「――――全軍、軍列を維持したままシャダル砦まで後退しなさいっ!」
――撤退を決意した私がそう声を上げると、ヒューゴは私の隣に並び、剣を抜いて応戦の姿勢を取った。
「……ゼルシアラ剣大将!? 貴方は退きなさい!」
「何を仰る! 貴女は共和国に必要な方ですぞ! ここで命を散らせることはなりません!」
「…………わかりました。ではこの撤退戦、一人でも多くの兵を救います。手伝ってください!」
「承知!」
前線の兵達は撤退に向けて動き出した。
防御陣形のまま後退を開始し、魔物は再び我が軍に殺到し始めた。
戦場の先には、ベリアルの足止めするフェンリルとベリアルが激しい空中戦を展開していた。
フェンリルが食い止めているうちに撤退しなければならない――――
「――――お帰りになられるのですか。それはそれは」
「――――ッ」
突然背後から、酷く底冷えのする声が私を貫くように投げかけられた。
踵を返して剣を構える私と、私を庇うように前に出たヒューゴが剣と盾を構えた。
音もなく背後に迫ったその声の主は、まるで王国貴族のような黒のドレスに身を包み、頭にはそれらしく二本の角が生えている。紫色の長い髪と冷徹に見据える瞳と、微かに透けた黒のヴェールで隠れた口元からは、敵視以外の感情は読み取れない。
魔族幹部の一人、リリスが優雅な佇まいで冷たい眼差しで立っていた。
「つれないですね。お楽しみはこれからですのに……」
「――大統領ッ!お退がりを!」
ヒューゴの盾が輝いたのと、リリスが左手をクイッと上げたのはほぼ同時だった。
地面から血のように赤い牙が隆起しながらこちらに迫り、ヒューゴの盾から発する光が、彼と後ろにいる私を赤い牙から防いでいた。
「――ぐぬっ……ッ!」
衝撃にジリジリと押し込まれ、苦悶の表情で攻撃を凌ぐヒューゴは、思い切り盾を振り上げて赤い牙をリリスに返した!
リリスはそれを片手を翳して受け止めると、まるで掌に吸い込まれるかのように赤い牙がリリスの前で消滅した。
「今のはほんのご挨拶です。さて、ここからお逃げになられるのでしょう? 頑張ってみてください」
感情のない目で私達を嘲笑うかのように宣う。
目の前にいるのは明らかな格上。この状況下でできるだけ多くの兵を逃がさなければならないというのに……!
それにここにいつまでも留まってはいられない。
統率された魔物の群れが、撤退する部隊を追ってすぐそこまで来ている。
その群れに呑み込まれようものならば生還の望みが絶たれるのは火を見るより明らかだ……。
――そう思案していた最中に、リリスが指を弾く。
危険な気配を頭上に感じた私は咄嗟に細剣フェンリアを天に翳して魔力を解放した!
フェンリアの青色の宝珠が輝き放つと、私とヒューゴの上に氷の壁を形成する。
その直後天から無数に赤い牙が雨のように降り注いだ!
「あら素敵な屋根ですこと。お邪魔致します」
「――危ないッ! グッ……!」
空からの攻撃を凌ぐのに精一杯の私のすぐ近くに、いつの間にかリリスが接近し、左手の鋭い爪で私の首元を切り裂こうとしていた。
それを察知したヒューゴが鬼気迫る様子で私とリリスの間に割って入る。
そしてヒューゴの腕から僅かに鮮血が舞った。
剣を振ったヒューゴの斬撃を緩やかに飛び退いて躱したリリスは、静かに嘲笑っていた……。
「ヒューゴッ……!」
「擦り傷です! 問題ありませぬ!」
強すぎる。
リリスの些細な仕草の一つ一つが攻撃の予兆であり、私達はそれを凌ぐ事で精一杯だ。
……相手にとってこれは遊びなのだ。……敵う相手ではない。
無感情な眼差しでこちらを嗤うリリスを相手に、私は自身の死を予感する。
私は目の前の相手に警戒しながら、ちらりと空に視線を移す。
空ではもう一人の魔族幹部ベリアルとフェンリルが激しくぶつかり合っていた。
古の時代より生きる精霊フェンリルをもってしても、ベリアルを抑えるので手一杯だ。リリスの方に気を配る余裕はない。
それどころか、共倒れの危険まであった。
――リリスをなんとか出し抜いてここを脱出せねばならない……!
「ま……魔族だっ! 後ろにも魔族がいるぞーっ!」
その時、私の背後から兵達の狼狽する声が聞こえた。
撤退行動をして下がった前線がもうここまで来てしまったのだ。
最後尾の兵が私とリリスの姿を見つけると、決死の覚悟で動き出し、リリスを取り囲んだ。
「大統領! お逃げくださいッ」
絶望を顔に張り付けたまま兵士が声を絞り出す。
――いけない、と私は声を発しようとしたところに、ヒューゴが大声で叫んだ。
「大統領をなんとしてもお守りしろッ! かかれ!」
「――大統領! こちらへお早く!」
「なりませんッ! ――彼らを置いてはいけませんッ」
近くにいた兵士に目配せした後、決死の様相でヒューゴが兵士達と共に一斉にリリスに襲い掛かった。
私は数名の兵に強引に撤退を促される。
リリスが立っていた場所に出来た人だかりから血飛沫が噴き出し、同時に幾人もの兵達の悲鳴と首が飛んだ……。
その時見えた冷たい目で嗤うリリスの視線は、一切逸らすこともなく私を凝視していた。
私は数名の護衛と共に戦線を離脱していた。
私達の他に撤退していた兵達が来る気配はない……。
前面に魔物の群れと背後にはリリス。
それに挟まれた兵士達やヒューゴはおそらく、もう……。
撤退を支援するどころか、私は私が生きる為の人柱にしてしまった……。
フェンリルの気配も感じ取れない。
魔力を使い果たして還ってしまったか。再び万全に呼び出すには私の魔力だけではとても足りない。
リリスを前に防戦一方で何もできず、兵士達を一人でも多く逃がすと誓った矢先に、守るべき者達の命によって私は生かされた……。
ここにいる僅かな兵達以外、皆散ってしまった。散らしてしまった……!
無力感が私の心を責め立てていた。
言いようのない後悔と失ったものの大きさで胸が張り裂けそうだった。
「大統領……ここはまだ安全ではありません……。さあ、お早く」
「…………ええ」
兵の声に私は気力を振り絞って、砦に歩を進める。
砦にさえ辿り着けば……体制を立て直せる……。
……いいえ、今の砦に残った兵力では対抗することもできない。
すぐに砦の放棄を命じて、せめて砦の兵達だけでもここから逃がさなくては。
でなければ何のために生かされたか、わからない……。
先ほどまでの戦場からは何も音がしなくなり、そして私の前方にようやく砦が見えてきた。
絶望的な戦況が私達の足を鈍らせていた中、兵達の九死に一生を得た安堵の声が漏れる。
――しかしその時、突然砦の前に黒い霧のようなものが発生したかと思うと、それはあっという間に人の形を取り始めた……。
私の視線の先で、その黒き霧はゆっくりと人影となった……。まさか…………。そんな事があっていいはずが無い――――。
「ようやくお見えになりましたか。待ちくたびれてしまうところでした」
真白な雪世界に黒く映えるドレス。
その召物に相応しく優雅に立ち振る舞い、冷徹な眼差しで嗤うリリスが私達の前に現れたのだ。
私の目の前に現れたリリスの姿が、先程の光景を私の頭にフラッシュバックさせた。
兵士達の命を犠牲にして生かされたというのに……。
「だ、大統領! お逃げ――――」
護衛の兵達が私の前に立ち、リリスに剣を向ける。
……が、兵達の最期の言葉も言い終えぬまま、指を鳴らしたリリスによる赤い牙によって串刺しにされた。
赤い牙が霧散して崩れ落ちる兵達。
私を最後まで守ってくれた兵士達が一瞬で躯と化し、ただ独り取り残された……。
「……貴女一人になってしまいましたね?」
「――――」
艶やかな声で笑うリリスは、まるで貴族の令嬢のような仕草で愉悦に浸っている。
その背後の砦からは、火が上がっているのに気づいた……。
「と、砦が……っ……まさか……っ!」
「……ああ、アレですか? ほらァ、ここは人間にとって寒いのでしょう? 暖をとらせて差し上げたくって……フフフフ」
リリスの言動一つ一つが私を絶望のどん底へと叩き落とす。もはやこれ以上ない程の喪失感に苛まれていた。
そして刻々と迫る死への恐怖にも。
「……敗北を認めましょう。早く殺しなさい」
もはやこれまで……。
私を守るため犠牲になった全ての命を無駄にしてしまった。せめて向こうで皆に謝りたい……。
私は声を絞り出すようにリリスに告げる。
するとリリスは私の顔をまじまじと眺めると堪えていた笑いを耐えきれずに吹き出した。
「――フフフ……アハハハ! ――そう、その表情……! 私はその絶望に染まった顔が見たかった! アハハハハ!」
狂ったように嗤うリリス。その姿は先程までの優美な姿とはかけ離れた下劣なものだった。
その姿を見ても、怒りも屈辱も何もかも、絶望した私には湧いてこなかった。
それから一頻り嗤うと、居住まいを正して淑女然としたリリス。しかし愉悦の余韻に浸っているのか、その表情は恍惚としていた。
「……早く……殺して」
「殺しません。私はその顔を見に来ただけなんですから……フフ。いいお顔でした……」
「な……んですって……!」
私は残った気力で精一杯にリリスを睨みつける。
私が出来る唯一の抵抗はそれしかなかったのだ。
「鬱々としながら、どうぞ生き延びて下さいませ……。……それでは、またお会いしましょう……――ああ、この辺りは頂きますね。……では、ご機嫌よう」
そう言うとリリスは再び黒霧となって散った。
邪悪な気配は感じ取れなくなり、私は独り残された。
「これが……魔族の力…………」
私は力無くその場に崩れ落ちた。
雪原に吹き荒ぶ雪は容赦なく私を白く染めていく。
眼前には轟々と燃え盛る砦だけ。生者はもはや私唯一人。
魔族が本腰を入れて支配に動いてきた……。
それを身をもって知った。皆の命と引き換えに…………。
「……伝えなくては…………世界にこの危機を……」
今までのような侵攻は遊びだったのだと。
さらなる対抗手段を講じなければ、世界は本当に闇に染まってしまうのだと……!
私は立ち上がり、その一歩を踏み出した。