが話しを続ける―――
―――戦火を逃れ、再び生き残ったイェンリンは、月明りだけの草原を汚れた姿で長い間、彷徨っていた。
もうそこが何処なのか、何処に向かっているのかも分からないイェンリン―――
―――そんな中で夜の静かな湖に辿り着く。
散々逃げ惑ってきたイェンリン―――
―――喉が渇き切っていて思わずその湖に駆け寄り、その水を口にする。
月明りが反射して湖面を輝かせているその湖が、イェンリンにとってはどこか現実離れしていて、そしてまた自分の生い立ちに対して、あの疑問が繰り返される―――
「どうして?……どう……して?……」
―――口から洩れた嗚咽と共に瞳からは次々と涙が溢れては湖面に落ちていった……
だが、その時―――
「そこに―――誰かいるの?」
―――女の声が夜闇に響く。
「ッ!?」
突然聞こえた声に驚き、再び恐怖がイェンリンを支配しようとしている矢先、その声の主は月明りに照らされて現れた―――
―――真紅の美しい髪を腰まで垂らしている見慣れないアンゴロ大陸の巫女服に似たような着物を着ている美しい女。
その美しさに見惚れたイェンリンは、自らの身体を覆い隠すようにして、汚れた身体を隠して恥じる―――
―――何故このような場所にこんな女性が?
―――まるで幼い日に母から聞いた御伽話に出てくる、お姫様のような美しさだ。
―――もしや人ではないのでは?
様々な疑問と己のみすぼらしい姿に混乱するイェンリンを、その女はジッと見つめている―――
「貴女、どうして夜にひとりでこんなところへ来たの?」
―――静かではあるがイェンリンの耳に通る彼女の声は、どこか否定も逃亡も出来ないような何かを感じさせる。
「……せ、戦争で……街が……」
「ああ、そうなのね……もう、始まってしまったのね」
片言のイェンリンの言葉ですべてを悟ったかのように女が呟いた。
「それで此処まで逃げてきたって訳ね。それで……貴女はこれから、どうするの?」
赤い髪の美女にそう訊ねられても、イェンリンには答えられない……
「貴女、行く宛てはあるの?」
そう訊ねられたイェンリンは、ポツリポツリと今までの自分の経緯を話し始めた……どうして会ったばかりの女にそんな話をしたのか分からない。
だが、すべてを正直に話さなければならない―――
―――その衝動だけが自分の中から湧き出てくる。
そうして、すべて話し終わったところで―――
「そう……それは、とても辛いことだったでしょう。貴女のことをすべて分かってあげることは出来ないけれど、辛い経験をしたことだけは分かってあげられるわ」
―――そう告げられた時、イェンリンの中で何かが爆ぜた。
「あ、貴女の、貴女のような美しい人には分からない!!!だって、わた、私は、わたしは―――醜いからっ!!!!!」
街の者達に何度も言われて、そして石を投げられ罵られてきた記憶が甦ってきて、その感情が思わず彼女の同情を示す言葉に爆発してしまった。
憎しみも悲しみも苦しみも嫉妬も欲望も憎悪も、何もかもが入り混じった色をした瞳を女に向けるイェンリン―――
―――しかし女はその瞳を黙って受け止めて、見つめ返しながら地面に座り込んでいるイェンリンに視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
『―――貴女は美しいわ』
「……えっ?」
一瞬、女に何を言われたのか分からなかったイェンリンだったが、女は続ける―――
「生きることを渇望し、心の声に従い、今この時まで生き延びてきたこと。それは生物として清く正しいこと……貴女の生きて来た人生は輝かしいくらいに美しい。私がそれを認めましょう」
―――そう言って泥に塗れたイェンリンの頬にそっと手を差し伸べる女。
「貴女、お名前は?」
優しい口調でそう問い掛けてくる女に、イェンリンは―――
「……
―――と答えた。
「そう……では、
「……御子?」
思わず訊ねるイェンリンの前に女が立ち上がる―――
「我が名は紅神龍クリムゾン・ドラゴンなり……フロンテ大陸北部ノルドを縄張りとする神龍の一柱。
―――立ち上がったその女、紅神龍クリムゾン・ドラゴンの髪が燃え上がる様な光を放ちながらイェンリンを見下ろしている。
その神々しい姿にイェンリンは全身が震えるのを感じていた。
「……な、何故……私を御子に?」
この大陸に生きる人間で四柱の神龍と神龍の御子を知らない者などいない。
幼い時に親を失い、ほとんど学のないイェンリンですら知っているくらい神龍の御子は神聖視される存在なのだ。
そんな存在に自分が御子にならないかと言われ、困惑するしかない……
―――何故なら、自分は醜いからだとイェンリンは考えていた。
だが、そんなイェンリンの疑問に紅神龍は答えた―――
「生きることを決して諦めない強さを持つ貴女は、とても美しくて―――愛おしいから」
―――殺された両親にすら生前言われたことのない言葉だった。
だが、その一言でイェンリンの瞳から溢れる涙は、今まで感じたことのない感情が心を埋め尽くして溢れていることだけは理解していた―――
―――そこまで話し終えて、
八雲に語っていたイェンリンが再び紅茶に口をつけた。
「―――そうして余は紅蓮の御子となり、それからは
「正直、壮絶な話で驚いた……」
黙って聴いていた八雲にとってはまさに異世界の話しそのものだった。
盗賊に襲われる村……戦争に巻き込まれる街……何もかもが八雲の人生には関わりの無かった話なのだから。
「そうして百年修行している間に、紅蓮や義姉妹達とこのフロンテ大陸の彼方此方を巡った。この屋敷もその時に買ったひとつだ。そうしてヴァーミリオンに戻った時、紅龍城を訪ねて来た者がいた。それが……余の伴侶になった男だ」
伴侶……つまりはイェンリンの夫になった男であり、ヴァーミリオン皇国の三大公爵家の源流となる三人の王子の父親である。
「名をフレント=ラグル・ヴァーミリオン……当時のヴァーミリオン皇国第一王子だ」
「その人が訪ねてきたと?」
「そうだ。フレントはとても頭の良い王子でな。どうすればヴァーミリオンの未来を明るく、堅固に出来るのか?そればかり考えているような男だった。そのためにはどんな手段も選ばない……そんな男だったよ。そんな男だからこそ、既にその時には剣で並ぶ者無しと謳われた余のことに強い興味抱いていたそうだ」
「でも……イェンリンの力が欲しいだけって理由だけで嫁になったりしないだろう?」
「無論だ。それに余はその時、自分より弱い男などに興味もなかったからな!」
「それでも、結婚したんだ?」
「ああ……本当に今でもよく分からないヤツだったよ。だが、フレントを心の底から愛おしく想っていたし―――今でも想っている」
そう言い切ったイェンリンの言葉に八雲は胸の奥がギュッと締め付けられるような痛みが走る。
「まあ、そこからはヴァーミリオンの歴史書にも載っているような戦に次ぐ戦に明け暮れて、気がつけば余の生まれた国を始め、近隣諸国を併合して北部最大の国家にまでなったという話だ。これが余の話しという訳だが……八雲、ちょっとこっちについて来てくれ」
ソファーから立ち上がり、八雲に手招きをするイェンリンが向かったのは隣の部屋に繋がる扉だった。
イェンリンに言われるまま、突き従った八雲もその扉から隣に入るとそこには―――
真っ赤なシーツに天蓋が付いている大きなベッドが鎮座していて、そのベッドの前まで進んだイェンリンがゆっくりと振り返った。
「さっきの話を聞いて……かつては他の男の妻だった女を……それでもお前は憎からず想えるか?」
―――突然のイェンリンの言葉に八雲は驚くが、浄化清浄の泉でイェンリンに対する想いに気づいた。
それが自分自身の本心だということをもう一度この場で確認してから、自らを律してイェンリンのその問いにゆっくりと答える―――
―――それは七百年前にイェンリンと出会った紅蓮が感じていた
イェンリンの生きることへの美しさと―――
「俺はお前を―――愛している」
―――その存在への愛しさだった。
ただ一言、その言葉だけしか今の八雲には思い浮かばなかった―――