鏃の如き水の雫が無数に降り注ぎ、濡れた大地を穿つ。
打ち付ける豪雨は逃げる人々に痛みすら与え、暗い空を裂く雷が心に恐怖を与えていた。
「ひ、ひぃぃぃぃ!!」
「に、逃げろ逃げろ……! 立ち止まったら死ぬぞ!!」
大海嘯。海辺から押し寄せる濁流が家屋を容易く飲み込んで行く。
逃げ遅れた人々。避難先の屋敷は山の上。時間は圧倒的に足りない。
「だ、誰かぁぁぁぁ! た、助けて……! がぼっ——」
一人、また一人と飲み込まれていく。
濁流の次の標的は、諦めて動く事すら止めた一団。親は子に覆いかぶさり、愛する者同士は抱き合い、年老いた女性は神へと祈り——最期の時を待つ。
だが、その瞬間は一向に訪れることはなかった。
「おいおいおいお主ら!! なにを諦めちょる!! それでもワシの子らか! 神なんて役立たずに祈るくらいなら、ワシに祈らんかい!」
空から彼らの前に現れたるは、豪傑な偉丈夫。誰よりも大きな体躯の背中を見て、絶望に満ちていた彼らの心に安寧がもたらされる。
——あぁ、ライハ様が来てくれた。
全員の胸中が一致する。まるで巨大な壁のように、その身を守ってくれる安心感。
我らが殿がいれば、不安に思うことはなにもない。
その期待感と安心感が温かな念となり、偉丈夫の背に染み渡る。
「そうじゃそうじゃ……! それで良い!! お主らはワシを仰ぎ見ておれば良いのだ!! さすれば其方らの魂に恐怖が訪れることはない!」
絶死の災害を前にしても、民の期待に応えるためにと笑みを携えその身に力を込める。
パァンッと、空気を裂く柏手一つ。
両手を広げ、そのまま一気に両手を突き上げると——
「お、お、おぉぉぉぉぉ……!!!」
「ふふ〜ん、どんなもんじゃい」
民たちの前に聳え立つは、今度こそ文字通りの巨大な五つの壁。
地面からうねる様に迫り上がった壁は、荒波を完全に堰き止め、その流れの向きを『外』の方へと変えていた。
「ひとまずこれで逃げるだけの時間は稼げたじゃろ。ほれ、早く避難先に行けぃ。もし怪我してる奴がおったら、屋敷におるカイリに声をかけよ。あやつなら、なんとかしてくれるはずじゃ」
「あ、ありがとうございます……!!」
「と、殿は逃げないのですか?」
「儂はまだ役目が残っとるからの。全部が終わったら、ゆっくり休ませてもらうわい」
そう笑顔で言い残し、ライハは地を蹴って去っていく。
民たちはその大きな背中に向かってまた一つ礼をして、避難所へと走っていった。
『——ライハ様』
雨粒を蹴り、宙を駆けるライハに芯を感じさせる玲瓏たる女性の声が届く。
「おう、カイリ。待っておったぞ。どうじゃ、お主の千里眼はどこまで捉えとる?」
『避難はおおよそ完了しております。……残念ながら、死者はかなりのものとなってしまいましたが』
「悼むのはあとじゃ。今は生者がいることに喜べ。それで、おおよそというのはどういうことじゃ?」
『はい。最初にライハ様が救助に向かった海岸沿いの区画。序盤に壁を作ったこともあり、決壊寸前なのですが、どうやらそこの孤児院に人が残っているようです』
「なんじゃと……?」
カイリの報告に、ライハは目を細める。
海岸沿いの区画は最も危険な場所。だからこそ、そこから救助を始めたというのに未だ避難していない愚か者がいることに軽く腹を立てていた。
「これは説教してやらんとな。——カイリ、その孤児院にはまだ人はおるか?」
『はい。見える限りではおそらく四人。ですが、これは……』
なにを見たのかカイリの声のトーンが一つ落ちる。
訪ねたいところだが、時間は惜しい。人数を把握したライハは流されている木の板を蹴り、大きく跳び上がった。
「……なんじゃ、あれは」
空から彼が『それ』を目にした時、彼の心に驚きが満ち、カイリの声の真実が明らかになった。
これだけの荒波・暴風・暴雨。周りの家屋は全て飲み込まれているにもかかわらず、なぜか木造の孤児院がその形を綺麗に保っている。
まるで孤児院だけを避けるように流れる津波。その現象(業)は、彼自身が使う技とよく似ていた。
それを発動しているであろう人物は孤児院の庭にいた。
海と同じ髪色をした兄妹と思わしき頬のこけた幼き男女。その背後、豪華な着物に身を包んだ恰幅の良い男性と気絶した黒髪の少女がいる。
目を釣り上げた男性は、兄妹を従わせる様に地面に向かって何度も枝ムチを振り下ろしていた。
「いいか貴様ら!! なんとしてでも波を押し止めろ!! 決して、わしの城を流させるでないぞ!! もし、力を緩めてみろ!! 今すぐ貴様らを叩き殺してやるからな!」
「ひっ……!!」
「や……やってる、だろ……! い、いいから……だまってて、くれ……! いもうとを、こわがらせないで、くれ……! きがちる……!」
「なんじゃと! 一号・二号の分際で、わしに文句を言うのか!? 身の程を知れぃ!!」
「うぐっ……!!」
兄と思わしき男の子の背に、男が枝ムチを叩きつける。それでも、『結界』は揺らぐことはなかった。
察するに、兄妹が魔法を使って波に飲み込まれるのを防いでいるのだろう。だとすれば男の物言いは自らを死に導くモノだが、それに兄妹が気づくことはない。
常日頃から、男による恐怖に支配されているのが見て取れる。
「——あぁ、駄目じゃなこれは」
酷く醜い支配関係を見て、ライハの瞳が真っ赤に染まる。
四肢により一層の力が漲り、雨粒を蹴ったライハが地上に向かって急加速する。
「いいか! この後ろには、貴様らの命よりも遥かに価値のある財が山のようにあるんだ! もしもそれが失われるようなことがあれば——」
「——子供の命以上に大切な財はこの世に存在せんわ、ボケ。恥を知れ」
ドォンッと兄妹と男の間に降り立ち、枝ムチを破壊したライハが男を睨む。
瞋恚の形相。それを直視したことで、男の腰が抜けた。
「よもや、ワシの都にこのような下種がのさばっておったとはの。貴様に対する不快感と、見抜けなかった己への怒りでどうにかなってしまいそうじゃ」
「ラ、ラ、ライハ様……!? ど、ど、どうしてここに……!?」
「これは否ことを。民を助けるのが殿としてのワシの務めじゃぞ? 逃げ遅れた者がいるところに跳んでいくのは当然じゃろう。——もっとも、貴様を助ける義理は無くなったがの」
「へ?」
殺意の念が男に飛び、ライハが一瞥したのと同時に——
「が、が、がぁぁぁぁぁ!!」
ブチッと軽い音と共に男の四肢が引き千切れる。
汚い絶叫が響き渡る中、極寒の視線と声色でライハは沙汰を告げる。
「下種な貴様に弁明の余地はない。本来なら『この状況』を終わらせた後に、観衆の前で処刑と行きたいが、心がやつれた民草に貴様のような汚い血を見せることは忍びない。ゆえに、この場にて介錯してやる。ワシなりの慈悲と思え」
腕を振るうと、男の存在が無かったかのように消滅した。
「あ、あの……」
状況が一変し、困惑した少女が恐る恐る話しかける。
「ん? あぁ、もう魔法は解いてよいぞ童。ここらはもう、ワシの支配下に置いたからの」
「え……?」
「あ、本当だ……」
よっぽど必死だったのだろう。ライハの言葉で、負担が消滅していたことに気付く。二人が周りを見渡せば、堰き止めていた『雨』や『津波』がなくなっていた。
とはいえ、これはあくまでライハが強大の力で役目を引き継いだ形になっているだけ。孤児院の周りに水が届いていないが、依然として荒波は押し寄せている
それでも、事態の収束は時間の問題だった。
「さて、とっとと終わらせるとするかの。不本意な結果ではあるが、下種のおかげで『力』は漲っちょる。腑が煮えたぎったこの熱で全てを吹き飛ばしてやろう」
筋肉が隆起し、気力が噴き出る様にライハの周りの空気が揺らめいていく。
「とくと見よ童ども。これぞ、このトルル最強と名高いお主らを護る力じゃ——」
兄妹の頭を撫でると、腰を落として柏手一つ。鬱屈していた兄妹の鬱屈していた心を吹き飛ばす。
同時に大地が脈動すると、ライハを中心に淡く青に光っていく。『空』から見れば、それはよく分かっただろう。
避難の為に作り上げられた『壁』たちが青い光によって繋がれ、国花たるネモフィラの紋様がいくつも描かれる。
「理不尽、災害なんぞワシの敵にすらならんと知れ! 大海嘯、何するものぞ!!」
人差し指と中指だけを揃えた刀印を右手に作ると、天に向かって勢いよく突き上げる。
「『【破天・アメノミクマリ】!!』」
雨風に負けぬ怒号と共に放たれたその無詠唱魔法。
腕の動きに呼応して大地の光も天に昇ると、島に入ってきていた『水』が全て外へと放たれる。
そしてライハから放たれた『波動』は、空気を弾き——雨を粉砕し——雲を一つ残らず吹き飛ばした。
空が晴れ、太陽が輝きを取り戻す。
「わぁぁぁぁ!」
「す、すごい……」
女児が笑みを浮かべながら感嘆の声を上げ、男児は憧れた様に目を輝かせた。
「どうじゃ? これがお主らの親の力じゃ。凄まじいじゃろ」
「おや……?」
「おうとも。この国に生まれ育った者は全員漏れなくワシの子じゃ! おっと、年齢の方は気にするでないぞ。まだ若く、周りはみんな歳上ばかりではあるが、当主というものはそういうんもんじゃからの。じゃから——」
陽の光に当てられ、濡れて冷えた身体が温まる。
それをさらに温める様に、ライハは兄妹を抱き上げた。
「わっ…!!」
「あ、あたたかい……」
「——誇るが良い我が子らよ。ワシの下で生まれついた己が運命をの」
「「あ……」」
柔らかな笑みと共に告げられた、『人生で初めて』の肯定してくれるその言葉。
ライハの想いは伝わり、二人の心に染み渡るが、少しだけ男の子が申し訳なさそうにする。
「で、でも……ぼくたちなまえが……ないんだ…。それで、ほこれ……なんていわれても……」
「あ、うん……。いちおう、あたしは、おにいちゃんってよんでたけど」
「何? 真か?」
「う、うん。いちおう、あたしは『おにいちゃん』ってだけよんでたけど……」
悲しげに伝える兄妹。そこでライハは『一号・二号』と男に呼ばれていたことを思い出す。
また一つ先の男と捨てたであろう親に怒りが湧くがそれは見せない。
代わりにライハが見せたのは悲しい気持ちを吹き飛ばすほどの満面の笑顔だった。
「ならば致し方あるまい。ワシがお主らに名前をつけてやろう!」
「え……?」
「い、いいの……!?」
「親が子に名前をつけるのは当たり前じゃろ。——そうじゃの、名前……名前……」
目を瞑り、ぶつぶつと呟きながら顔を上げると、ライハの瞼の中に光が差し込んでくる。
それが決め手だった。
「よし、決めたぞい! 兄よお主の名前は『ユウマ』! 妹よ、お主の名前は『アカリ』じゃ! そして、二人で『フリューゲル』と名乗るが良い! 地を這いずるのはもう終わりじゃ! 太陽に類する名と共に、
「ぼくが……ユウマで……!」
「あたしが……アカリ……!!」
ユウマ・アカリ、アカリ・ユウマと——確認し合うように二人はお互いの名前を呼び続ける。
気づけば二人は涙を流しながら、それでも笑顔を浮かべていた。
ライハの大きな腕の中で、空虚さしか感じさせなかった瞳に熱が篭る。そのまま二人はライハの顔をしかと目に焼き付けた。
「よっしゃ! それじゃあ、しまいじゃあ! 今日はたらふく飯を食うぞ!!」
——陽の光のように眩しく、暖かな男のその姿を。
☆
「——ライハ様、起きてください。ライハ様」
「ん、ん……。……あぁ、ワシ寝とったんか」
長い黒髪の女性が、机に突っ伏していたライハの体を揺らして起こす。
イグサが香る畳の部屋。光沢ある木の机には書類が積み重なっており、寝落ちしていたようだ。
目覚めたライハは周りを見渡し、起こしてくれた従者を見つめてぽわぽわとしながら返事を返す。
「おー……おはよう、レイネ。今何時じゃ……?」
「もうお昼ですよライハ様。お忙しいのは分かりますけど、下手な夜ふかしは効率が悪くなるだけですよ」
「んー、あぁ……。まぁ、分かっちょるんじゃけどな……こればっかりはのぉ。カイリはどこにおる……?」
「奥様なら朝から『祭り』の準備を手伝っておられますよ。ライハ様も早く顔を出してください」
「あぁ、そういえばその時期じゃったか……。なら仕方ないの——」
はぁぁぁぁ——と、大きく息を吐きながら腕を伸び、ライハは固まった体をほぐす。
そのまま頭を振って無理やり頭を覚醒させる。立ち上がり、はだけた着物を直して隆々とした筋肉を隠した。
と、そこで顔をじっと見ていたレイネが気づく。
「何か良い夢でも見られましたか?」
「ん? どういうことじゃ?」
「いえ、何やら口元が緩んでいましたので」
「口元……」
言われて口元を触ると、確かに口角が上がっていることに気付く。
そこで先ほどまで見ていた夢と『報告』を思い出した。
「そういえば、もうそろそろじゃったか? あの兄妹が帰ってくるのは。久しぶりじゃの。どうりで、あんな夢を見るわけじゃ」
「兄妹……」
「お前さんも、あやつらが帰ってくるのは楽しみじゃろ。なにせ久々に会える幼馴染なんじゃからの——」
嬉しそうに、そして何よりも楽しそうに笑みを浮かべるライハ。
それを見て、レイネも待ちきれないといった様な艶美な笑みを以って返す。
「——えぇ、とっても楽しみですわ」