馬車に揺れられ辿り着いたのは病院だった。
入れ違いにやってきた馬車内にスペンスが見えて必然的に向かいに座る男の姿が目に入りアメリアは車内のメアリーに視線を戻す。
どうしてクラウス様がいるのよ。
視線の先を追ったメアリーが遠慮がちに声をかけてきた。
「大丈夫よ」
ただなにか言いずらそうにメアリーが視線を向けていたが気づかないふりをしてスペンスが顔を見せたことで話は打ち切られた。
「今現在あの男は手術室へと運び込まれました。おそらく助かることはないでしょうから地下の遺体安置室に運ばれるでしょう。そこでメアリー。あなたはこの薬を注入して男を生き還らせてください」
注射器と薬品の入った小瓶を受け取るメアリー。
「わかったわ」
「待って、私も行くわ」
「アメリア様それは」
「スペンス。これは私に回ってきた仕事よ。邪魔をしないで」
メアリーが困ったように私とスペンスとの間で視線を彷徨わせていた。
根負けしたように吐いたスペンスのため息に見送られ裏口から病院内の更衣室へと侵入するとロッカーから制服を拝借し袖を通していく。
敷地を広げた病院はスタッフも多く別段引き止められることはない。
地下室へと続く階段に差し掛かると足元が冷える。
「どうやら先客がいるようですね」
安置室の摩り硝子からはわずかに人の気配がしていた。
「もぅ、先生、勤務中は駄目だっていったでしょう?」
「だって君だろう。私を誘ったのは」
その声にアメリアは自身の目を疑った。
「んんっ、ふぅ、やっ、んあ」
「ああ、よく締まる。君はずいぶんと期待していたようだ」
「そ、んなことは、ああっ、やっ、んぁ、んんっ」
男女の情事の声が目の前の人物から発せられているからだ。
おまけに机を揺らし軋む音まで演出している。
「どうやらいったようですね」
変わり身のはやいメアリーに口があんぐりと開く。
「あなた、今のどうやったの」
「内緒です」
愛嬌たっぷりの顔と声で答え身を翻すとメアリーは隣の遺体安置室に足を進めた。
並べられ布をかけられた遺体をひとつずつ確認していくと目当ての人物に行き当たった。
「メアリー」
注射器で小瓶から薬品を抜き取ると勢いよく太腿に針先を差し込み、注入していく。
少しすると奇声と共に男が上体を起こした。
酸素を肺に取り込むように荒く呼吸を繰り返していた。
「どうやらっ、うまくいったみたいだな」
男は片方の口角を上げ、意地が悪そうに笑っていた。
「あなた、歩けます?」
「あ、ああ、この通り大丈……」
床に足をついた彼の脚がふらついて倒れ込むと男のお尻が目に入ったところで視界が暗くなった。
「そのままでは逃げる前に通報されてしまいますね」
メアリーの声の近さに状況を理解する。
彼女に指示された通り、隣からメアリーが男の着る服を見繕って男が着終わるまで私は瞼を閉じていた。
べつにいいのに。
「やつら、なんでここがわかったんだ」
男は眼鏡をかけズボンとシャツの上から白衣を身につけて頭髪を後ろに流していた。
「貴族の耳ははやいですから」
さあ、行きますよ。と男は少し離れてついてくる。
一階に戻り裏口へと続く廊下を進みあと少しで外へ出れるところまできた時に「先生」呼び止められていた。
歩みを止めわきに避けて談笑しているように装い様子を伺うと、それは制服を見に纏った正真正銘のこの病院の看護婦で、男は歩みを止めていた。
「どうかしたのか」
「……口紅が」
「……は?」
看護婦の目線の先には赤く彩られた唇が浮かび上がっていた。
「あ、ああ」
気をつけてくださいと言うと看護婦は男から離れ業務に戻っていった。
裏口から左に折れた敷地内では馬車が用意され御者席にはスペンスが座っていた。
私に続いて馬車の箱内に入ろうとした男をメアリーが制する。
「あなたはこちらです」
馬車後部でなにかが開いたような音がした。
「ここ? ここに入れと言ってんのか?」
「ええ」
「馬鹿野郎こんな場所に入れるか」
「おいおっさんがたがたうるっせえぞ。死にたくなけりゃあさっさと入りやがれ」
聞き馴染みのない声と馬車に揺れが加わり
「さっきまで死んでたんだぞ、丁重に扱え」
男の声を最後に静かになった。
何事もなかったようにメアリーが馬車内に入ってくると馬車は出発した。