「それでは、始め!」
コトリン夫人はワークシュタット男爵領側に用意された机とノートパソコンの元へしずしずと進み、さっそくプログラミングを始める。
カナリア君はといえば、
「ぷぎゃっ!?」
緊張のあまり、盛大に転んでしまった。
「うっうっ……」
涙目のカナリア君。
今すぐ駆け寄って抱き起こしてあげたい……が、手を貸すと失格になってしまう。
と、そんなことを考えている間にも、コトリン夫人が怒涛のコーディングを行っている。
言語によっては、百数十行も書けば完成してしまう。
領境に設けられた巨大モニタ(魔の森産)には、コトリン夫人が驚異的な速度でコーディングしつつあるのが映し出されている。
一つのタイピングミスもない。
きっと、何度も何度も練習したのだろう。
驚くべき練度だ。
一方、緊張と膝の痛みで頭がぐちゃぐちゃになってしまったらしいカナリア君は、うずくまったままぐずっている。
無理もない。
あの子はまだ、たったの5歳なのだ。
しかも、ちょっと前まではろくに歩くこともできない体だった。
そんな子に、鞭打つような真似はしたくない。
もう、決闘なんてどうでもいいじゃないか。
今すぐ駆け寄って、抱き起こしてあげるべきだ――。
そう思った。
だが、すんでのところで私は踏みとどまった。
私が、領主だからだ。
辺境伯だからだ。
1万数千人の民に対して、生命と財産を守ってあげるべき責任を負う立場だからだ。
「頑張れ、カナリア君!」心を鬼にして、私は叫んだ。「立ち上がって! 戦うの!」
「――っ!」すると、カナリア君ががばりと起き上がった。「ボク、頑張る!」
そこからは、早かった。
バルルワ = フォートロン領側に設置された席に着いたカナリア君は、ノートパソコンで新しいエクセルファイルを作成し、プロピアニストのような指さばきで8✕8のマス目を作成。
ショートカットキーでVBE画面を立ち上げ、コーディングを始めた。
速い速い速い!
怒涛の速さでコーディングする。
カナリア君はほとんどマウスを使わない。
エクセル操作にせよコーディングにせよ、慣れたらマウスを触らないほうが操作が速いからだ。
今、カナリア君の頭の中にはエクセルで使用できるほぼすべてのショートカットキーがインプットされている。
ものの半日で覚えてしまったのだ。
ショートカットキーだけではない。
リバーシ実装に必要な命令文、構文、関数、コーディングテクニックもすべて暗記している。
さらには、タイピングすべき数百行、数千文字を丸暗記している。
単なる丸暗記ではなく、内容をすべて理解したうえでの丸暗記だ。
カナリア君がコーディングしはじめた時、コトリン夫人は驚くべきことに数十行分――進捗25%までコーディングし終えていた。
速い。
速すぎる。
前世の現役時代よりもずっと早い。
転生後も訓練を欠かさなかったのだろう。
けれど、カナリア君のほうがもっと速い。
彼は1ワード1秒、1行数秒という恐るべき速度でコーディングしていき、
あっという間にコトリン夫人に追いつき、
追い越してしまった。
そうして、10分後。
「できたー!」
両者の間で公開されている巨大モニタには、カナリア君が実装したてのリバーシをテストプレイする様子が映し出されていた。
問題なく動作している。
「…………参りました」
75%地点まで打ち終えていたコトリン夫人が、深々と頭を下げた。
「やったー!」
私は年甲斐もなく飛び上がってしまう。
「お姉ちゃん!」
カナリア君が笑顔で駆け寄ってきた。
「ありがとう、カナリア君!」
感極まった私は、カナリア君を高い高いする。
「きゃ~~~~っ」
カナリア君はとても嬉しそうだ。
カナリア君は緊張や転んだ痛みにも負けず、私のために勝利をもぎ取ってくれたのだ。
こんなに嬉しいことはない。
「くそ……」
華やかな雰囲気の私たちとはうって変わって、男爵ががっくりとうなだれている。
「せっかく、領を守るための貴重な戦力が得られると思ったのに……領軍兵士たちが死傷する恐れや、村が魔物に襲われる恐れを取り除くことができると思ったのに」
「ワークシュタット卿」私は男爵に向き合う。「領都防衛にM4を1台。各村の守備に労働タイプの鉄神を5台、対魔の森防衛にも労働タイプを3台。M4は月々1万ゴールド、鉄神は月々5,000ゴールドでいかがですか?」
「…………え?」
呆然と顔を上げる男爵。
妥当な数のはずだ。
欲をかかずに領地防衛に徹するならば、それだけの数があれば十分なはず。
私だってこの3日間、カナリア君と一緒に遊んでばかりいたわけではない。
こうやって、ワークシュタット領のことを調べていたのだ。
まぁ、実際に動いてくれたのはクゥン君とヴァルキリエさんなんだけど。
価格のほうも、M4が月々100万円、労働タイプの鉄神が月々50万円。
高給取りの兵士を雇ったと思えば、余裕で支払える価格だろう。
何しろワークシュタット家には、過去のリバーシブームで荒稼ぎした際の貯蓄があるのだから。
そりゃ、我が領は地龍素材と温泉郷の運営で非常に豊かなので、もっと格安に貸し出してやることもできる。
が、あまりに安すぎたら、バルルワ = フォートロン家がワークシュタット家に『施し』をしているかのように見られてしまい、男爵家としては体面が悪いだろう。
「……っ!」
男爵が目を見開いた。
その顔に、みるみるうちに赤みが差していく。
こちらがちゃんと調べたうえで極めて妥当な提案をしてきていることに、気がついたのだろう。
もとより私には、鉄神を独占するつもりなんてなかった。
魔の森の魔物が活発化しているのは、温泉を掘って地龍を刺激してしまった私にも遠因があるのだから。
「…………」男爵は天を仰いだ後、私に対して深々と頭を下げた。「かたじけない」
「そなた、相変わらず甘いやつだな」
陛下が肩をすくめた。
それから手を掲げ、堂々と宣言した。
「この決闘、バルルワ = フォートロン辺境伯家の勝利とする!」