唇を噛み締めると、横にいたヴィンセント様が控えていた使用人へと視線を送った。
使用人は蓋の開けられた箱を差し出した。そこには、赤い布に包まれたものが置かれている。
「証文とは、これのことか?」
ゆっくりと布が払われると、封蝋のされた手紙が日差しを浴びてきらりと光った。
丁寧に切られた上辺から、ヴィンセント様は便箋を取り出す。そうして、そこに書かれた一言を読み上げた。
「子ども達が成人するまでのことは、ケリーアデルに任せる」
ヴィンセント様の静かな声を聞いたケリーアデルは、口角をあげて「そうよ!」と叫んだ。ほら見なさい。私が正しいのよといいたそうね。いいえ、きっとそういうわ。
だって、これがあなたの切り札でしょうから。
「そこに書かれていることが真実よ! 私はあの人に、子どもたちを任されたのよ。だから、私の承認のない結婚なんて無効よ!」
形勢逆転だと言わんばかりに、ケリーアデルの高笑いが響く。
だけど、彼女以外は誰一人として笑っていない。
無能の呪いに囚われていた私だったら、この偽りだらけの手紙に縛られていただろう。
でも、今はこれが真実だなんて欠片も信じられない。
だって、ここに綴られた文字は、お父様の字と似ても似つかないもの。捺された封蝋だって、お父様の印章じゃない。
どうして、我が家の誰もがこれを本物と思い込んでいたのか。
「この封蝋は、我がレドモンド家の印章ではありません」
「──!?」
「亡きレドモンド卿が、異なる印章を捺すとは思えない。ケリーアデル、お前は大きな過ちを犯したな」
ヴィンセント様の声には、確かな圧があった。それにたじろいだケリーアデルは唇を噛む。
「封を開けようとしたとき、貴女はお父様から預かった証拠だからと、封蝋が砕けないように開けるよう進言されたそうですね。当時、立ち会いの場にいた使用人が教えてくれました」
「……当然でしょ! それがなかったら、中身が夫の書いたものと認めないって言われかねないわ。亡くなる前、あの人は字を書くのもやっとだったのだから!」
「……お父様に無理やり、書かせたのですね」
「違うわ。あの人は自分の意思で書いたのよ!」
こんな、ミミズが這ったような文字、誰がお父様のものだと信じるの。あれほど厳格で姿勢正しく生きてこられたお父様の、最後の文字がこんなものだなんて。
私の頬を、冷たい雫が落ちた。
言葉をつまらせた私の代わりに、ヴィンセント様がひときわ低い声でケリーアデルに告げる。
「よく書かせたものだな。しかし、それがお前のしでかした過ちだ。本人の意思で書かれていない文書は認められない」
「夫の意思よ!……私は夫の遺志を守ってきたのよ!」
あくまで、中身を正規のものだと言い張るケリーアデルに、私は深く息をついた。本当に、この人は救いようがないわ。
「中身はお父様の字とは思えない酷いものです。でも、当時のお父様はペンを握るのもやっとだったでしょう」
「そ、そうよ! どうせ、綺麗に書かれていたら、それだって書かせたというのでしょ。お前は、私のいうことが聞きたくないから、デタラメばかり並べているのね。本当に、無能だわ!」
「中身が本物かは、この際、どうでもいいことです」
「……何をいってるの?」
「この封蝋が偽物であると認められた時点で、文書は無効となります」
「──っ!?」
「もしも、この封蝋が砕けるように開けられていたなら、偽造であると気付けていませんでした」
封蝋をケリーアデルにも見えるよう、私はそっと封筒を持ち上げた。
そう、当時は誰も気づかなかった。
私はまだ幼かったから見せてもらえなかったし、お姉様やダリアのお父様ですら気付けなかった。それくらい丁寧に偽造された印章なのだろう。
「……偽造……そ、そんなこと、私は……知らない! 知らないわ!」
「当時、受理した役人の目を誤魔化せるほど、精巧に作られたものです」
「ほん、もの? 本物って……」
ガクガク震えるケリーアデルは、ちらりとペンロド公爵夫人の方へと視線を向けた。夫人が助けてくれるとでも思っているのだろうか。
しかし、夫人は黙ってことの次第を見守る姿勢を崩しはしなかった。
「本物と並べても、私には違いが分からなかった。役人が気付かないのも仕方のないことだろう」
「承認を得た当時、お姉様も気付きませんでした。その手にとって見ることは叶わず、すぐに鍵をかけてしまわれてしまったので、その後、調べる者はいませんでした」
ケリーアデルとしては、この封蝋が本物の証だと思っていたから、割れないようにしまいたかったのだろう。
「本当によく似ています。でも、紋章を飾るバラの葉が少し違うんですよ」
これを作らされた職人が誰かは分からない。おそらく、脅されて作ったたのだろう。その人が、わざと微妙な違いを作ってくれたのかもしれない。偽の印章を作ることへの、せめてもの罪滅ぼしだったのかもしれない
よく見なければ気づきもしない、小さな切れ込みのあるバラの葉から、懺悔の声が聞こえてくるようだ。