私が、コーヒーの用意を終えたころ、着替え終わった先輩がやってきたの。
神速で髪を整え、私服に着替えた彼がやってきたとき、これがさっきまでの彼と同じ人なのかと信じられなかったわ。
白い麻のおおきめなシャツに黒のズボン。
髪はとかされてはいたけど、ストレートのまま。
普段とはぜんぜん雰囲気が違う、ラフなスタイル……。
役者さんの日常って、こんなかんじなのかな、って思うような、シンプルなのにとても美しく感じる容姿。やっぱり素材がいい人は違うわね。
でも、演技はやっぱり大根だと思うの。
学院にいる時の彼は、長すぎる髪をゆったりと編んでリボンで結んでいることが多いわね。結んでるだけ、とかストレートの場合はきっと寝坊した時かも。
そして師範科の制服の上から白衣を着ているわ。師範科の制服は私たちとは違って、デザインがもう少し大人っぽい? っていうのかな。学生というより学者さん的なデザインね。まあ普段は白衣でほとんど見えないけど。
「おかえりなさい、先輩。コーヒー淹れたわよ。座って」
「ありがとう、ミラ。待たせたね」
「ううん。むしろ思ったより早かったかな」
「うう~~ん、いい香りだ~。目が覚めるよ、ミラ」
先輩は、質素なダイニングテーブルの上に並んだカップを眺めると、すっと目を細めて微笑んだの。
それは、普段の繕ったわざとらしい笑顔ではなく、素顔の彼に見えたわ。
このひと、いつも芝居じみた行動ばかりするわりに、実は演技が下手なのでは? って思う。だって私に見破られてるもの。
まあストーカーしてるのもバレバレだったから、私に隠し事するの全然向いてないんじゃないのかしら。
そして先輩はダイニングセットの椅子を引くと優雅に腰かけ、テーブルに両肘をついて指を組み、その上に尖った顎を載せると、微笑みながら私を見つめたの。
これはさすがに芝居がかってるって思うけど。
……ん? 何か違和感が……。
「先輩、眼鏡は?」
彼はくすりと笑って、
「気が付いた? あれは伊達眼鏡。あった方が助手っぽいでしょ?」
「助手っぽさを出すためだけにかけてたの⁉」
まさか、それっぽさを出すためのアクセサリーだったなんて。
呆れた人だわ。
「うん。かけた方が君の好みなら……」
「む、無理にかけなくてもいいよ」
「そうかい? ふうむ……」
と言って、先輩は残念そうな顔で私の淹れたコーヒーを啜り始めた。
「ん……。美味しいね。ありがとう」
「良かった。うちじゃお父さんくらいしかコーヒー飲まなくて、ときどき私もお手伝いで淹れてたんだけど、上手にできたかどうか、ちょっと心配だったの」
「大丈夫。ミラはちゃんと上手に淹れられてるよ」
「よかった~。ありがと、先輩」
「うん」
私たちはコーヒーを飲みながら、私が持って来たイモヨーカンを頂いたの。
無言で。
だってなんか話しづらいし、先輩も話さないしで。
だけど飲み終わったら追い出されちゃうから、なんとかしなきゃ。
「ねえ……先輩は私のどこが好きなの?」
「⁉」
先輩は口に入れようとしたイモヨーカンを落としちゃった。
「い、いきなりどうしたの? ……全部だよ」
先輩は、白い肌をほんのり染めて、はにかんだ。
「ごまかさないで! おかしいじゃない。先輩みたいな大人が私なんかに入れ込んで……」
「えええ……。ホントに純粋に好きなんだけど、それじゃあダメなのかい?」
好きなのは分かるけど、何で好きなのかが分からないから困ってるんじゃない!
「納得のいく理由を教えて。じゃないと私、帰らないから」
先輩は、ふぅむ、と顎に手をあてて暫し思案を巡らすと、
「……知りたい?」
と意味深な顔で言って、隣の部屋から一枚の写真立てを持って戻ってきたの。
彼はダイニングテーブルの上に写真立てを置いて、私の隣に椅子を置き直して腰かけたの。そして、そっと写真立てを私に手渡したの。
「一緒に見よう、ミラ」
「ええ……」
「……先輩と、お母様?」
「ああ。母はこの写真を撮ってすぐ病で亡くなった。ここを見て」
と彼が指さした先には、柄織物の民族衣装を
私はこのお人形のこと、よく知ってる。
だって、うちにもあるから。
その人形の名は――
「ヤシマ・ドールだわ」
それは、私の両親の故国「
先輩と初めて会ったとき、彼が私に向かって言ったのよ。『ヤシマ・ドールがしゃべった』って。確かに私の髪はヤシマ・ドールみたいに黒く長くて、そして眉の高さで真っ直ぐ切ってあるけども。
でもそれと、彼が私を好きな理由との間に、どんな関係があるの?
「このヤシマ・ドールはね、母の形見だったんだ」
「そうだったの……」
「母が他界してから数年後に父が再婚してね。新しい母親が、懐かない僕への腹いせに、この人形を捨ててしまったんだ。写真だけは死守したけどね」
「ひどい……」
「僕はそれ以上、継母にいじめられないようにと、家では息を潜めて生きていた。父は僕の味方になってくれないし、そんな気もなかったようだ。そして、父と継母との間に子供が出来ると、僕への関心は全くなくなり、やがて成長した僕は寄宿舎のある学校に入り、もうそれきり家には戻らなかった」
先輩はあまり家庭に恵まれてなかったのね。
だからあんなにうちで食事をするのを喜んでいたのね……。
でも、不幸な過去を淡々と語りながら、写真を見つめる彼の細い横顔は、不思議と悲しそうじゃなかったの。
「この人形を無くしてから、僕の心には長らく大きな穴が空いていたんだ。でもね……」
彼は写真立てを私の手から、そっとテーブルの上に移すと、潤んだ瞳を私に向けた。
「やっと見つけたんだよ。僕だけの『ヤシマ・ドール』をね」
「……私が、貴方の、人形?」
彼は愛しさに満ちた眼差しで私に微笑むと、私の手を取り静かに頷いた。
「済まない。どう思われるか心配で、今まで君に言い出せなかったんだ……」
「そうなのね。でも、大丈夫よ、先輩」
彼は小さくうなづいた。
「君を学院で見つけてから、僕は君から目が離せなくなってしまったんだ……」
「だからストーカーしてたのね?」
「うっ、気づいてたのか……」
「うん。でも、誰に言っても信じてくれなかったのよね」
「それは……済まないことをした」
「正直こわかった」
「ごめんよ、ミラ。怖がらせるつもりはなかったんだ……」
「もういいわよ」
「ところで、ストーカーしてるのに気づいていたのに、どうして僕と交際をする気になったんだい?」
「クリスに強くおすすめされたのもあるけど……影でこそこそつけ回されるよりよほどましだし、ボディガードもしてくれるっていうから、かな」
「ぐふっ……。でも、側にいさせてくれて本当に良かったよ。日々被害者は増えているからね」
「確かに、お父さんも安心してたし。護ってくれてありがとう、先輩」
「こちらこそ、護らせてくれてありがとう、ミラ」
私の方こそ、本当にありがとう、先輩。
やっと貴方の本心が聞けて、今日、ここに来てよかった。
やっと、もう一歩、貴方に踏み出せる気がする。
「それじゃあ、ちゃんと君に説明するね」と先輩は言った。