翌日のこと。
僕達の馬車は東に向けて順調に進んでいた。
そして御者席でアサヒの手綱を握る、昨晩の一件で怒り心頭のサヤの隣に座っていた……。
左頬を腫らせながら……。
何も喋らずに前を向くサヤから怒気が伝わり直視できず、恐ろしく気まずい。だが、馬車の中のラシードは、マルシェに睨まれ、ウィニに揶揄われているので、どちらの方がまだマシか……。いや、どちらも変わらない。
……それに僕はラシードを止めようとしてただけなのに、とばっちりを受けてしまったんだ。ラシード、許すまじ。
昨日はあの後お風呂セットを片付けられてしまったので、お風呂に入れなかったし……。楽しみにしてたのに……くそう。
……そんな心の中での抗議など届くはずもなく、僕はサヤの隣で縮こまっていた。……腫れあがった左頬がじんじんと痛い。
この程度、回復の魔術なら一瞬で治るのだが、唯一それが出来るサヤは御覧の通りご立腹だ。
「――で、反省したかしら?」
氷のように冷たい声色が僕を突き刺してくる。
今の今まで弁明しようにも、あまりの怒りで聞く耳持たずだったサヤだったが、ついに話を聞いてくれるようだ。
僕は止めようとしたんだ。僕は悪くない……。でも怖い。
「……ごめんなさい」
――そうじゃないだろ僕っ! これじゃ覗きたかったみたいじゃないか!
「……どうぜラシードにそそのかされたんでしょ。でもそれに乗っちゃうアンタもアンタよ!」
馬車の奥から小さく『ひぃ』とラシードの声がした。中がどうなっているのか分からないが、重苦しい雰囲気に包まれている。
……ここだ! ちゃんと伝えるなら今しかないっ!
「ぼ、僕はラシードを止めようとしてたんだよ……っ! でも止めきれなくて…………ごめん」
勇気を出してそう言うと、サヤが僕を見て怪訝な顔から目を見開いて、次第に僕に向ける冷たかった視線が和らいでいった。
「…………ほんと?」
「嘘じゃないよ…………」
するとサヤからふぅ、と溜息が出たと思えば、手のひらを僕に向けた。
――――またぶたれる!?
その手の狙いは腫れた左頬。僕はぎゅっと目を瞑り、再び訪れるであろう衝撃に備えた。
……がしかし、左頬から伝わって来たのは手の温もりと魔力による温かさだった。
サヤは手のひらを僕の左頬に添えて、回復の魔術を発動させていた。
じんじんと痛む左頬から腫れと痛みがみるみるうちに引いていく。
「クサビ、ごめんね……話も聞かずに。痛かったわよね……」
サヤは眉尻を下げて僕に反省の色を見せた。
なんとか誤解を解けた事を理解した僕は安堵する。
「ううん、大丈夫。……僕こそ、誤解させたままごめんね」
「……うん。…………これで仲直りね」
するとサヤはにこっと笑って、僕に向かって片目を瞑った。その仕草に僕の頬も思わず綻んでしまうのだった。
それから暫くはサヤとの他愛無い会話を楽しみながら進んでいると、ウィニが声を上げた。
前方に魔物が出現したとの事だ。
「前に魔物いる。けど数は少ない」
ウィニの言葉で前方に視線を移すと、前方から3匹のリッパーウルフを駆る3体のゴブリンライダーが迫って来ていた。
前足に鋭利な刃を持つリッパーウルフに跨ったゴブリンライダーがこちらを獲物に定め、その醜悪な顔をさらに歪ませていた。
それを視認した瞬間、馬車から白銀の影が飛び出した!
「――ここは俺がッ! おらぁぁぁー!!」
強化魔術による急加速で猛然と魔物に襲いかかるラシードだ。罪滅ぼしと言わんばかりに本気の超スピードで突き進む。
そしてハルバードを回転させながら瞬く間に3対の魔物を纏めて両断していた!
そして馬車が到達する頃には魔物を全滅させて、ラシードはこちらに振り返り、白い歯を見せた満面の笑みをこれ見よがしに、何かをアピールしていた。
……これでお風呂覗き未遂がチャラになったと思っているのだろうか。
馬車の面々の総意を示すかのように、そのまま馬車は、輝く笑顔のラシードの前を通り過ぎる。
「――あ、あの……ちょっと……ッ! 待って…………」
「ばいばいラシード。いいやつだった」
そしてウィニは馬車の中から顔を出し、ラシードの横をすれ違う際、手をひらひらと振りながら通り過ぎていった……。
……と、そんな事がありながら2日が過ぎた。
その間、ラシードが必死に平謝りを繰り返して、ようやく女性陣に許されて事なきを得たのだった。
……ただ、次は無いらしい。僕も、怖いから絶対に女性のお風呂中は近づくまいと心に誓った。誠実であれ……だ!
「……あ! ――皆見て! 海が見えてきたわ!」
サヤが指差す方を見れば、地平線の向こうに青い空と同じ色の水平線が見える。
あれがシンギュリアの港町だ!
「やっと到着ですね!」
「――おおっ! あれがシンギュリアか!」
「潮の匂い……すんすん……。お魚たべたい」
マルシェとラシードが身を乗り出して前方の光景を見遣り、馬車の屋根の上のウィニは謎の食欲を発揮していた。
「アサヒ、もうすぐよ。ここまで頑張ったわね」
サヤは嬉しそうにアサヒの首筋を優しく撫でた。
「ここからでも大きな船が停まっているのが見えるね!」
「立派な船ね! ……間近で見てみたかったわね」
と、サヤが少し残念そうに言葉を漏らした。
と言うのも、今の僕達はあまり人目についてはマズイのだ。
本来なら街の中で入っていろいろ見て回るところだろうが、僕達には課せられた重要な任務がある。
ここに勇者が来たなどと広まれば、囮を担うチギリ師匠の策が破綻してしまいかねない。
よって残念ながら僕達はシンギュリアの街には入らず、港から外れた場所で、ルドワイズ王が用意してくれた船とその乗組員に合流することとなっていた。
その流れを聞いたウィニが腹の虫の大合唱で抗議していたが、それはもう気にしないことにした。
「――街の外れに一隻停まっているわね。きっとあれよ」
サヤの指が指示した先に、海岸に停泊している一隻の船があった。
傍から見ると商船のようにも見えるが、きっとあの船に違いない。
僕とサヤは互いに見合わせて頷くと、馬車をその船の元へと向けるのだった。
そして、一行はその船に辿り着いた。
馬車から降りてその船に近付くと、乗組員の一人が僕達の姿に気付き、声を上げていた。どうやら他の乗組員に僕達の接近を知らせる声だろう。
すると、すぐに船に収納されたスロープが海岸に接岸して、一人が船からこちらに近付いてきた。
そのやけに落ち着き払った佇まいはとても商人のものとは異なるものだった。
「――勇者クサビ殿と、お仲間殿とお見受け致しますが、如何ですかな?」
降りてきたのは、礼儀正しくも老練な気配を放つ男性だ。
すっかり白んだボサボサの髪に隠れた鋭い目つきで僕達を見据えている。
深く刻まれた皺には、彼のこれまでの長い人生が物語っていた。
商人のような出で立ちであるが、スラリとした長身と立ち振る舞いの端々には訓練を積んだ者の雰囲気をうっすらと感じさせる。ただの商人ではないと直感が告げていた。
「……はい。僕達は希望の黎明です」
僕は正直に名乗り、まっすぐに目の前の男を見返した。
すると、その男性は表情を引き締め直すと力強く敬礼し、正体を明かした。
「――お待ちしておりました勇者殿。偽装行動故、このような姿でお目見えすることをお許しあれ。……私はサリア神聖王国軍第5騎士団、団長『アラン・メルトリュー』剣少将であります。今回皆様が向かわれる中央孤島に同行する任を王より仰せつかりました。何卒、お見知りおきくだされ」
多くの経験を物語るアランさんの皺が、渋い笑みによってさらに深まる。
「こちらこそ、船を用意してくださってありがとうございます! よろしくお願いします!」
僕達も礼を欠かさずお辞儀で返し、その後僕達と馬車を引くアサヒは、商船に扮した軍船に乗り込んだ。