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Ep.268 急ぎ聖都へ

「……どうですか……? クサビは……良くなりますか……?」

「……艦内の設備ではなんとも……。やはり聖都でなければ治療は難しいですね…………」


 クサビが自失状態になってからというもの、私達は聖都マリスハイムに急ぎ戻るためにシンギュリア港を目指して海を渡っていた。


 アランさんにクサビの事を報告すると、すぐさま帰還の準備を始めてくれたのだ。

 聖都にある医療設備ならば、心が壊れたクサビももしかしたら治るかもしれない。その可能性に賭けての行動だった。



「そうですか……」


 船室を訪れた軍医の診察の末、一抹の望み空しく軍医の首は横を振る。

 広くはない船室のベッドに寝かせたクサビを、皆が心配そうに囲んでいた。


 クサビは虚ろな瞳で天井を見つめている。

 冒険の最中、新しい景色にキラキラ輝かせていた瞳は、ここにはない。


 私はベッドに横たわるクサビの左手を、隣に座って両手で強く握っていた。

 どうか戻ってきて欲しい……。そう願って両手で包んだクサビの手に、額を合わせながら……。



「……サヤ、お前も少し休んだ方がいい。クサビは俺が見てるからよ」


 ラシードがそっと私に声を掛ける。

 私は艦が中央孤島を出航してからずっとクサビの傍に居た。

 もし私が離れている間にクサビに何かあったらと思うと不安で、片時も離れたくなかったんだ。


 それからずっと睡眠も摂らず、飲まず食わずだったから、ラシードが見かねて声を掛けたのね。


「ありがとう、ラシード。でもクサビの傍に居てあげたいの」

「でもよ……! サヤ、鏡を見てみろ。……酷い顔色だぞ…………」


 そんなラシードに、私は首を振って微笑んだ。

 その様子に諦めたのか、ラシードは残念そうな溜息を吐いて、船室のドアに手を掛けた。


「……わかったよ。でも、せめてなんか食え。今何か貰ってきてやっからよ」

「わたしも、いく……」

「ありがとう、二人とも……」


 力のない笑顔を向けた後、ラシードとウィニが船室を出ていった。

 そして私は部屋に残っているマルシェに声を掛ける。青い顔をしていたからだ。


「……マルシェも無理しないで? 船酔い、まだ辛いんでしょう?」

「わ、私なら平気です……。……とはいえ、ここに居てもサヤを心配させてしまいますね。何かあれば頼ってくださいね……」

「うん」


 浮かない顔のマルシェが席を立つ。


 そして船室には、虚空を見つめるクサビと私が残された。




「…………クサビ」


 私は幼馴染の少年に、その名前を呼び掛け続けた。

 いつかこの声に反応してくれるのではないかと、どこかで期待していたのだろう。


 ぼうっと天井を見つめているクサビは、ちゃんと呼吸している。

 生きようとしている証拠だ。だから私も折れるわけにはいかない。

 彼がいつか感情を取り戻すまで、もう離れたくない。

 互いに守るって誓ったんだから。クサビはきっと……ううん、絶対に戻って来る!



「クサビ…………っ」


 この胸の中では絶えずザワザワと胸騒ぎが止まなかった。

 どうしてクサビはこうなってしまったのか、どうすれば以前のようになってくれるのか。


 ……どうすればまた私に笑い掛けてくれるのか。



 …………クサビの笑顔が恋しい。


 クサビと過ごした思い出が次々と脳裏を駆け巡る。それはどのクサビも眩しくて、いつも私に笑い掛けてくれていた。



「……クサビの……声が聞きたいよ……っ! 笑顔が……っ見たいよぉ…………っ!」


 もう散々に流したはずの涙が、またとめどなく溢れ出ては、感情と共にクサビの手に落ちた……。






「…………」


 貰って来た食事を持ってクサビがいる船室に入ろうとすると、サヤのすすり泣く声がドアの向こうから漏れ出していて、俺は入るタイミングを失っていた。


 料理の器を持ちながら、俺は船室のドアを背に無念に耽る。


 クサビがああなっちまって、俺達にはどうすることもできなかった。

 精霊からの試練の条件は、クサビ一人で挑むことだった。

 それでも、一人で行かせたことを悔やんでも悔やみきれないでいた。


 俺は唇を噛み、悔しさの捌け口を探していた。

 行き場のない思いが止めとなく溢れ、じっとしているとその思いに埋め尽くされそうだった。



 そんな心中を知ってか知らずか、船室にやって来たもう一人は猫耳がすっかり元気をなくしてしまった様子でドアの向こうを見つめていた。


 俺はウィニ猫にアイコンタクトで、外に出るように促した。

 その意図を汲んだウィニ猫は黙ったままついてくる。



 俺達は甲板に出た。

 外はもう夜で月明かりが周囲を照らしていた。


「それ、どうするの」


 ウィニ猫は、俺が渡しそびれた料理の器を見つめて言った。

 ……なんだよ。こんな時でも食い意地か? ったく……。


「これはサヤの分だ。やんねーぞ?」

「いらない」


 ところが、ウィニ猫はぷいっとそっぽを向いて言い返した。

 珍しいことだったが、ウィニ猫もクサビとサヤが心配で、食事が喉を通らない、なんて事もあるのかもしれねぇな。


「……さぁやも、くさびんも食べなきゃだめ……」

「……ああ。クサビに関しては、特にな」


 クサビが廃人になってしまって、直近の心配事があった。


 ……クサビが食事を摂らないことだ。


 食事の時、スープを口に運んだまでは良かったんだ。

 だが、まるで食事の仕方を忘れてしまったかのように、すぐに吐き出してしまうのだ。


 このままにしていたらクサビは衰弱して、いずれ死んじまう!

 だからなんとしても食べさせなきゃならない。


「せめて一口でも食ってくれれば……。いざとなったら力づくでも喉に突っ込むしかねぇ」

「かわいそだけど……ん。」


 ウィニ猫もいつもの調子はどこへ行ったんだ。……仕方ない事ではあるよな。



「――さてと! 俺はもう一回部屋行ってみるぜ。ウィニ猫はどうする?」

 俺はわざと明るい調子で気分を切り替える。ほんのその場凌ぎだがな。


「ごはんはラシードにまかせる。わたしは……ししょおにくさびんのこと、伝えなきゃ」


 ウィニ猫はいつになく真剣な面持ちで俯いていた。

 ……チギリ達がこの報を知ったら、どう思うだろうか。


 いや、待てよ。

 長命種であるチギリやアスカの知恵を借りれば、なにか解決策が見つかるかもしれねぇぞ。


「ウィニ猫、チギリ達に何かいい方法がないかも聞いてくれるか?」

「そっか。ししょおとせんせーならいい方法しってるかも……! わかった!」


 そう言うと、ウィニ猫は少しだけ瞳に活力を宿して、船首の方に走っていった。


 何か打開策が見つかればいいが…………。


 さて、俺も行って来るとするか。

 俺は再びサヤとクサビが居る船室へと足を進めるのだった。

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