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第88話 覚悟と無常

「杉野、増倉。池本と腹を割って話せるか?」


 樫田がじっと俺の目を見てくる。

 まるで全部を見透かされているような気分だった。

 増倉も俺を同じように感じたのか、ちょっとムッとしながら樫田に質問する。


「腹を割るって具体的にどんな話をしろって言うの?」


「何でもいい。焦っている理由が分かって、本人が冷静になれるなら」


「簡単に言ってくれるね」


「簡単でないことは分かっている。だが、これは時間との問題でもある」


 その言葉に、増倉は黙った。

 分かっているからだ。樫田の言う通り今何か対応しないと池本は確実にオーディションで落ちる。


「私も樫田に賛成だわ。少なくとも今行動しないといけないのは事実よ」


「だとしてもよ、そこまでするか?」


「池本だけ特別扱い?」


「でもこのままはよくないよねー」


 椎名を始め、みんながそれぞれ意見を述べる。

 俺には賛成も反対もどちらの言い分も分かった。

 どちらが良い悪いの問題ではないように思えた。


「杉野はどうだ?」


 樫田が俺に話を振ってきた。

 俺は、今思っていることをそのまま伝えた。


「難しい話だよな。腹を割ったところで必ず演技に関係するわけじゃないんだろ?」


「そうだな。その可能性もある」


「けど、何もしないと池本はこのままだろう、と」


「ああ、たぶんな」


「ならやるしかないんじゃないか」


 俺の言葉に樫田は笑顔になる。

 きっと俺も笑っていることだろう。

 意味のないことだったとしても、先輩として何もしないことはできない。


「ちょっと杉野。簡単に言っているけど何か作戦はあるの?」


「そんなもんはない! 出たとこ勝負だ!」


 増倉が心配そうに聞いてきたので、はっきりと言っておく。

 みんな開いた口が塞がらない感じだったけど気にしない。


「杉野ならそう言うと思ったよ。なら午前中はチームごとの練習時間にするか」


「そうね。それがいいわ」


「午後はどうする?」


「確かに。杉野の案を採用するにしても、何か具体的な練習は考えないとじゃん」


「でも、それこそ杉野たちが上手くいくかどうかで話が変わるよねー」


 みんなが考えだす。

 そういえば、明日の稽古内容決めているんだったな、俺達。

 山路の言う通りだな。現状で決められることではない。

 すると樫田が口を開いた。


「特に案が出ないようなら、俺の方で何個か考えておこう。午前の結果次第で明日の昼休憩の時に決めればいいんじゃないか?」


「そうね、そうしましょうか」


 みんなが頷き、樫田の意見に賛同した。

 そんな中、増倉だけが暗い顔をしていた。

 そんな俺の視線に気づいたのか、増倉と目が合った。


「杉野は……ううん、何でもない」


 増倉は何を言おうとしたのか、俺には分からなかった。

 少し沈黙が流れた後、樫田がまとめに入った。


「じゃあ、何もなければ今日のところはこの辺にするか」


 俺達は解散した。



 ――――――――――――――



 みんなと別れて俺は一人ショッピングモールの駐輪場に向かった。

 夜も深い中、五月の風は生暖かかった。

 肌に当たる風を感じながら俺は部活のことを考えていた。


 池本については樫田の言うように、今動かないとオーディションに間に合わないだろう。

 ただ、話したとて何か変化があるとは限らない。

 全ては彼女の内なる問題だ。

 答えは彼女自身の中にしかない。俺達ができるのはほんの少しの手助けだけ。


 それに俺は俺で、オーディションとしっかりと向き合わなければならない。

 主役を目指すと断言した以上、それに見合うだけのことをしないといけないのだ。

 先輩としてと同時に、一役者として自分の在り方を見失ってはいけない。

 そして忘れていけない。誰かはオーディションを落ちるのだ。


 だが、俺は覚悟ができていない。

 対して、みんなそれぞれ動き始めている。

 樫田は演出家として、山路は主役を目指し、大槻もサボらずに部活に来ている。


 ああ、変化している。


 当たり前だ。俺達は二年生になったし、一年生達との部活も本格的に始まった。

 先輩たちは引退に向けて動いているのだろう。


「ゆく川の流れは絶えずして、とはよく言ったものか……」


 そんな独り言で誤魔化す。

 何を? きっと自分の中にある停滞を。

 このままでいたいと思っているのは、俺だけだろうか。

 不思議な話だ。椎名と全国を目指しているのに。

 この過程の今をどこまで愛おしく感じてしまう。


 だが、俺達は役者だ。

 舞台に上がり、劇を始めなければならない。

 始まらないものもないし、終わらないものもない。

 この恋しい今もいつか終わるのだろう。


 俺は自転車に鍵を刺し、ロックを外す。

 そのまま乗って、漕ぎ始める。

 当たる風が強くなったのか、俺が早く進んでいるのか。

 なんにも分からないまま、ただ漕いだ。


 覚悟がなくても時は進む。

 明日になれば、俺は池本と話すだろう。

 そうするしかないと腹はくくっているのに、どこかから不安が襲う。

 ああ、さっきの増倉もこんな気持ちだったのだろうか。

 みんなといたときは感じなかったのに。

 不安と恐怖と責任感。

 先輩ってのは、こんなに大変なのか。


 まだ五月だというのに、俺の背中は汗で一杯だった。



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