「私、前に杉野先輩には言いましたよね。中学時代帰宅部だったって。でもほんのちょっとだけ美術部に入っていたんです」
「ちょっとだけ?」
「はい。中一の夏には辞めていましたね」
乾いたように笑う池本は、どこか空虚なようで辛そうだった。
俺は、とっさに心配してしまう。
「何かあったのか?」
「いいえ、何かあった訳じゃないんです。むしろ何もなかったんです私」
「何もなかった?」
俺の聞き返しに池本はゆっくりと語りだした。
優しい声音で自らの罪を語るかのように、真剣に。
「中学に入ったときは何か新しいことをしようって、それで美術部に入ったんです。運動は苦手でしたし、絵は下手ですけど書くのは好きだったので……けど、入ってすぐ私は孤独感を感じるようになったんです。あ、その、べつにイジメられてたとかではないんです。美術部のみんなは良い人たちでした。ただ――」
池本と目が合う。
その瞳には宿る感情は複雑だった。
一呼吸おいて池本は続ける。
「私は馴染めなかっただと思います。美術にも人間関係にも……私は新しいことをしたいっていう漠然したことしか考えてなくて、たぶん私の中で描いた理想と現実は違って、それが分かった時全て虚しくなったんだと思います」
「そうか……」
「私が今、怖いのはそんな私自身に対してなんです」
潤んだ目で池本は必死に伝えてくれている。
自分の中にある何か、その怖さを。
「私、部活動紹介の劇を見た時、本当に思ったんです。私もああなってみたいって。でも、でも美術部の時みたいに私じゃなれないって分かった時、全てを捨てるんじゃないかって思って辛いんです! もしオーディションを落ちたら私は私を諦めるんじゃないかって! そんな想像ばかりするんです!」
それが、俺たちが焦りだと思っていたものの正体。
池本は自分と戦っていたんだ。
大切な今を簡単に捨てることができてしまう自分に葛藤を抱いていた。
「それに真弓ちゃんを見ていて思うんです。私はちゃんと楽しんでいるのかなって」
「楽しむ?」
「真弓ちゃんが経験者って言うのは重々分かっているんです。でも、どうしても比べてしまう自分がいるんです。あんなに笑顔で演技している彼女に対して、私は何を思って演技できるのだろうかって…………どこで自分を否定して、でもそれは初心者だからって自分で慰めて悦に浸っているんです」
泣きながら池本は自虐的に笑った。
俺はすぐに否定しようとしたが、喉元まで出かかったことを飲み込んだ。
違う。ここで安易に否定していけない。
それはただの同情で、誰のためにもならない行動だ。
今、俺がとるべき行動は何だ。
脳をフル回転させるが答えは出なかった。
ふと、増倉の方へ視線だけを送った。
彼女は俺が池本に答えを教えると言っていたが、それはなぜだ。
俺に何を言えというのだ!
そう目で訴えるが増倉は確信を持ったように、ただ黙って俺を見ていた。
俺は耐えられずに池本の方へ視線を戻した。
空虚に少し下の方を向いていた池本を見て、俺は感じた。
ああ、これじゃダメだ。
池本の話に乗るのではない。説得じゃなく変化が必要だ。
俺は恐る恐る口を開いた。
「池本」
名前を呼ぶと彼女は上を向き、俺と目を合わせた。
俺はできる限り虚勢を張り自分の不安を殺した。
「渇望の話をしたのを、覚えているか?」
口から出たのはそんな言葉だった。
池本は小さく頷いた。
「歓迎会の次の日に俺と大槻とカフェであった時、三人で話したって言ってたけど、どうだった?」
「……」
「田島や金子に話して、結局納得できなかったか?」
「すみません」
「池本、謝らなくて大丈夫だ。大槻はああ言っていたが、俺はそれでもいいと思う」
「え?」
「納得は大切だ。でも全てじゃない。それに渇望の話をしたとき池本は何かを感じてくれたんだろ? なら納得しなくてもいいよ」
「でも、それじゃあ」
「そうだな。辛いままだし、自分の辞めるかもしれないっていう恐怖は消えないな……けどな池本。今お前は必死その恐怖と戦って前に進もうとしているじゃないか」
「……」
「いいんだよ。過去がどうだろうが、他人と比べてどうだろうが、お前自身は今頑張っている。そのことをまず肯定しないとなんだよ」
「でも先輩、だとしても今オーディションが落ちる可能性が一番高いのは私ですよね」
「…………そうかもな。それは演出家の判断だから俺が明確に言うことはできない。たださ、現実問題がそうだったとして、諦められないから今抗っているんだろ?」
「それはそうですけど……」
「じゃあ、まずは精一杯抗ってみろ。間違っていたら俺が言うし、みんなもいる。焦らず、一つ一つ積み重ねるようにして抗えばいいさ」
俺の言葉が池本に響いているのかは分からない。
ただ、彼女の瞳の奥に何か熱量を感じた。
池本は懸命な表情で聞いてきた。
「私にできるでしょうか?」
「できるさ。なりたいんだろ? その気持ちが今胸の奥にあって、熱い何かを感じているのなら大丈夫だ」
「私は私に自信が持てません」
「今はそれでもいいさ。そんなもんは練習して経験を積めば、自然を生まれるさ」
「私は落ちた時のことを考えて辞めるかもしれないと逃げ腰になっているです」
「でもやりたいんだろ? だから必死に稽古と向き合っていた」
「私は、わ、私は――」
声を震わしながら池本は一個一個俺に問うてきた。
それにゆっくり答えていく。
不安の殻を取り除くように優しく、確実に。
時間をかけて、俺は彼女と向き合った。