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第十五話 記憶の枷

 羞恥心にうずくまっていたイリアは、しばらくすると落ち着きを取り戻したのか、顔を上げた。

 緊張した面持ちで、引き結んだ唇を動かしては閉じている。


 何か話したい事があるのだろう。

 ルーカスはじっとイリアの言葉を待った。



「……私、自分の事が知りたいです。

 でも、思い出そうとすると、頭痛がして頭が真っ白になって……ダメなんです。思い出せないんです。

 だから、もし良ければ……ルーカスさんが知っている私の事を教えて頂けませんか?」



 切実な思いを乗せた瞳が見つめて来る。


 だが——。

 ルーカスは惑った。


 教えるのは簡単だが、それが果たして彼女のためになるのだろうか、と。



(イリアは……教団の魔術師兵として、戦いに身を投じて来た。女神ののこした意思に従って、困難を打ち破り、人々を守るために。

 ……それこそ、自分が傷つく事もいとわずに)



 始めこそ自分の事を覚えていない事にショックを受けたが、今は違う。


 彼女の背景を知っているだけに「何も知らず、忘れたまま生きた方が幸福しあわせなのでは?」と、考えてしまっていた。


 しかし、一方的な思いを押し付けるのは、彼女の意思に反する事だ。

 なればこそ、ルーカスは問う。



「……聞けば、知らずにいた方が良かったと、後悔するかもしれないぞ」


「何も知らず、後悔する方が嫌です」



 イリアは揺らがない勿忘草わすれなぐさ色の瞳を向けて、言い切った。


 彼女の気持ちは理解出来る。

 もし自分が逆の立場だったら、ルーカスも同じ選択をする。


 どちらにしても後悔するのなら、全てを知りたい——と。


 「それに……」と、表情にかげりを見せたイリアが言葉を続ける。



「胸がざわつくんです。何か、やるべき事があったはずなのに、思い出せなくて、苦しくて……!」



 ぎゅっと胸を押さえ、端麗たんれいな顔立ちを悲痛な面持おももちへ変えてゆく。



「私は知りたいんです。この感情がうったえるものが何なのか。

 いえ、思い出さなければいけない……!」



 表情とは裏腹に勿忘草わすれなぐさ色の瞳は、確固たる意志を宿やどして強く輝いている。真実を恐れず、答えを求めて。



(……イリアがそれを望むなら、俺はこばめない)



 ルーカスはイリアの思いを無下むげに出来ず、溜息を吐き出した。



「……わかった。話すよ、俺が知る君の事を」


「あ……ありがとうございます」



 イリアの表情が幾分かやわらいだ。

 自分が何者か知り得ないというのは、きっと思ったよりも彼女の不安となっているのだろう。


 話をする前に、ルーカスは給仕の侍女達に下がるよう指示を出した。

 彼女の正体とそれにまつわる思い出は、誰彼構わず聞かせていい話ではない。


 侍女達は速やかに退席した。ルーカスは足音が完全に聞こえなくなったのを確認すると、「それじゃあ……」と話を切り出す。


 イリアは緊張しつつも期待をにじませて、こちらの話に耳をかたむける。



「……俺にとって君は、友人であると同時に恩人なんだ」


「恩人ですか?」


「ああ」



 思い出すには少し辛い記憶がルーカスの胸を痛ませた。

 イリアを直視する事が出来なくて、ルーカスはうつむいてしまう。



「絶望のふちにいた俺を、君の歌が……いや、歌だけじゃない。君自身に、俺は救われた」



 出会いは——悲劇。

 一面が赤に染まり、絶叫と、横たわる死と、鮮血にれるまわしい戦場の記憶が蘇る。


 奪い奪われ、絶望と怨嗟えんさが支配するそこに差し込んだ希望。

 それが彼女の歌。


 戦場に響く希望の歌声——。



「君は詠唱士コラール。歌で希望を運び、戦場を駆ける者。そして——」



 ルーカスは告げる。

 彼女が何者であるのかを。



「君は教団の使だ。授かった力を振るい、使命にじゅんじて生きる女神のしもべ。人々は畏敬いけいを込めて〝旋律せんりつ戦姫せんき〟と君を呼んでいる」



 それを聞いたイリアは——。


 ——イリアからは、何故か反応がなかった。



(何故、何も反応がないんだ……?)



 ルーカスは伏せた顔を恐る恐る上げ、視線をイリアへ向けた。


 飛び込んで来たのは——苦悶くもんの表情を浮かべ、両手で頭をおおう彼女の姿。

 歯を食いしばり、声を上げる事も出来ない様子だ。



「イリア!?」



 異変を感じ取ったルーカスはイリアの元へ駆ける。

 椅子が音を立て倒れるが、気にしている場合ではない。


 イリアがバランスを崩し、銀糸をなびかせて椅子からすべり落ちる。

 ルーカスは彼女が床に倒れる寸前のところで受け止め、そのまま抱きかかえた。



(一体どうしたんだ……!?)



 ひたいから冷汗ひやあせを流し、しきりに頭を押さえて苦しむイリアからうめき声が聞こえる。



「う、ぐっ……あ……た、まが……」


「痛むのか!?」



 わずかに首が縦に振られる。

 固く閉じられたイリアのまぶたからは涙が伝っていた。


 目覚めた直後もこのように頭痛を訴えた事をルーカスは思い出す。

 そしてその時、ファルネーゼ卿が「無理に記憶を取り戻そうとしてはなりません」と言っていた事も。



(……く、迂闊うかつだった)



 因果関係はハッキリとしていないものの、これは明らかに自分の浅慮が生んだ結果だ。

 ルーカスはギリッと奥歯を噛み締めた。


 彼女の身に何が起きたのか原因を探る事も、痛みを和らげる術も自分にはない。



「誰か! ファルネーゼきょうを——いや、リシアを呼んでくれ!」



 痛みに苦しむイリアを抱き締めて、ルーカスは声の限り叫んだ。

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