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第38話 記憶の男

「それは辺境伯令嬢の御命令ですか?」

「いいえ、お願いです」


 ここで話を主導するのはゼムリャだった。

 バルバラは普段と違い、更に質素な――少年の格好をしているので、お付きの一人としか見なされていないだろう。

 ゼムリャはアマイデ妃がこれでもかとばかりに送ってくれている服の中から新しい街着を選んで着ていた。

 それにしてもやはり何処かで見たことがある気がする。

 何だろう。

 いや、この感覚は少し掘り下げた方がいい。

 俺が「何処かで見たことがある」なんて相手自体がそうそう居る訳ではないのだ。

 知っている人間なら名前と顔は大概一致させている。だから会ったことが少ないが、印象に残っている人間。そして最近ではなく、昔。

 記憶をたどる。

 その間にゼムリャは話を進めて行く。


「令嬢はぜひ国境近くの場所にも館が一つあればいい、とおっしゃっているのです。幸い調べたところ、現在あの館には誰も住んでいないということ。しかも他の領地の間にぽつんとあるだけと聞きます。でしたら現在自宅を王都付近にお持ちということでしたら、お譲りいただけても良いのではないですか?」

「しかしあそこはかつての侯爵が大切にしていた館。いくら跡を継いだとしても、周囲が納得しませんでしょう」

「そうですか。それでは一族の方々が了承すれば宜しくて?」


 ランサム侯爵は少し考えると、返事は少し待って欲しいと答えた。


「もし親戚方の反対があるならば、こちらの名を出せば大丈夫かと思いますが」

「判ってはおります。ですが少々お待ちください。気持ちの整理というものが」 


 その日はそれで我々は退散した。

 すると帰り道でバルバラが俺に問いかけてきた。


「なあ」

「何ですか」

「ずいぶんいつもと違って困った顔しているが、どうした?」

「そう言えば、いつもより複雑な表情ですね」


 果たしてそれは心配されている言葉なんだろうか。


「いや、プレデト・ランサム侯爵ですがね、俺何か見覚えがある様に思えて仕方が無いんですが…… 糞、思い出せない」

「私は特に思わなかったぞ? だけど思い出せないでじりじりするってのは、こっちに来てからじゃないんだろう?」

「だと思いますが」

「で、私にはそういう感覚は無かった。私はお前が十歳の時からずっと一緒に居るが、そうでない時の誰かか?」


 言われてみれば。

 バルバラと一緒で無かった時で、印象に残る様な人物。

 まあ帰ってからゆっくり考えろ、と立ち止まりそうになった俺をバルバラは背中を強く叩いてうながした。


 戻ってから茶を飲みつつ、俺は記憶をひっくり返す。

 十歳の時以前――いや、そんなひとは居ない。

 あの頃一番印象に残っている男性は、やはり館で初めて出会った人達と、領主様だ。

 その後。

 それからは殆どの時間をバルバラと過ごしていた。

 何せこのお嬢は、護衛騎士に交じって剣や体術の稽古もする。

 食事にしても、夜はともかく昼は一緒にすることが多かった。

 どんどん時間を現在に近づけていく。

 セルーメさんが来た時?

 あのひとに関しては、二度来ているけど、二度目が長かったから、会えばすぐに判る。

 そうでない印象的な男。

 セルーメさん。


「あ」


 俺は一つの出来事を思い出した。


「お嬢が知らない、俺の記憶の男、一人居ましたよ」

「誰だ」

「セルーメさんがたぶん脱走させた、ラルカ・デブンですよ」

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