(あはは、今日もなかなかの無理を言ってくれちゃって…優秀な人間のつらいところかな?)
片手に荷物を、もう片手に携帯端末を持ちながら、莉璃亜は軽やかに市街地を歩いていた。走ることはなく、けれども決してゆっくりではないペースで歩みを進める彼女は余計な足音を立てておらず、その美しさとは裏腹に周囲の人間からの注目は集めない。
ひとたび信号待ちに見舞われるとようやく世界が彼女を視認したかのように、その愛くるしい顔立ちと女性的なスタイルへ視線が集まる。しかし話しかけられる前に彼女は端末へと目を向けて、その途端に莉璃亜は自身の髪色のような、金属のように冷たく固い苦笑いを浮かべていた。
笑ってはいるものの、夏だというのに温度を感じさせない表情は安易な声かけを寄せ付けず、やがて信号は青色へと変わる。莉璃亜はそれまでの短い時間に任務の内容を把握、今回もまた難易度の高い…自分の安全性を考慮されていないような命令が下ったのを理解した。
横断歩道を歩きながら、莉璃亜は次の任務で命を落とす可能性について考える。
まず、自分はサポートだ。つまりほかのエージェントが苦戦した場合にあてがわれるわけで、仮にその仲間がスムーズに達成すれば不要である。
一方、サポートとして待機を命じられたということは、バックアップを行う監視役だけでは支えきれない場合もあると判断された。
つまり自分が突入を求められたら、それはすなわち危険と隣り合わせということになる。
(うーん、美人薄命とはいうけれど…運命レベルであたしに危険を冒せって言われてるのかな? そういうのって…)
ぐんにゃり、夏の直射日光によって曲げられたかのように、莉璃亜の口元にいびつな笑みが浮かんだ。
(…楽しいね! 『やりたくないこと』をさせられるわけでも、『やりたいこと』を邪魔されているわけでもない! あたしは戦うよ、『愛』のために!)
莉璃亜は昔からフレンドリーな性格で、誰とでも同じ調子で話せる少女だった。ゆえに少しでも好意を感じた相手には積極的に声をかけて、そして関係を持とうとしていたのだ。
一方、彼女は早い段階で自身の恋愛対象が『同性』であるとも気づき、それもまた相手に警戒されず近づくための武器として使えると判断、友情と愛情を織り交ぜた接触を図っていた。
たとえ相手に因果律によって定められた相手がいても、関係ない。やがてそれが研究所のエージェントに狙われる原因となったが、莉璃亜は今に至るまで一度も自身の『愛』を後悔していなかった。
(誰とでもつながれる可能性、それがあたしの因果…最高だね、最高だよ! 『穴埋め』だけじゃ終わらないよ、あたしは!)
自らの信じる愛に準じた莉璃亜はその人間性と由来不明の戦闘能力を評価され、研究所の人間にこう言われた。
『お前に与える因果、それは穴埋めに過ぎん。あくまでも実験体のお前はまずエージェントとして活躍し、禊を行うことを優先しろ』
莉璃亜はその言葉の意味がわからないほど愚鈍ではなく、自分に向けられている視線の多くに侮蔑が含まれていることも気づいていた。
しかし、そんな自分すらも有効活用する研究所の人間を莉璃亜は嫌っていない。むしろ、チャンスだけでなく…ただ生きることだけではあまりにも退屈だった自分に『意味』を与えてくれた人たちだと、感謝すらしていたのだ。
そして先日、その意味をもう一つ見つけた。
「…んーふふ、円佳ちゃん」
再び信号待ちに遭遇した莉璃亜は端末のロックを解除し、今日撮影した写真や動画をチェックする。そしてそのうちの一枚、『右に自撮りするために端末を構えた自分、その隣に苦笑している円佳、さらにその隣にむすっと仏頂面を浮かべている絵里花が三人で写っている写真』を表示したとき。
莉璃亜は独特な笑い方とその名前を呼ぶ声を、抑えきれなかった。彼女の視線はその言葉通り円佳へと注がれていて、世界一の美少女だと信じている自分にすら向いていない。
(はぁ、いいねいいね、最の高だよ円佳ちゃん…カワイイあたしが認めるほどカワイクて、クールだけど他人を突っぱねなくて、体を動かしたあとでもいい匂いがして…ああ、どうしてあたし、キミに夢中になっちゃったんだろうね?)
心の中で生まれたため息は莉璃亜の体温と心拍数を上昇させて、これまで感じたことがなかったほどのときめきを生みだす。
それはまるで、宝石箱を覗いたときのような出会いだった。
交流のあった少女たちに親愛を抱いてきた莉璃亜にとって、世界は宝石箱だった。ちょっと周囲を観察するだけでキラキラと輝く宝物がたくさんあって、それはどれも変わらないまばゆさを放っていたというのに。
莉璃亜にとっての円佳はどれだけ多くの宝石に囲まれていたとしても、決して紛れ込むことはできない…たとえ闇の中に放り出されたとしても見失わないような、一番星の如く輝き続ける至宝だった。
(…どうしてだろうねぇ、ほんと…やっぱりこれもあたしに与えられた【特別な因果】の影響なのかな? だったらさぁ…今度こそ手放しちゃダメだよねぇ?)
紙袋を手首に引っかけ、その手のひらを自分の左胸に添える。豊かさと造形美を両立した自慢の膨らみは真夏日にも負けない熱を帯びていて、その向こう側には自分の因果が、さらには円佳とのつながりすらあると信じられた。
それはきっと円佳と同じ、作り物の因果。けれどもこの胸に生まれた炎はたしかに莉璃亜の意思によってくべられたものでもあって、いくら因果があったとしても自分の目で見つけない限りは燃えさからなかった。
だから莉璃亜は信じている。
(…円佳ちゃんにはきっと、あたしとの因果がある。これはシステムどうこうじゃなくて、あたしが自分で見つけて、つながりたいって思えた女の子だもん…んーふふ…んーふふ!)
因果律は優れたシステムだった。恋愛や結婚における『無駄』をなくし、『運命レベルの相性を持つ相手と出会える』という夢絵空事を現実にした、圧倒的に強固なつながり。
しかしそれもまた『相手と巡り会えるかどうか』によって決まり、かつては矯正施設にて自由を奪われていた自分が、また自己の意思によって見つけられるなんて思っていなかった。
それを因果と呼ばずして、運命と表現せずして…どうするのだろう?
そう再確認した莉璃亜は何度も胸中から湧き上がる笑いの衝動をかみ殺し、けれども口角が上がってしまうのを抑えきれず、端末に表示された円佳を何度も指先で撫でていた。
(…だからさぁ。絵里花ちゃんは…)
莉璃亜の指先が円佳の隣、絵里花へと移動する。そしてその顔を長押しすると画像編集用のAIツールが起動し、高性能なクロップ…写真上から特定のオブジェクト、それこそ不要な人物を消して、莉璃亜と円佳のツーショットにもできる切り取り機能を実行するかどうかを尋ねていた。
円佳にとって一番近い位置にいる人間、それは間違いなく絵里花だった。辺見絵里花は因果律研究所によって三浦円佳にあてがわれたパートナーで、そのつながりは強固だ。ただ単に因果というシステムで証明されているだけでなく、幼い頃から積み上げてきた思い出と絆は情緒にも影響を及ぼし、それはつい最近出会った莉璃亜の目にすら顕著に映っていた。
冷静で優秀と評価されるエージェントである円佳は、絵里花を見るときには違った顔をしている。それは朝露に濡れた草原のように、昼下がりの古い図書館のように、夜との境目が曖昧なプラネタリウムのように…どこまでも穏やかで満たされた人間の浮かべる、それ以上を必要としていないのが明白な雰囲気を隠していなかった。
その様子を思い出した莉璃亜は絵里花を押さえる指先にチリチリとした刺激を感じ、そして…苦笑を浮かべ、クロップをキャンセルした。
(…大丈夫大丈夫、あたしは円佳ちゃんが『欲しい』けど…絵里花ちゃんが邪魔ってわけじゃないからね? むしろ…)
端末をスリープ状態にすると画面は黒一色に染まり、自身の愛する顔が鏡のように映し出された。その表情は決して嫉妬に狂った女のものではなく、いつもの…より多くの愛を求めて世界の中心で踊り続ける、楽しげな少女の笑顔が浮かんでいた。
莉璃亜はそれに対して似合わない安堵を感じつつ、絵里花が自分にとってのライバルではなく『共犯者』になってくれることを求め、願い、端末を鞄の中に入れる。
そして莉璃亜は街を踊るように歩き続け、ふと振り返って自分の足跡をたどる。彼女の両目に宿るアクアマリンは清涼感のある輝きを放っていて、夏らしい思い出を求めるように、今日の出来事を鮮明に映し出していた。
あの二人は、あたしと同じ道を歩いてくれるのかな?
(…水着を買ったってことは、プールに行くってことだよねぇ…んーふふ、これはしばらく行動を見張っておく必要があるかな?)
いいや、違う。歩いてくれることを願うのではなくて、その手を引っ張ればいい。
かつていろんなものを手放してしまった分、今の自分はとても身軽なのだ。だからこそ空いた両手を使い、二人まとめて引っ張ってこよう。
(待っててね、円佳ちゃん。キミと一緒にいるためにも、絵里花ちゃんとも仲良くなって…そして、三人で)
幸せに、なろうね!
子供みたいに弾んだ気持ちを隠すように、今度こそ莉璃亜は前だけを向いて街を駆け抜けた。その足音は静かで軽く、これから行く先が死地であっても歩みは止まらない。
だって自分は死なないのだから。せっかく夏の楽しい予定ができたのだ、こんなところで立ち止まっていられない。
いつしか莉璃亜の頭の中は今回の任務ではなく、『二人の行動範囲と近隣エリアのプール施設』でいっぱいになっていた。