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第26話

8-3


 6月9日、午後1時。

 ちょうど春咲はるさきアリスの事情聴取が始まったのと同時刻。


 自宅にいた保坂絵里ほさかえりは、ほんの少しだけ安心していた。

 ――これで、大丈夫……

 ――あの刑事さんはちょっと怖くて苦手だけど、刑事さんが来たってことは、私は保護される。守ってもらえる。今度こそ、ちゃんと、守ってもらえる……

 ――他の子とは、若葉わかばとは違う。守ってもらえるんだ。

 ずっと気になって、叩かれているのは分かっていたのに見ていたネットは絶ち、通知も切った。

 それでも全てから解放されたわけではないが、少し前に比べればマシだ。

 だって――


 ――ピンポーン


 ドアベルが鳴り、絵里は顔を上げた。

「やった、やっと来てくれた」

 すぐさま玄関扉に向かうが、その前に念のため扉の覗き穴から外を伺う。

 扉の前に立っていたのは、すらりとした品のある男性だった。

 背が高く、爽やかそうな印象の好青年。

 先程きた白石秋羽しらいしあきばという刑事とは違った、明るい雰囲気があり、安心感のある大人。

「はぁ、良かった」

 絵里は安堵の溜め息を吐いた後、ドアのチェーンを外して扉を開ける。

「どうも。保坂絵里さんですね?」

「はい、待ってました……刑事さん」



「さあ、早く中に!」

 ネットニュースやSNSによる拡散で、絵里の個人情報はかなりの人に知られている。実際、近所でも白い目で見られ、母親は日に日に不機嫌になっていく。

 だから絵里は、外が怖かった。

 ――誰からも、見られたくない……

 そう思いながら、絵里は早々に扉を閉めようと、刑事の青年を中に招き入れようとする。

 が、刑事の青年はそれを手で制する。

「いえ、中には入るわけにはいきません」

「え? でも……」

「だって、入ってしまったら痕跡が残ってしまうじゃないですか」

「え……それって、どういう意味ですか?」

「あぁ、心配いりませんよ。すぐにすみますから」

 そう言って刑事の青年の背後から、ある人物がひょこりと顔を出した。

 刑事の青年が高身長なため、最初は気付かなかったが、ずっと彼の後ろにいたようだ。

 ――あれ、この人、どこかで……

「ところで、保坂さん。あなたの望みは、今置かれている状況からの救済、であってますか?」

「え、ええ、そうですけど」

 刑事の青年の問いかけに、絵里は驚きながらも頷いた。

 ――何で急にそんなことを?

 ――そんなの、聞かなくても分かるでしょ。だって私は……

「……巻き込まれただけ」

 絵里が心の中で思った言葉を、刑事の青年が呟いた。

 それに、絵里は俯きかけていた顔を上げた。

「グループから省かれるのが怖かったから従っただけ。仲のいい友達を裏切ることができないから同調しただけ。ただ一緒にいた子がいじめに加担していただけ。それから……いじめられた方にも問題があるのに、そっちは無視で、こっちばかり貶めてくる……であってますか?」

「あ、えっと……」

 それは紛れもなく絵里が思った事だった。

 しかし数時間前の赤西茉莉や白石秋羽の言葉を思い出すと、頷けなくなる。

 ――私は悪くない。巻き込まれただけ……その考えは変わらない。だけど……

 ――何で、こんなにも胸が締め付けられるんだろう。

 その感情の正体を、絵里は知っていた。

 いじめられて、学校にいられなくなった時に両親が「絵里ちゃんは悪くないよ」って抱きしめてくれた時。

 いじめから逃れるために違う中学に通うために買ったばかりのマイホームを捨てて引っ越しを決めてくれた時。

 そのせいで、朝早く、夜遅く、多忙な日々を送っている両親の姿を見ていた時。

 幼い頃の絵里は、たしかに感じていたもの――


 それは、罪悪感。


 自分がきっかけで、両親に負担を強いてしまったから、幼いながらも責任を感じ、罪悪感を持っていた。

 しかし時間が経過するにつれ、罪悪感は甘えに変わり、「親なんだから、私を守るのは当然だ」「私は被害者なんだから、守られて当然だ」という考えに変わった。


 ――何で、今になって……私は、悪くない……悪くない、はずなのに……

 ――だって私は守られなかった! 守ってくれなかった!

 ――だから、しょうがないじゃない。だって悪いのは……!


「また、悪人探し?」

 ふいに、刑事の青年の後ろに隠れていた人物が問うた。

「あなた、そういう所、本当に変わらないのね。いつも、そうやって、都合の悪いことを誰かに押し付ける。あなたも、中上若葉も……みんな……誰かに責任を取ってもらおうとする。そんなんだから、殺されちゃうんだよ」

「はあ!? 何であなたにそんなこと言われないといけないの!」

 絵里は「相手」を睨みつけるが、対する「相手」は無感動な目で自分を見るだけであり、薄気味悪さを感じた。

「ち、ちょっと、刑事さん。何なんですか、この人……」

「ほ~ら、そうやってまた目を逸らす。困ったら、誰かに頼る癖……まだ直ってないんだね」

「え? なんなの、あんた? さっきから……」

 絵里はそこまで言いかけた所で、言葉を止めた。正確には、言葉が出なかった。

 何故なら、「相手」が

「がはっ」

 口から大量の血痕が飛び出した。

それが自分の吐き出したものだと理解するのに、少しだけ時間がかかった。

 ――え、何で……私、今……ささ、れた?

 思考が追いつかず、遠のく意識の中、理解よりも早く身体の方に異変が訪れた。

 背中から倒れる絵里の身体に馬乗りになり、その人物は何度もナイフを突き刺す。その度、鈍い音と共に血痕が周囲に散っていく。

 ――あ、お母さんが好きな、玄関マット……汚れちゃう……

 朦朧とする意識の中、絵里の脳裏に浮かんだのはそれだけだった。

 そして止めようと腕を持ち上げようとするが、指先ひとつ動かせず、絵里は視線だけを動かした。

 鬼の形相で自分を突き刺す殺人鬼と、それを血痕で汚れないように数歩下がった所で見ている刑事の青年。

「どう、して……」

「どうしてって、何を今更……」

 枯れた声を絞り出して問うと、刑事の青年は嘲笑するように答える。

「そんなの、今まで、君の平穏のために犠牲になった子達だって、散々思ってきたことでしょ。まあ、因果応報ってことで」

「……っ」

 声を荒げたいのに、その声すら出ない。

「あぁ! お前のせいで! お前のせいで! お前のせいで! お前のせいで!」

 目の前で、深い憎悪を宿した目で何度も刺す人物を見つめながら、絵里の意識は徐々に遠ざかっていった。

 もう痛みすら感じないほどに。


 ――『絵里ちゃんは、悪くない』


 ふいに脳裏に、いじめから助けてくれた母親の言葉が浮かんだ。


 ――何で、今さら……

 ――守ってもらえなかった、なんて……誰も助けてくれなかった、なんて……

 ――ちゃんと、大事にされていた、のにっ……

 ――ちゃんと、守ってくれていたのに、私がそれを裏切ったんだっ……


「ごめん、なさっ……」

 もうすぐで自分は死ぬ。

 それが分かりながらも、希望を捨てられず、絵里は小さな声で助けを求めるように呟いた。

「おかあ、さん……」

 最後に出た言葉が、やけに静かに響いた。


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