「…ええと、今日は楽しいデート…だったんですよね?」
「…はい」
「…ええ」
「ならどうしてこんな空気になってるんですかね…」
プールでみんなと遊び、そして絵里花とも仲良くなる…それは概ね成功したと言ってもいいはずで、少なくともケンカしたと言う事実はない。
けれど、美咲さんが運転する車の中に漂う空気はプールの水温よりもやや低い温度に感じられて、それでいて重さも伴っているような、少し前に明けたはずの梅雨の空みたいな息苦しさがあった。
行きだけでなく帰りも迎えに来てくれた美咲さんにこんな空気を味わわせるというのはなんとも申し訳ないと思う反面、私としてもなんとかしたいけれど、スナイパーらしくその突破口を作ってほしい…そんな他力本願に逃げてしまいそうになるくらい、私だって困っていた。
(絵里花、早乙女さんと連絡先交換をしたってことは…仲良くなれたはずなんだけど。あれ以降、口数が少ない…なにを考えているんだろう)
プールにて早乙女さんが絵里花を助けてくれて、それから短時間だけど二人きりになって…どういうわけか、犬猿の仲にしか見えなかった二人は連絡先を交換していた。ついでに私も早乙女さんと交換して、その直後には『あたしたち専用のチャットルームだよっ!』なんてメッセージとともに、私たちだけしか見られないルームが作られる。私はそれに返事をしたけれど、絵里花は無反応だった。
その後は時間までみんなで遊んで、それが終わったら解散、早乙女さんは「二人のクラスメイトと親交を深めてくるよっ」とのことで、全員とどこかへ歩いて行った…その様子は、すでに私と絵里花以上にクラスメイトたちと打ち解けていたように思う。
そして程なくして美咲さんが迎えに来てくれて、私たちも帰ることになったのだけど…ここまでの絵里花はほとんど口を開かなくて、話しかければ返事はしてくれるのだけど、自分から言葉を発することはなく。
会話をしなければまるでトーテムポールのような遠い目をして、時々険しくなって、どこか悔しそうに口元を引き結ぶ。私はそんな恋人にかける言葉が見つからなくて、どうしてこうなったのかを何度も考えて、だけど理由なんて一つしかなかった。
(…多分早乙女さんになにか言われたんだろうけど、絵里花は全然話してくれない…大事なことなら教えてくれると思うけど、その気配がないし…)
自分で言うのもなんだけど…私は早乙女さんに多少は好かれているらしく、勘違いでなければ──勘違いであってほしい──『そういう意味』で迫られたような気もする。
あの日、私の手を握ってきた早乙女さんの体温。それはわずかに既視感を覚えるもので、すぐに答えに行き着く。
あれは多分、絵里花の手を握る私の手だ。私は絵里花に触れるとき、いつでも体温が春の一歩先になる。陽光のようにあたたかで、だけど夏のような不快感を感じる熱さではなく、いつまでも寄り添いたくなるような、特別な相手へしか生み出せない温度。
そして絵里花は自分以外の相手と私のあいだに特別が芽生えるのが許せず、早乙女さんの手を引き離して上書き…まあそれはいいとして、ともかく絵里花は私を奪われまいと強く警戒していた。絵里花のそういう重いところは…うん、好きなんだけど。
でも絵里花の強い警戒心は早乙女さんと会うたびに発現してしまい、ましてや今回はそんな相手のおかげで危機を脱したわけだから、こんなふうに思い悩むのも仕方ないのだろう。
(…早乙女さんは悪い人じゃない。だけど…)
今日のこと、それは間違いなく感謝している。仮に早乙女さんがいなくてもすぐに私が救助していたし、大事には至らなかった可能性が高い。
だけど早乙女さんが助けてくれたという事実、同時に絵里花をこんなふうにしたという結果が重なることで…私は若干恩知らずなことまで考えてしまう。
早乙女さんが私に対して興味がなければ。
今日だって偶然居合わせなければ。
そうすれば絵里花がこんなふうになることもなくて、私たちはプールへ向かう前よりも仲良くなれていたかもしれなかった。早乙女さんと仲良くなることも大事かもしれないけど、それでも私は。
絵里花には、できるだけ…笑っていて欲しかった。
そんな無力感を噛み締めながら窓の向こうを見ると、随分と穏やかになった太陽に照らされる市街地が見える。そこを歩く人たちは仕事終わりが多かった…けど。
「あ、今日は近くで夏祭りがあるみたいですよ。せっかくですし、ちょっと寄ってみますか?」
わざとらしさのない、だけど努めて明るい声を出す美咲さんの言うとおり、街を歩く人たち…とくに女性には浴衣を着た人たちが目立つ。かつての日本ではああいう和装こそが普段着だったのだけど、そんな時代も過ぎ去りしものとなった結果、町中で着物を着た人がいれば注目を集めやすい。
だけどそんな服装が普通に闊歩する日もある、それが夏祭りというタイミングだった。洋服で彩られた街へ自然に和服が溶け込む様子は、これまでそういうイベントに参加したことがなかった私でもお祭りを連想させる。
今日のプールもそうだけど、たとえ経験がなくとも知識さえ備わっていれば、特定の記号を見るだけで季節感を感じるのかもしれない。
「お祭りか…ねえ、絵里花。一緒に行かない? 私、ちょっと興味があって」
「…え、あ、うん。私はいいけど」
「決まりですね。それじゃあ近場の駐車場へ向かいますので、そこでいったん解散、花火が終わるくらいに集合でいいですか?」
「はい、ありがとうございます」
正直に言うと、私は人混みが好きじゃない。そしてお祭りというのは人混みへ自ら飛び込むようなものだから、興味はあっても自分一人だとまず行かなかっただろう。
だけど、これはチャンスだ。お祭りもまた『恋人向けのデートイベント』のはずだから、プールでは邪魔──そんなふうに表現するのは申し訳ないけど──された私たちの時間も少しだけ穴埋めができるかもしれない。
絵里花はやや上の空だったけど、私が手を握って誘ったらこちらに向き直ってOKしてくれて、その頬に差した赤みはフライングした花火のようにぱっと咲いていた。
美咲さんはバックミラーで私たちの様子を確認したのか、それとも本当に楽しみなのか、弾む声で「私、屋台のジャンクフードが好きなんですよねぇ」なんて言いつつ、先ほどの気まずさを消し飛ばしたかのように運転を再開した。
*
「おおー、本当にお祭りだ…」
「そうね…写真とかでは見たことあるけど、近場でこんなイベントがあるとは思わなかったわ」
浴衣たちが連れ立って向かう方向へと足を進めていたら、程なくして市街地から少しだけ離れた神社前に到着、その短い階段を上ると…石畳の道を挟むようにして、古めかしい屋台がいくつも並んでいた。
その屋台の多くは食べ物を販売しており、たこ焼きやたい焼きといった定番はもちろんのこと、串焼き肉やケバブといったガッツリ系、クレープやベビーカステラといったスイーツ系、UVに反応する食用色素を混ぜ込んだ光るおばけもちなどの変わり種まで、まさに食のお祭り状態だった。
ちなみに美咲さんは「結衣お姉さんはお仕事で来られないみたいです…やけ食いしてきます…」と、とぼとぼ歩き去って行った…今日の懐事情は大丈夫だろうか。
「ふふ、まずはちょっと腹ごしらえをしようか。人も多いし、はぐれないように手をつなごう?」
「…うん。円佳の手、あったかい…」
ともあれ、今の私が他人を心配できる余裕なんてなくて、とにかくこのお祭りを利用して絵里花との空気を変えること、そして可能なら…プールでは見られなかった、楽しげな絵里花を取り戻したい。
そんな気持ちを先走らせないよう、絵里花と同じ歩幅で歩くために彼女の手を握る。すると絵里花はつないで早々にそんな当たり前のこと…だけど私の気持ちまで温めてくれるような言葉を囁いて、早くもお祭りの熱に浮かされたように心は温度を取り戻した。
もしかしたら、私たちがプールで冷えた体を温めるのは…思いのほか、簡単なことだったのかもしれない。私は調子に乗った思考を戒めるように、一度だけきゅっと絵里花の手を握りしめた。
*
「照り焼きチキンに和風ソースのホットドッグ…そういうのもあるのか」
「屋台って『普通の食べ物を特別感のある空間で割り増し販売する』なんてイメージがあったけど…少し考えを改めるべきかしらね」
運動の中でも水泳はとくにエネルギーを使うため、お腹を空かせた成長期の私たちはまず食べ物の屋台に向かったけれど、最初に気になったのはホットドッグだった。
理由はパンを使っているから…というのもあったけど、挟んでいる具材が一風変わったものであり、それこそ絵里花の言うように値段だけは高い普通の食べ物という印象はない。
きちんとジューシーで、味付けもしっかりしている和風ソースに包まれた照り焼きチキンは食べ応えもあり、決して割高感はなかった。ちなみに今時の屋台はキャッシュレス化も進んでいて、携帯端末をかざすだけで購入可能だ。
…実は現金を使わなくなったことで『お祭りのときに使う出費が増えた』というデータもあるが、私たちの場合は必要経費として落ちるから大丈夫だろう…多分。
「星空アイスバー…おしゃれなだけじゃなくてあんこやタピオカも入っているから、お祭りスイーツって感じがいいね」
「これ、どうやって作っているのかしら…結衣さんがいたら真剣に分析しそうね」
そしてお祭りのおやつと言えば冷たいもの…ということで、私たちは星の形にカットされたアイスバーを購入する。デザイン自体は西洋のイメージがあるのに、混ぜ込まれたあんこやその上にかかっている抹茶ソースが和風な感じで、タピオカのアクセントも加わると本当に夜空に浮かぶ星を食べているような気分だった。
ほかのお客さんにも人気が高いのか、若い女性たちが購入しては写真を撮っている姿が目立ち、私たちも半分ほど食べたところで一緒に撮影しておく。屋台の大げさな光に照らされてはにかむ絵里花は、手に持っているアイスよりも鮮明に輝くスピカみたいだった。
「このライフル、威力がないな…それなら、あっちを狙えば」
「…すごいわね、本当に。店主の顔色が悪くなってきたから、そこまでにしてあげなさい」
そこかしこからいい匂いが漂ってくるけれど、お祭りの屋台は食べ物だけじゃない。たとえば今現在私たちが興じている射的なんかも、遊戯用の屋台としてはポピュラーな存在だろう。
もちろんコルク弾を発射するおもちゃの銃は訓練で使ったアサルトライフルとは比較にならない低火力であり、試し打ちをしたところ、犬のぬいぐるみ──ダルメシアンを模したデザインだ──ですらよろけさせるので精一杯だ。
なので私はぬいぐるみの形状から弱い部分を割り出し、弾道を考慮して二射目を放つ。するとぬいぐるみはこてんと倒れ、そこでようやくこの武器の使い方を把握した私は残りの弾をすべて使い、めぼしいぬいぐるみ系の景品を次々に撃ち落とした。
絵里花の言うとおりぬいぐるみを袋に詰めてくれた店主はがっかりしていたけれど、それをプレゼントしたら恋人の顔にまた花火が打ち上がったので、私はこれだけで満足しそうだった。
…ちなみに私たちが離れた直後には美咲さんもここに訪れて、価値の高い景品は全滅したらしい。
「ふう、なんだかんだで結構楽しめたね」
「ええ、私も…その、楽しかったわ。あの、円佳」
祭り囃子をBGMに様々な屋台を楽しんだ私たちは歩くペースを落とし、騒がしい周囲とは裏腹に気持ちは落ち着いていた。人混みに訪れることの抵抗感はすっかり霧散していて、自分の手の中に絵里花のぬくもりがあればどこにでも行けるのだと再確認できて…これだけでもう、ここに来た目的を忘れそうだ。
そして絵里花が纏う雰囲気も梅雨前線を脱したのか、入道雲が浮かぶ青空のようにすっきりとしている。そんな彼女の呼びかけに私は振り向き、そうだ、私も言わないといけないと思ったら。
「…あ、花火だ。そっか、もうそんな時間…」
「…美咲から連絡が来たわ。『この座標まで移動すれば、おそらく二人きりで花火を見られるはずです。幸運を』…どうする?」
明確な形もない言葉を紡ごうとしたら、それを遮るかのように夜空へ花火が打ち上がった。
ドンッ、というお腹を震わせる音が鳴るたび、神社のそこかしこから歓声が上がる。先ほどまでは屋台が集めていた視線は、暗幕に包まれたキャンバスに描かれる火花へと集中していた。
そして美咲さんからのメッセージでは地図と座標が添付されていて、そこでようやく私は「今日は気を使わせすぎたかな…」と反省する。
いや、今必要なのは…感謝のほうだろう。そう思った私は絵里花の手を握り、返事の代わりに微笑んで見せた。絵里花も私の表情から察してくれて、無言で頷く。
そして私たちは少しのあいだだけ花火には目もくれず、地図が指し示す場所まで歩いて行った。
*
「…美咲さんにはお礼を言わないとね」
「…ほんと、あいつはこういう気ばっかり回るんだから」
美咲さんが教えてくれた場所、それは社の裏側…から少しだけ木々をかき分けて進んだ場所にある、林の中にぽっかりと空いた空間だった。
なんでこんなところを、なんて疑問は二人だけで見られる空の花束によってすぐに打ち消される。絵里花もそれから少しのあいだは花火に見入っていて、私も咲いては散る光の花びらに目を奪われた。
「…絵里花、今日は…ごめん、じゃなくて…ううん、なんだろ…」
「…謝るのは私よ。あいつに助けられて、いろいろ変なことを言われて…あ、あなたを取られるんじゃないかって、一人で悩んでて…」
何度目かの開花を見終えたところで私は口を開き、すぐに助けてあげられなかったこと、それからも恋人として気を利かせられなかったこと、それから…なんて言葉が渋滞を起こしていたら、絵里花は一度ぎゅっと手を握ってきて、花火の消えた真っ暗闇の中で振り向いてくる。
上手く見えないはずなのに、私にはわかっていた。絵里花は今、顔を赤くしている。そしてその瞳は潤んでいて、必死に大切なことを伝えようとしてくれていた。
絵里花はいつも一生懸命だ。恥ずかしがり屋なのに逃げなくて、でも上手く言葉にできなくて、それでも私と一緒にいたいと願ってくれる…まっすぐな愛情を持つ、私の思い出の大半を担う少女だった。
私の世界は絵里花で彩られていた。絵里花が笑えば花咲く春になり、絵里花を抱きしめれば燃えさかる体温が夏を呼び、絵里花と話せば秋のように穏やかに時間が過ぎて、絵里花が悲しめば冬のように心が冷えて、また暖かい季節を目指して一緒に歩く。
私の過ごしてきた季節のすべてが、絵里花によってもたらされていた。
「…あなたは、円佳は…とても素敵な人。だからあいつが好きになるのなんて当たり前で、しかもあいつは私なんかよりも優秀で…その、顔とか、スタイルとか、そういうのも上で…だ、だからっ」
思えば、簡単なことだった。
絵里花は昔から自己肯定感が低くて、だけどいじっぱりで、周囲の言葉なんて気にしていないように見えて、いつも傷ついていた。
そんな自分すら面倒くさい人間だと思っているのかもしれないけれど、私はやっぱりそういう絵里花が好きだった。
絵里花は必死だった。その必死さはいつも私に向けられていて、私は誰よりもそのひたむきな愛情を知っていたはずなのに。
暗闇の向こうで自分の気持ちを吐露する絵里花はきっと、泣きそうになっている。もう一度花火が上がればその涙が見えるかもしれないけれど、私は待てなかった。
絵里花の頬を撫でるように手を添えて、一歩だけ足を踏み出し、彼女の不安をついばむように──キスをした。
それは初めて行う、唇へのキス。重なる直前に絵里花の息を飲むような呼吸が聞こえてきたけれど、彼女はまったく抵抗しない。
その体は不安に打ちひしがれていることも、喜びに震えることもなく、先ほど食べたアイスバーのようにかっちりと固まっていた。
それでも絵里花の唇から伝わってくる熱は、海で輝く太陽よりも熱い。生きるためのわずかな呼吸にも雨上がりのような湿度が含まれていて、今の私と絵里花の四季は確実に夏を迎えていた。
だけどそれは、知らない夏。好きな人と初めて唇を重ねた、忘れられない記憶だった。
花火が上がる。その振動と音に唇を重ねたままうっすらと目を開いたら。
キスの最中だというのに目をまん丸に見開いた絵里花がいて、視線が交差した私はもう一度まぶたを閉じて、肩を掴んでもっと強く唇を押しつけていた。