朱音は一心不乱に走っていると、遠くから同じく焦った様子で早歩きをする人の姿が見えた。
あのシルエットは室戸だ。
直感的に室戸が何か関係している、そう朱音は確信した。反射的に室戸に向かい大きく手を振る。
「室戸先生!」
「ん? 夏川か」
室戸は朱音を見ると早歩きをやめ、ゆっくりと近づいてくる。
「室戸先生、中井先輩と連絡が取れないんです」
室戸は緊迫した表情で、声を潜めて言った。
「それ以上何も言うな。中井数馬と東部ボランティアの会にしばらく関わるな」
「え?」
室戸はそれだけを言い残し、走り去ってしまった。
取り残された朱音は動くことができず、ぼぅと室戸が去っていった方を眺めた。
「関わるな」とはどういうことなのだろう。数馬先輩はどこへ行ってしまったのだろうだろう。
もぬけの殻で講義を受けつつ、そればかりを考える。もしかしたら風邪で寝込んでいるだけかもしれない。そう言い聞かせながらも胸騒ぎが収まらない朱音は中井の家に寄ってみることにした。
チャイムを鳴らすと中井の母が出てきた。
中井の母とは何度か会っていて面識はあるが、直接家を訪ねたことはほとんどない。
「あれ、朱音ちゃんどうしたの」
「数馬さんと連絡がつかなかったのでおうちにいらっしゃるかな、と思いまして」
「あら」と中井の母は驚いた顔で言った。
「数馬しばらく泊まり込みで研究室で活動するからって昨日出かけちゃってね。一週間は帰ってこられないって言ってたよ」
研究室というワードに朱音は違和感を抱いた。通常東部大学教育学部では2年生が研究室の配属されることはない。ということは中井の言ったことは真っ赤な嘘になる。
「どんな活動するとか言ってました?」
「なんも言ってなかったかな。あ、でも、学校訪問か分からないけどスーツ持って行ったよ」
「スーツ、ですか」
企業の説明会や外部の研究会、それに教育学部なら学校見学や教育実習などスーツを使う場面はいくつか考えられる。
だが朱音はそんな話を中井から聞いた覚えはなく、そもそも今日は昼食を食べる約束をしていたのだ。何か急ぎの用事でもできたのだろうか。
「うちの下の子もさみしがってるのよ。でも朱音ちゃんに連絡しないなんてね」
「多分忙しいんだと思います。もし何か連絡があったら教えてもらってもいいですか。サークルの関係でちょっと伝えたいことがあるので」
「私も連絡してみるね。わざわざ来てくれてありがとう」
話し方から中井の母は本当に何も知らないのだと朱音は確信した。
これまでの失踪と関係があるとするならば、一週間ほどで帰ると言っていること、スーツを持って行ったこと、保護者には口止めされていないことなど新たにわかったことは多い。
だが、中井が他のサークルメンバーのように何か月も戻ってこない可能性も十分に考えられる。
何か、何かできることはないか。
このままでは大学どころではない。
頭がパンクしそうになった朱音はベッドに転がり込み、何度も寝返りを打った。
リュックについているトーブー君が目に入り、チェーンを外して手に取ってみる。
「君の相方はどこに行ったんだろうねぇ」
朱音は肌触りの良いトーブー君をもちもちと触る。すると、トーブー君の首のあたりが異様にごわごわとしていることに気が付いた。
「え、なにこれ」
朱音は首元をよく探ってみると、首と胴体にわずかな隙間が存在していることを発見した。指で探ると、その隙間には小さな紙の様なものが挟まっているような感覚がある。
取り出してみると、何重にも折りたたまれた葉書に丁寧な文字で文章が書かれていた。
"先に兄さんが 西北病院 に行ったので俺も行きます。そういえば後輩の昼飯がおいしそうだったので今度は たこや きを食べようと思います。親愛なるムッシュ・ボブへ″
文字は丁寧であるのに、ところどころ不自然な空白があり、内容もまた不自然である。
朱音がムッシュ・ボブと聞いて思い浮かべたのはアガサクリスティの「もの言えぬ証人」に登場する犬の名前だが、これが意味するのは――。
さらに中井に妹はいるが、兄はいない。とすればこの文章自体が日記ではなく何かを伝えるための文章かもしれない、と朱音は推測した。
西北病院とあるので朱音は早速スマホで調べてみる。しかしそのような名前の病院は一切ヒットしなかった。
脈絡のない文章だが、後輩の昼飯がおいしそう、という部分は朱音に心当たりがあった。二人で昼食を食べたときのことを指しているのだろう。そう思い、当時の状況を思い出す。
その時朱音はたぬきうどんを、中井はカレーを食した。
たぬきそば。
朱音はピンとひらめく。難しく考えてはいけない。
謎の文章は想像よりも簡単でありふれた暗号らしかった。