改めて思う。『私はエージェントには向いていない』と。
今日だって水着の円佳に引っ付かれ、さらにはその優しい手つきでお腹を撫でられた私は…体が『プールに入るには相応しくない状態』になりかけてしまい、慌ててジャグジーから飛び出してしまった。念のために補足しておくと、円佳に触られること自体はいやじゃない。むしろ「いやじゃないからこそ体に問題が発生した」と表現するしかなかった。
そんな自分を律することができなかったのに加え、プールサイドを走ってしまうという小さな子供がやるようなミスを犯した結果、足を滑らせてそこそこ深さのあるプールに落下してしまう。
温まった体が再びプールへと投げ出されることで急速に冷えてしまい、泳げるはずなのに上手く体が動かせなくなって溺れるような格好になってしまったら、優しい円佳はすぐに助けてくれた…。
「もー、プールサイドで走るのは禁止って看板にも書いてたでしょ? 絵里花ちゃん、もしかして花摘みにでも行こうとしてた?」
「…なんで、あんたが…」
…円佳に助けられたかと思いきや、それよりも早く反応した…近くにいたのは、こいつだった。
早乙女莉璃亜。普通の学生からエージェントになったという変わり種で、円佳を狙う私の敵。研究所的には敵どころか仲間なのだろうけど、私の最愛の人を奪おうとしている以上、少なくとも味方には思えなかった。
だからプールサイドに引き上げられた私は自分が助けられたということからも意図的に目を逸らし、咳き込みつつもこいつを睨む。一方で相手は私の恩知らずな態度にも関心は持っていないのか、水によって張り付いた長い髪を軽く払いつつ、ヘラヘラと笑いながら「質問に質問で返すのはテストだと0点だよ~?」と息すら切らさずに返事をしてきた。
「絵里花っ…! よかった、本当に…ごめんね、私が変なことをしたから…」
「……ご、ごめんなさい。あの、私、あなたにああされたのがいやとかはなくて、えっと…」
「ちょっとちょっと、美少女レスキューのあたしを差し置いて二人だけの世界に入るのはNGだよ! というか、プールで何をしようとしてたの~? はっ、まさか…いくらお互い水着だからって、『そういうこと』はよくないよっ」
「ち、違うわよ! 外野は引っ込んでなさい!」
プールサイドにへたり込んでいたら程なくして円佳が飛んできてくれて、私の目の前にしゃがみ込んで様子を窺ってくれる。そっと伸びてきた手はまだジャグジーの中みたいな温度が残っていて、それが私の頬に触れると心地よいぬくもりが一瞬にして体中へと広がった。
…同時に、先ほど円佳に触れられたお腹はその熱を思い出したかのようにぐるぐると再現しようとして、水着みたいに肌面積が多い状態で触れ合うとこんなにも『危険』なのかと私はぶるりと震えた。
だからこそ外野の横やりについても自分の深層心理をつつかれたような気分になり、円佳から目を離してそいつを睨む。恩着せがましい言動はなかったにせよ、それでも私は余計な貸しを作ったことにそれ以上何も言えなくなって、弱みを見せるくらいならまたプールに飛び込んで…なんて馬鹿な選択肢も真面目に考慮しかけていた。
「早乙女さん、絵里花を助けてくれてありがとう…本当なら私が助けなきゃいけなかったのに、反応が遅れてた。このお礼、絶対にするから」
「んーふふ、これくらいお安いご用…だけどぉ」
恩知らずな私に代わり、円佳はなんでこいつがここにいるのかの追求はせず、ただ私を助けてくれたことに対して感謝していた。その顔には申し訳なさが浮かんでいたけれど、やっぱりそれだけでは隠せないほどの安堵もあって、やがて私もこいつを睨む目から力が抜けていく。
だけど。やっぱりこいつは…敵だ。
頭を下げる円佳に気安く手を伸ばし、彼女の両手をきゅっと握る。円佳は突然のことにきょとんとしていて、いやそうでも嬉しそうでもなかった。
「今日はさ、絵里花ちゃんとプールでデートしてたんだよね? それならさぁ、今度はあたしともデートしてよ! またプールでもいいし、それ以外の場所でもオッケー! ねえねえ、早速次の予定決めちゃおうよ~」
「えっあっ、それは、えっと…」
「ダメに決まってるでしょうが! さっさとその手を離しなさい!」
円佳の手を包むように握り、指先で愛撫するかの如く滑らせ、顔はまるでキスをねだるかのようにじわじわと近づける。もしもこいつが男であれば性欲を感じさせそうな動きで、温厚な円佳もさすがに少し身を引いていた。
けれども私が助けられたという負い目があるのか、デートの誘いについては真っ向からの拒否ができず、泳ぐ目は私へと向いてくる。強い彼女が私に助けを求めるだなんて考えられないけれど、その仕草に冷たくなっていた私の体は噴火するように熱が駆け巡って、それでも殴り飛ばそうとする衝動だけは堪えた。
円佳とこいつの手首を握り、そのつながりを引き離す。すると「一回くらいいいでしょ!」と全然よくない抗議をしてきて、円佳は突破口を得たことでわずかに安心したのか、苦笑いに表情を切り替えて「絵里花、大丈夫だから」と言ってくれた。
*
「へぇ~、早乙女さんって三浦さんと辺見さんの知り合いだったんだ!」
「うーん、やっぱり美少女には美少女の友達がいるもんなんだねぇ…スタイルもやばいし、アイドルにスカウトされそう!」
「あはは、でしょでしょ! だけどあたし、結構忙しいからさぁ…今はみんなの、そして円佳ちゃんのアイドルを目指してるよん☆」
「え!? 早乙女さん、三浦さん狙いなんですか!? ダメですよ、『まどえり』に挟まるなんて…で、でも、三角関係百合からしか得られない刺激も…?」
あれからも私たちはにらみ合っていたけれど、程なくして何事かと心配してくれたクラスメイトたちが合流して、突如として現れた美人──こいつは気に食わないが顔がいいのはさすがにわかる──に興味を引かれ、今はごくごく自然に私たちの輪に入ってきていた。
こういう人間関係を構築する際、見てくれがいいというのは大きなアドバンテージになる。その点こいつはアイドルという自称に説得力を覚えさせる程度には顔立ちが整っていて、挙げ句の果てに水着に包まれた体つきは美咲に肉薄するほど豊満、これで注目を集めないのは無理があった。ちなみに着ている水着はライトブルーのモノキニ、あの日円佳に披露したやつだ。
そんな容姿に加え、初対面の人間に囲まれても自然体の笑顔を浮かべて愛想を振りまけるのであれば、その場に馴染むのはいとも簡単なことだろう。私は自分にはできないことをやってのける女を忌々しく見つめながら、今はプールサイドに設置されたサンラウンジャーに腰を下ろしていた。
「早乙女さん、人気だね」
「…そうね。私なんかと違って見てくれもいいし、愛想もいいのならこうなるでしょうね」
「そういう意味で言ったわけじゃ…それに絵里花だって今日はみんなと仲良く遊べていたでしょ?」
円佳はあれ以降、私のそばを離れなくなった。今も隣に腰を下ろしていて、同じようにあいつを見つめながらぽつりとつぶやく。
対する私は円佳がそばにいてくれることを喜びつつもその視線を奪われたような惨めさを感じ、性悪女らしく自虐を吐き出してしまう。そしてこういう場合も決して私を見放さないのが円佳という人で、すぐにこちらへ向き直って困り顔になり、柔らかな声音でフォローしてくれた。
その自然で一切気負っていない態度は間違いなく恋人に見せる一面として好ましく、だからこそ私の罪悪感を強烈に刺激して、流れるプールよりも速いスピードで私は目を伏せる羽目になる。
…せっかく最近はこういうこともなかったのに、私ってやっぱりダメな奴ね…。
「…ごめんなさい、あなたに当たるなんて最低ね。その、私…あいつに借りを作るの、どうしても情けなくて」
「ううん、気にしてないから…あと、貸し借りとかそういうのでもないと思うよ。多分だけど、早乙女さんは私たちと仲良くしたいだけっていうか…それであんなふうに冗談を言ってきただけで、本当はただ遊びたいだけじゃないかな」
自己嫌悪に陥りつつも謝れた私に対し、やっぱり円佳は包み込むような微笑みで受け止めてくれる。こうした言葉の応酬だけでも心にぬくもりをくべてくれる人は、きっと私の人生においてこの子だけなのだろう。
私はどこかの誰かと違って誰とでも仲良くすることはできず、何よりそれを必要とも思っていない。それは私の性根がねじくれている以上に、円佳という完全なる包容力を持つ少女がいることで満たされているのが理由なんだろう。
円佳は私を否定しない。私を受け止めてくれる。私へ笑いかけてくれる。
そのどれもが私の人生に立ち塞がる孤独を排除してくれて、これ以上の存在を必要としない。円佳がいるだけで私は満たされて、だから。
一緒にジャグジーに入っていたときもこの大好きすぎる人にお腹を触られた結果、私はその向こう側にある『特別な内臓』まで撫でられたような多幸感に襲われて、大変なことになりかけていたのだ──。
「うーん、半分正解で半分間違いってところかな? 円佳ちゃんと遊びたいのも、絵里花ちゃんとも仲良くしたいのも本当だけど…デートへのお誘いは本気だからね!」
…なんてあのときの余韻を噛み締めようとしていたら、またしても脳天気で人懐こい声に思考が遮られる。
気づいたらこいつはみんなから離れて私たちの前まで歩いてきていて、上機嫌を隠さない笑顔で宣戦布告──私にとってはそれに類する宣言だ──をしてきた。それに対して円佳は乾いた笑いを漏らし、私は苦虫を十匹くらい噛み潰した表情になる。
そしてこいつはチラリと私のそんな顔を見てきたら、何を思ったのかこんな提案をしてきた。
「ねえねえ、今からみんなが売店へ食べ物を買いにいくんだけど…円佳ちゃん、あたしと絵里花ちゃんの分も買ってきてくれない? だーいじょうぶ、大切な恋人はあたしが見ててあげるから! んで、それを奢ってくれたらデートのお誘いは今日だけ保留にしてあげる☆」
「私は別にいいけど…」
「…私も大丈夫よ。こいつの言うとおりもうちょっとだけ休んでいたいから、適当に買ってきてくれる?」
「うん、了解…早乙女さん、絵里花をよろしくね」
「おけおけ! 円佳ちゃんが戻ってくるまでに絵里花ちゃんをデレさせておくよ!」
円佳ではなく、私と二人きりになろうとする。
それは意図の読めない行動ではあったけれど、円佳は私を助けてもらったことで警戒心は薄れているのか、あるいはデートをせずに済むと安心してくれているのか、提案に対しては抵抗感を見せない。
かくいう私も「これでナンパを先送りにできるのなら安いもの」という考えもあって、あえて敵の誘いに乗ってみることにした。こういう判断ができるのは、腐ってもエージェントだから…というのは大げさかもしれない。
円佳は私に「ゆっくり休んでてね」と最後まで優しさたっぷりで声をかけてから、クラスメイトたちと売店まで歩いて行く。その後ろ姿を見送っていたら、早速敵がすぐ隣のサンラウンジャーへと腰を下ろした。
「…で、何のつもりよ?」
「んーふふ…だって絵里花ちゃん、あたしと話したいって顔してたもん。そしてあたしも同じ気持ちだったなら、こーやって気を利かせないとでしょ?」
こういう場合、機先を制することで会話の主導権を握れる…そう考えた私はまず相手の意図を探ろうとしたら、こいつは妙に鼓膜に残る笑い方で余裕を見せ、手を組んで後頭部に置き、ごろりと寝そべった。
仰向けに寝たとしても無駄に大きな膨らみはしっかりと山の形を保持していて、時折通りすがる人間の注目を集める。私は円佳以外の体には興味はないけれど、それでも「円佳は大きい方が好きなのだろうか」なんてことを考えてしまった。
…私くらいのサイズでも好きって言ってくれるのかしら。
「じゃあ聞くわ…あんたの目的は? なんで円佳に言い寄ってくる?」
「うーん、なんだか言い方がトゲまみれな気がするけど…とりあえず、『素敵な人たちとつながりたいから』ってことで!」
私は上半身を起こしたまま、こいつからは目を逸らしてプールを眺める。今も水の中ではしゃぐ人たちは楽しげで、きっとこんな空気で話しているのは私たちだけなのだろうと感じた。
徹底的に乾いた声を出す私に、何を言われても明るく返事をするこいつ。体のつくりも含めて何もかもが逆で、やっぱり私は「円佳はどっちが好きなのだろう」みたいなことばかりを考えていた。
一方で円佳を「素敵な人」と評したのは見る目があると、まだギリギリで恋人としての余裕がある私は共感未満の関心を抱く。円佳はこの世で一番美しく優しい人なのだから、素敵という評価は妥当以外の何物でもなかった。
「だからさぁ、あたしは絵里花ちゃんとも仲良くなりたいって思ってるよ? 一番気に入っているのは円佳ちゃんだけど!」
「そう。私と仲良くしたいって言うのなら、円佳には近づかないで。それさえ守ってくれたら、今日から親友になってもいいわ」
「うぉおん、早速交渉決裂かぁ…絵里花ちゃん、交渉するならもっと譲歩の姿勢を見せてよぉ」
「円佳以外なら何でも交渉の材料にできるわ。でも円佳だけは絶対にいやよ、だってあの子は…私のすべてだから」
こいつの声音、話し方、これまでの振る舞い…それらを考えると、意外にも私は「私とも仲良くしたいのは嘘とも言い切れない」と感じていた。
これはエージェントとしての教育のたまもの…というよりも、今日の出来事が私の奥底でごくごく微量の信頼を生み出している。
たとえ私がどれほど性格が悪くとも、こいつが円佳を狙っていたとしても、このいけ好かない女が私を助けるために身を張ったのは…事実だから。
そんな状況に陥った自分が徹底的に情けなくとも、人命救助──大げさなのはわかっている──を行ったその人間性を私は評価せざるを得なかった。
無論、それでも『自分の命なんかよりもよっぽど大切なもの』を譲る理由にはならない。
「うぅ~ん…これは前途多難だなぁ。円佳ちゃんと仲良くなりたいけど、そうなると絵里花ちゃんとも仲良しにならないといけないし…ねえねえ、どうすればいいと思う?」
「私に聞かないでよ…まさかとは思うけど、そのためにプールまで尾行してきたわけじゃないでしょうね?」
「まっさかぁ…今日ここに来たのは偶然だよ? そりゃあさ、水着を買うからにはプールに行くだろうなぁって思ってたけど…まだ連絡先も交換してないし、それなのに行くタイミングまではわかんないでしょ?」
「…そういうことにしておくわ」
大げさに悩むふりをして、それでも実際は苦悩なんてしていないように笑っている。その余裕を突き崩すように先ほどから気になっていることを質問してみたら、奇妙なまでに調子を変えず返答した。
…今の態度は、五分五分ってところかしら。
こいつは笑顔の向こうに何を隠し持っているわからない一方、口にする答えには理路整然とした内容が含まれている。そこに先ほど救助された負い目も重なれば、私は過剰な追求まで踏み切れなかった。
私みたいな女であっても、一丁前に恩義は感じているのかもしれない。
「そーんなわけで、連絡先交換しよ? あとで円佳ちゃんとも交換するつもりだけどさ、絵里花ちゃんとも話したいし…でさ、あたしたち3人のチャットルームとか作るの楽しそうじゃない!? なるべく3人で話すようにしてたら、絵里花ちゃんも安心でしょ?」
「……あんまり頻繁に連絡しないでよ。それと」
多分だけど、円佳は連絡先交換を求められたら応じるだろう。いや、そもそも研究所にお願いすれば勝手に私たちの情報を渡すかもしれない。
なら…遅かれ早かれだろう。そしてここで応じることで少しでも負債を軽減できるのなら、私のみみっちい心もわずかながらに軽くなってくれる…はず。
「何度でも言っておくわ…円佳は絶対に、死んでも渡さない。本気で奪おうとしたら…あんたを殺すわ」
「んーふふ、果たしてあたしに勝てるかな?…なんてね。あたし、円佳ちゃんとセットで絵里花ちゃんも手に入れるほうが好都合だから、これからも今みたいな感じでデレてね!」
「……ふん」
今のどこに『デレ』とやらを見いだしたのだろうか。
私なりにすごんでみたつもりの言葉は相変わらずムカつく笑い方で一蹴されて、よくわからない目的まで押しつけられてしまう。
それでも天井から差し込む光がそう見せたのか、あるいは私の中の消えない弱みがそう錯覚させたのか。
私との連絡先交換という何の価値もない目的を達成したこいつの笑顔は本当に嬉しげに見えてしまい、私もごろりと横たわり、それ以降は視線も言葉も交わさなかった。
その後、戻ってきた円佳に「ケンカしてない?」と聞かれ、「早乙女と連絡先を交換した」と伝えたら大層驚かれた。