戦場の怒号が木霊する。
身も凍るような白き大地は、今は魔物の黒と、我が国の勇敢なる兵が身に着ける銀の二色に分かたれていた。
魔族領と我がファーザニアとの最前線の戦況が思わしくない。
先の報告で、互いに持ちこたえ続けてきたリムデルタ帝国軍が甚大な被害を受け、前線を大きく後退したという報せが舞い込んでからというもの、敵の攻勢が一段と激しさを増していた。
魔族の中で何かがあったということなのか。それは人類にとって悲報の何かであることは明確だった。
「ウィンセス大統領、まもなく前線へ到着いたしますぞ」
「わかりました」
私は短く答える。
ファーザニアと魔族領を隔てるガエリア雪原に聳える『シャダル砦』に、首都シュタイアから千の精鋭と共に援軍に駆けつけた。
シャダル砦は長年魔族の動向を睨み続けてきた防衛の要であり、現在の最前線であった。
今このシャダル砦に魔族率いる魔物の大軍が大挙しているのだ。
ここを突破させる訳には行かない。なんとしても食い止めなければ、現在安全が確保されている港であるサレナグランツにまで魔族の手が本格的に届いてしまいかねない。
サレナグランツが完全に陥落したら、外からの支援は途絶え、我々は孤立無援となるだろう。
「――こっ、これはウィンセス大統領……! か、開門せよ!」
「ご苦労さまです。兵員と支援物資をお届けに参りました。これで僅かばかりですが労いを」
「大統領自らお越しくださるとは……! ありがとうございます! どうぞお通り下さい!」
砦の中は惨状と言っていい状態だった。
負傷兵が多すぎてこの規模の施設では病床が足りず、傷付いた兵がそこかしこで治療を待っていた。
辺りは痛みに苦しむ兵の呻き声で溢れている。
あまりの悲惨な状態に、私は愕然とした。
「大統領、お心を強くお持ちくだされ。兵達には凛としたお姿を見せねばなりません」
「……ええ。その通りですね。ありがとう、ゼルシアラ剣大将」
私に付き従うのは共和国軍でも随一の剣の腕を誇る武人『ヒューゴ・ゼルシアラ』剣大将だ。
今回は護衛として随伴してくれている。
ヒューゴの忠告で、私は毅然を貫く。
とにかく今の戦闘は続いている。早急に戦況を確認しなければならない。
司令部として設けた一室にて現在の戦況を聞いた。
……かなり旗色は悪い。
帝国の前線が破れてから、こちらへの戦線の被害が多くなっているという。まるで今度はこちらの番だと告げられているかのようだ。
「シュタイアから精兵を連れてきましたわ。これより私達も支援に向かいます」
「――っ! 何を仰られる! 大統領が前線に立つなど以ての外ですぞ!」
私の発言に司令部の誰もがどよめいた。
一際声を荒げたヒューゴが一同の代弁をしている。
彼らの言い分はもっともだ。納得も出来る。私も逆の立場ならば当然止めるだろう。
しかし、この惨状の前にやれることをやらずして、胸を張って人の前には立てないのだ。
「国民が目の前で血を流しているのです。……私とて剣の心得ある元冒険者です。やすやすと死ぬつもりはございません。それに、今ここには必要な力でしょう。――――フェンリル」
私は守護精霊の名を呼ぶ。
すると私の周囲を旋回するように氷の魔力が渦巻きだし、それは私の隣で一つとなって、白銀に輝く毛並みの狼の姿を形作った。
私の求めに応じて現れた、氷の上位精霊フェンリルだ。
そしてフェンリルが現れると、目の前に一振りの剣が出現し、私はそれを掴んだ。
青を基調とした美しいレイピアだ。精霊によって与えられし細剣フェンリア。
フェンリルは凛々しい眼差しで一同を一瞥している。
「フェンリル、貴方の力を貸してくださいますね?」
「無論の事よ。この前不覚を取った汚名を返上する機会ぞな!」
フェンリルは戦意を紛らせて鋭い牙を剥く。
その気迫に畏敬の念を見せる一同は息を呑み、反対の声を噤んだ。
「……致し方ありませんな。ですが、決してご無理はなさらぬよう。宜しいですな?」
説得を諦めたヒューゴは小さく息を吐いて腹を括ると、その眼光に戦いへの強い意志を宿した。
「ええ。――さあ、参りましょう。なんとしてもここで食い止めるのです!」
方針が決まれば皆は迷いなく行動を開始した。
私達約千人の援軍は最前線へ駆け付け、激戦の嵐に突入するのだった。
ここ周辺地域、この時期の天候は寒波による吹雪が頻発する。
そしてここ最前線の戦場の惨状には言葉を失う程凄惨なものだった。
魔物の犠牲となった兵の血飛沫が吹雪に巻き上げられ、周囲は赤い吹雪が吹き荒ぶ地獄のような光景だった。
だが、この既に目を覆いたくなる状況に本当の地獄がこれから訪れることなど、誰が想像できただろうか――――
混迷極まる乱戦状態の戦場も、援軍とフェンリルの到来によって一時的に戦況は持ち直すかに見えた。
――だが、それはほんの束の間の事だった。
突如戦場の魔物達が静まり、自陣へと下がっていく。
その異変に誰もが息を呑み、何事かと視線を前方に向けた。
魔族領側に陣取る魔族軍が整然と動きだし、一斉に道を空けるように左右に分かれて移動を開始したからだ。
それが意味することは一つ……。
新たな戦力を投入するということ――――
「――後ろから眺めるのは退屈だったが、こっからは暴れさせて貰うぜ。手柄を全部持ってかれても文句言うなよ? リリス」
「なんと血の気の多いこと。……勝手になさい」
魔物の列でできた道から二人の人型の魔物が現れたのだ。どちらも自然な発音で言葉を発している。
知性のある魔族の特徴だ。
黒き肌で白髪に魔族特有の角が生えた男性型の魔族が目を血走らせて叫んだ。
「ハッハァー! 俺は偉大なる魔王様より名を授かりし眷属! 『ベリアル』! ひれ伏せ雑魚共ッ! 幹部様のお通りだぜッ!」
「…………同じく『リリス』と申します。そしてお悔やみ申し上げます」
紫の髪を巻いた黒い肌の女性型魔族がベリアルと名乗った魔族に続く。まさか……魔王の側近たる幹部が…………二人も?
共和国軍の兵士達に動揺が広がっていく。
このままでは士気に関わる!
幹部の介入なくとも戦況は苦戦していたが、ここでさらなる追い討ちを掛けられることになるとは……!
「――怯むなっ! 全隊、陣形を崩すなッ! 構えーい!」
ヒューゴが声を上げると、戦列を再形成していた兵士達が武器を構えて応戦の意志を見せた。だが動揺の気配は消え去ってはいない。不安が蔓延した前線に私は強い危機感を抱く。
「それじゃ……血祭りといくカァ!」
ベリアルが何も無い空間から大きな鎌を取り出して歪んだ笑みを浮かべる。そして大きな黒い羽根を広げて猛進してきた!
「――リリィ、あの存在は危険だ! 我が抑える故、汝は逃げよッ!」
そう言うと私を守護していたフェンリルがベリアルの方へ飛び出していく。
……力の差は歴然。
フェンリルの言う通り、事ここに至っては撤退するしかない。
この地を奪われる結果になるのは避けたかったが……。
今は一人でも多く、この地獄から生還させねば!
「くっ……! ――――全軍っ、直ちに撤退せよ! これは大統領命令です!」
臍を噛んだ私は細剣フェンリアを高く掲げて叫び、覚悟を決めて行動を開始した。