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Ep.267 砕かれし心

 ……勇者クサビはどうなってしまったかって?


 ……そうだね。私もここは何度読んでも涙腺崩壊を禁じ得ないよ。過酷な旅の末に見た情景はあまりに残酷な光景だったろう。


 君もすっかり感情移入しているんだね。そんなに目を赤くして――ああ、泣いてない泣いてない。君は強い子だからね!


 でも、続きはどうなるのかはまた明日にしよう。

 気になるだろうが、周りを見てご覧? もう暗がり始めているよ。


 ……だから君も信じてあげて欲しい。

 勇者クサビの強さをね。君が信じればきっと勇者は立ち上がってくれるさ。


 ……本に書いてあるでしょって? そんなこと言ったら雰囲気台無しじゃないかっ!

 ……さあさあ! 今日はもうお帰り。気をつけて帰るんだよ。




 帰ったかな? さてと……私――いや僕はもう一度目を通しておこうかな。

 あの時知りえなかった、君の想いを、ね……。













「……これで汝にはこの世界の運命が見れた筈だ。……勇者よ。……汝はどうする?」


 悪夢と絶望の情景は終わり、神殿の前で僕は茫然自失に天を仰いでいた。


 そんな僕を見下ろすようにして時の祖精霊が語りかけてくる。


「――――駄目だったか……」


 時の祖精霊の声が遠く聞こえる気がする。


 ……?


 ……ときの、そせいれい……ってなんだっけ。

 ……ぼくは……なんだっけ…………。






 ……我の試練に耐えられなんだか。


 蒼空の髪の少年よ。勇者クサビよ。

 この者の心は砕け散ってしまった。我は無念に苛まれ瞑目する。


 ……勇者よ。

 我は汝がこの世界を救ってくれればと思ったのだ……。

 精霊すらも苦痛を与える魔族の時代に終止符を打ってやってくれと。


 だが勇者クサビよ、汝は心が折れてしまったのだな……。


 我が与えた試練は想像を超える程に、心に傷を穿っただろう。

 だがこの者が相対するは魔王。奴の深淵は人の子の精神を侵す。対抗するには奴の深淵に耐えうる精神力が不可欠なのだ……。この試練に耐える程の、だ。


 我はこの蒼空の髪の少年に、世界の命運を賭けたかった。

 しかし、やはり荷が重すぎたか…………。


 ……我は砕けた心を修復する力を持たぬが故に、この者を救えぬ。


 ……ならばせめて、元の場所へ戻そう。


「……汝の役目は終わりだ。せめて世界が滅びるその時まで穏やかに暮らすがいい」


 我は手を翳し、勇者を時の空間から現世に帰す。

 辺りが漂白に包まれ、天を仰ぐ少年の姿は光に掻き消えていった――――。






 クサビを試練に送り出してからすぐの事。

 いつもの笑顔で試練に向かったはずのクサビが、森の中、膝立ちで空を見上げた状態で突然現れた。


 あまりの突然の事態に、私は酷い胸騒ぎを覚えてクサビに駆け寄った。


「……クサビ!」


 膝を付くクサビの背に声を掛けても返事がない。私はクサビの前に回って様子を確認した。


 ……クサビは気を失っているわけではなかった。でもそこに意識は感じられなかったのだ。


 焦点の合わない虚ろな眼差しには光がなく、遥か遠くを見ているような。

 ぽかんと口を開けたまま、虚無を見ていた。


 ――胸騒ぎが確信に変わっていく。血の気が引く感覚が全身を襲う。


「クサビ……? どうしたの……っ――クサビッ!」


 揺さぶってもクサビは無反応で、表情一つ変えない。


「……くさびん? どーした?」

「…………っ」


 ウィニはきょとんとして呼び掛け、マルシェはクサビの顔を見ると口元に手を添えて目を見開いた。


「…………クソッ」


 ラシードが苦虫を嚙み潰したような顔で吐き捨て、その拳を地面に打ち付けていた。


 皆の様子に、私の中で激しい焦燥感が騒ぎ出す。

 あり得ない。クサビに限ってそんな事は、絶対にありえない。

 そう自分に言い聞かせながら、クサビの肩を掴んで揺らした。


「……クサビ? もう、冗談は止めてよっ。ほら、試練終わったんでしょ? ……ねぇってば…………」


 私は声を震わせながらクサビを揺さぶり続ける。これが試練の結果だなんて信じられない。絶対に認められない!


 ……きっとクサビはふざけているんだわ! 私を困らせて楽しんでいるのよ。

 でも、全然笑えないわ……! ねえ、早くいつもの調子に戻って――



「サヤ…………。クサビは……もう………………っ」

「――――」


 マルシェの手が私の肩にそっと乗せられた。その声は何かを我慢しているかのように震えていてクサビから目を逸らした。


 ウィニはその様子に、今まで見たこともない程の泣きそうな顔をして、杖を地面に落とす。



 私はクサビの顔をじっと見つめた。

 ……そ、そうよ。きっと喋れないくらい疲れ切っているんだわ!

 なら早くこんなところから、クサビを連れ出さないと!


 私はその可能性に一縷の想いを願った。



「――疲れてるだけよね。な、なんだ……。それなら早く拠点に戻らなきゃね! ラシード、クサビをお願いできる?」


 そうと決まれば善は急げだ。

 私はラシードに振り向いて努めて明るく呼び掛けた。早くクサビを休ませてあげなきゃいけないわ。



「――――サヤ! クサビは……! ……クサビの心は……ッ! もう壊れちまったんだよ…………ッ」


 ラシードが悲痛な顔で私の両肩を掴んで揺さぶる。手にこもった力が強く、少し痛い。

 それに驚いた私はラシードの目を見ると、彼の糸目がしっかりと見開いていて、そこから頬に伝う雫が地面に落ちていった。


 …………はっきり言わないで。認めたくないのよ……っ。

 それを認めてしまったら、本当にそうなってしまいそうで、怖いのよ……!


 クサビは大丈夫よ。きっと今は凄く疲れているだけで、明日になれば……きっと……! きっと…………っ!


 そう、信じたい……。でも薄々感づいてた。

 クサビの根本の部分が、壊れてしまっていることを。認めたくない。

 ……そんなことあってはならない!

 ……なのに、目の前のクサビはそんな私の微かな希望すらも易々と打ち砕いた。その途端、私は現実を直視してしまい、私の何かが決壊する――――。



「あああああーーーーッ!」


 私は嘆いた。

 声が枯れるまで拒絶し、涙が枯れて流れなくなっても嘆き続けた。


 決して失ってはいけない大切なものを、なくしてしまったから――。




「……さぁや……。かえろ? くさびんを連れていかないと……」


 私にそう囁いたウィニが、いつからか私を後ろから抱きしめていた。

 皆、私が落ち着くまで待っていたのね……。気付けば辺りは暗くなり始めていた。

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