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第十七話 揺れる勿忘草色の瞳

 静かな部屋の中。

 差し込む夕日とそよ風に撫でられながら、ルーカスはベッドの横の椅子にもたれて書類を読みふける。


 本当は後の事を姉妹達とリシアに任せて出勤すべきだったのだが——。


 ルーカスには出来なかった。

 呪詛という不安要素を知らされた今、イリアを残して行くことなど出来はしなかった。


 ふと、視線をイリアに向けると。

 固く閉じたひとみがゆるゆると開かれるのに気付いた。


 ルーカスは手に持った書類をサイドテーブルへ置いて、立ち上がる。

 瞼が完全に開かれると勿忘草わすれなぐさ色のまどろんだ瞳が宙を彷徨さまよい、覗き込んだルーカスの瞳と視線が交わった。



「……ルーカスさん?」


「おはよう。気分はどうだ?」



 状況を飲み込めないのか、イリアはぼんやりとしている。

 数十秒ほどそうした後、彼女は慌てて体を起こした。



「ごめんなさい……! また、迷惑をかけてしまったみたいで……」



 気を失った時のことを思い出したのだろう。

 眉尻と口角を下げて、しゅんとしている。



「迷惑だなんて思っていないさ。それより、痛みや不快感があったりはしないか?」


「……少しぼーっとするけど、大丈夫です」


「それなら良かった」



 大丈夫と言っていても、呪詛じゅその事がある。

 イリアの言葉を鵜呑うのみには出来ず、憂慮ゆうりょの欠片が心に降り積もる。



「でも無理はしないでくれ」



 ルーカスは無意識の内に手を伸ばし、銀糸の輝く頭を優しく撫でていた。


 イリアが恥ずかしそうにほんのりと頬を赤らめて——そこで気付く。

 うっかり、双子の妹たちにする様に触れてしまった事に。


 ルーカスは慌てて手を戻した。

 彼女の身を案じて出た行動とはいえ、気安く触れて良い理由にはならない。



(……っ、何をやってるんだ、俺は)



 どう弁明しようかと考えていると。



「あ、あの、ルーカスさん。私に何があったのか……わかりますか?」



 イリアが尋ねて来た。

 上目遣いに見つめる勿忘草色の瞳は、不安に揺れている。


 いきなりの核心に、ルーカスも惑う。

 呪詛の事はタイミングを見計らって、落ち着いた場面で話そう——と考えていた。



(だが、今ここで答えを先送りにしても……イリアを不安にさせるだけだろう。

 『何も知らず、後悔する方が嫌です』と彼女は言った。ならば、これも。彼女の意思だ)



 ルーカスはおもんばかった後、小さく息を吐くと、表情を引き締めてイリアと向き合った。



「驚くだろうが、落ち着いて聞いて欲しい。

 ……君には記憶を封じる呪詛じゅそがかけられている。頭痛はその弊害へいがいで、無理に思い出そうとすると……命に関わるそうだ」


呪詛じゅそ……ですか」


「解呪できれば良かったんだが、いまのところすべがない。命の危険がある以上、俺が知る君の過去を教える事は出来ない」



 イリアの表情が曇り、きゅっと唇が引き結ばれる。



「……すまない」



 彼女の様子に、ルーカスは改めて己が無力であると痛感させられ、苛立ちが込み上げる。

 自分を責めても解決しないとわかっているが、そうせずにはいられない。


 ルーカスは顔を伏せ、あらん限りの力を籠めて拳を握り締めた。



「ルーカスさんのせいじゃありません。そんな風に気に病まないで下さい」



 ベッドの横にたたずむルーカスのそばへ、イリアが体を寄せた。


 きつく握った右手に、自分のものではない温かな体温を感じて。

 視線を向けると、細くて柔らかな両手がルーカスの右手を優しく包んでいた。


 辛いのはイリアのはずなのに、こんな状況でもこちらを気遣う彼女の優しさが、棘となって胸に刺さる。



「私は大丈夫です。だからそんな顔しないで下さい」


「——大丈夫な訳、ないだろう……!」



 気丈に振舞う彼女に思わず語気を強めてしまった。

 顔を上げると、無理にでも笑おうとするイリアの姿がそこにあった。



(君は——記憶をなくしても変わっていない。

 今も昔も、自分のことより他人の心配をして。

 泣きたい時に泣けず、弱音を吐かず、全て一人で背負い込もうとする。

 こんなことになったのもきっと、周りに迷惑をかけまいと行動した結果だろう。

 …………イリアは、優しすぎる)



 困難に直面した彼女にとって、自分が救いとなろうと決めたのに、どうして。

 どうしてこうも上手く行かないのだろうと、ルーカスは悔しさを覚える。



「怖くて不安な気持ちが、ないわけじゃないですけど……本当に、大丈夫ですよ」


(——嘘だ)



 言葉とは裏腹に、触れる手がわずかに震えている。


 記憶がなくて。

 見知らぬ場所で。

 呪詛じゅそという不安まで知らされて。



(それで平然としていられるわけがない)



 ルーカスは固く握った拳をき、震える彼女の手をそっと握った。



「平気なふりをしないでくれ。辛いときは言っていいんだ」



 勿忘草わすれなぐさ色の瞳が大きく揺れる。


 イリアは何か言いかけて——けれども、何も言わずうつむいた。


 弱さをさらけ出す事、それが彼女にとって簡単でない事はわかる。

 記憶がないのであれば、尚更だ。


 それでも、こんな風に強がって我慢するイリアの姿は見ていられない。



「……君が、心配なんだ」



 ルーカスは片膝を付いてひざまづき、イリアの左手を握った右手をひたいの位置にかかげげ、まぶたを閉じた。



(————イリアは、俺を闇の中から救い上げた光。

 だから、今度は俺が。俺が彼女の心を守る盾として、あるいは困難を切り裂く剣となりて、彼女の光となろう)



 熱き想いを胸に。

 ルーカスは今、誓いを立てる。

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