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第57話「ワン・モア?」

 家に戻るまでの私…私たちは、夏の幻の中を歩いてきたかのようにおぼろげだった。

「…絵里花」

 不確かさが部屋の形を描いたところで、私は天井を見上げながら愛する人の名前を呼ぶ。それはまるで磨かれた宝石のような輝きを秘めていて、今さらながらに『絵里花の名前が絵里花でよかった』なんてことを考えていた。

 私の恋人は名前の響きまで美しく、自分で呼んだだけであってもその音は部屋中を反響し、すっと私の聴覚に浸透する。だけども彼女からの返事はなくて、どうしてと思ったところで今は自室に一人きりなのだと把握した。

「絵里花…」

 もう一度、山びこのように呼んでみる。おそらくは彼女も自室にいるだろうし、それならこの程度のボリュームでは決して届くことはない。その事実は寂寥を呼び起こす以上に、返事があったとしても何を伝えればいいのかわからなくて、通り雨が止んだような小さい安堵を噛み締めた。

 そして安心すると見えてくるのは、自分が自室に至るまでの道のり。最後の花火が燃え尽きると同時に私たちからは音が消えて、言葉もなく彼女の手を握り、絵里花もまた握り返してくれる。

 先ほどのアクションを考えるとどのような拒絶があったとしても不思議ではないと思うものの、絵里花は終始私とつないだ手を離すことはない。美咲さんと合流するまでの道のりにおいてたまに目が合ったとしても、次の瞬間にはフレアが発生したかのように瞳が揺らめいて、ただお互い顔を赤くして前を向く。でも、手は離れない。

 そして両手に結衣さんへのお土産を抱えている美咲さんは私たちを見ると同時になにかを察してくれたのか、やんわりと微笑んだかと思ったら「夏ですねぇ」といとも当たり前のことを線香花火のように口ずさんだ。

 車に乗り込んでからも会話はないけれど、プールからの帰りとは異なる空気に包まれていた。冷たくまとわりつく重さはなくて、車内の空調が壊れたのではないかと思うほど私たちは汗ばんでいて、それが引く様子もない。そのくせ私は絵里花の手を離せなくて、絵里花もまた離してはくれない。

 離してしまえば、この熱も花火のように消えてしまう気がした。汗を止めるのであれば離したほうがいいというのに、プールで冷えた体は今もなおぬくもりが恋しいのか、私たちはぎゅっと衣類を湿らせ続ける。そうなると匂いが気になるけれど、車内はいつも通り清潔な香りに包まれていて、そもそも汗ばむ絵里花が臭いはずもなかった。

 そうしてマンションまでまで送ってもらうと、美咲さんはもう一度「夏ですねぇ」と私たちに笑いかけ、テールランプで夜を切り裂きながら走り去っていった。私たちはそれを見送り、いつも通り郵便物を確認してから部屋に向かう。

 鍵を開けて自宅に戻ってきてからようやく絵里花は口を開き、それは「お風呂、入れてくるわ」という実にいつも通りの発言だったはず。私も如才なく返事をして冷蔵庫に向かい、麦茶を二人分入れておく。一連の動きは幻の中にたゆたっていてもよどみなく実行できて、そのときの麦茶の味も思い出せていた。

 けれど、お風呂が沸くまでのあいだ、絵里花とリビングのソファに座っていたけれど…ここの記憶が曖昧な気がする。自分の体からは慣れ親しんだ石けんの香りが漂っていて、それが入浴後であることを伝える唯一の手がかりだった。

(多分、家に着いてからはキスしてないはず…キス…)

 う、と私は短くうめいた。無論それは攻撃を受けたときのような苦しさはなく、胸の中で絵里花の感触が爆竹のように弾け、その柔らかさと体温に肺が瞬間的に沸騰し、排熱を行うべく意味のない音を吐き出したに過ぎない。

 そうだ、私は…絵里花と、キスをした。

 頬へのキスならすでに済ませていて、なんならそこへの口づけについてはそんなに意識するほどでもない。もちろんドキドキはするけれど、胸中で爆発を起こすほどのものではなかった。

 だけど唇を重ね合うというのはどうあがいても特別で、私たちの関係を一歩進めたことは間違いないだろう。しかし進んだ先に待っていたのは何度も小爆発を起こす銀河誕生の瞬間みたいな場所で、それは花火という夏の一大イベントすら記憶の彼方に消し飛ばすような、視力すら奪いかねない間近の太陽みたいなまばゆさがあった。

 まぶしさに目が眩んだ私の視界には驚きに目を見開く絵里花がちらついて、キスの瞬間は焼き印でも押されたのかと思うほど、何度も何度も私のまぶたの裏で再現されていた。

「…なんで、あんなこと…」

 自分の唇に触れる。指先は空調が効いた部屋のおかげで適度な体温に落ち着いていて、また少しだけ心の放熱が進む。どうせキスのことを思い出して再度熱くなるのだろうけど、そうなる前に考えを整理しておきたかった。

 まず、絵里花は不安になっていた。プールでどんなことを言われたのかはわからないし、早乙女さんが絵里花を追い詰めるようなことを伝えてくるとは思えない──なぜかそういう面での信頼はあると感じる──けれど、恋人が不安になっていればそれを取り除きたいと思うのは人間として自然だ。

 そして美咲さんのおかげでお互いの空気を和らげるイベント…お祭りに向かうことができて、実際に絵里花は自分から伝えたいことをしっかりと口にしてくれて。

 私を奪われまいと必死になってくれる絵里花が愛おしくて、暗闇に紛れてターゲットを仕留めるエージェントよろしく、私は彼女の唇を奪ったのだった。

「…え、なんでだ?」

 夏祭り、花火を見ながらキスをする。それは一般的な学生の甘酸っぱい恋愛模様みたいで、タイミングとしては間違いとも言い切れない。いや、恋人同士でお互いに愛情があるとわかっていたのであれば、もっと早く重なっていても不思議じゃなかったのかもしれない。

 ただ、絵里花の不安を取り除きたいという動機がそのままキスにつながるというのは、プールに行きたいと願う人を海に連れて行くような、意図をくみ取っているようでそうでもないスケールアップをしてしまった気がした。

 現にキスをされた絵里花は喜ぶよりもただただ驚いていて、怒ったり泣いたりすることはなかったにせよ、予想外の行動に取るべきリアクションが今も見つかっていないように感じた。いきなり「次でボケて!」なんて言われた芸人の気持ちは、こんな感じなのかもしれない。

 だから私は自分の行動に対して疑問を抱き、頭の中に散らばった知識を必死に手探りしてみる。研究所から教わったことは役立つものが多かったけれど、そのくせCMCとして重要な『恋人ともっと仲良くなるための行動』については、とても曖昧なまま無造作に散らかされていた。

 そして私はこれまでの経験から『恋人関係にまつわるあれこれは感情の赴くまま向き合うことが大事』だと判断し、数学問題を解くときみたいな数式で解明された知識ではなく、作者の気持ちを答えなさいといった曖昧で正解の有無すら不確かな、だけど存在自体は知覚できるものへと手を伸ばしてみた。

「…私は絵里花が好きで…キス、したかった。したく、なった」

 そうして掴み取れたのは、驚くほど当たり前の気持ちだった。この気持ちの作者は間違いなく自分で、そんな自分がこうして独りごちているのだから、きっとテストでも正解がもらえるだろう。

 だけど形にしてしまえば熱くてこそばゆい感覚が胸の中にぶわっと広がって、その回答を消しゴムで消去したくなったけれど、でも絵里花への気持ちはいつだって嘘偽りなく、何度消したとしても私の中にどっしりと存在していた。

 因果に導かれて初めて出会ったとき、私は子供らしい無邪気さに身を任せていたのだろうけど、あのときから絵里花と一緒にいたいと思っていた。

 そんな気持ちは物心がたしかになっていくほど大人びていって、いつしか私は『この子を守りたい』という気持ちが大きくなっていたけれど、絵里花のそばにいたいという想いは決して消えていなかった。

 高校進学と同時に恋人同士になった直後はあまり違いを感じなかったけれど、ゆっくりと変わっていく絵里花に寄り添うように私の気持ちも成長していて、あの頃よりも今のほうが、昨日よりも今日のほうが、きっと好きになっていた。

 絵里花が頬へのキスをしたいと伝えてきたときも『あなたのことが好きでたまらなくなったから』と話していたように、私も『絵里花のことが好きでたまらなくなったから』こそキスをしたんだろう。

 なんだ、とっても簡単じゃないか。難問を解いた私は思わず満足感に笑いかけて、だけどキスの理由がはっきりしたことで絵里花への気持ちもくっきりムクムクと大きくなって。

「…わ…わ、わぁ…!」

 大きさと暖かさに耐えられなくなった私は仰向けからうつ伏せになり、枕に顔を埋めて叫びそうになるのを堪えた。

 もしもこうして顔を押さえなかった場合、私は「絵里花、大好きだよ!」と吼えていたかもしれない。夏には珍しい快晴となってくれた今日は月もきれいに見えるだろうから、窓を開けて狼のように遠吠えをしたくなっていた。

 つまり、なんだ…私は絵里花とのキスを後悔しているわけがなくて、むしろやっと唇を重ねられたことを喜んですらいて、恋人としての一つの到達点を迎えたことは絵里花への愛情を何度目かわからないほど燃え上がらせたのだ。

(うわ、どうしよ…絵里花、すごい、好き…いや、前から好きだったけど…キス、こんなに…すごいんだ…)

 昔読んだ小説では『キスをしただけで満足してしまってそこからは愛情が冷めていった』なんて展開を見たことがあったけど、どうやら私が作者の物語だと全然違うらしい。

 ぐりぐりと枕に顔を押しつけて叫ばないように自制している私は「なんで今は絵里花じゃなくて枕にキスをしているんだろう」という風情のない不満を抱いていて、今すぐ枕を放り出して絵里花の部屋に突入し、彼女に抱きついてそのままベッドに押し倒して、全体重を込めるように重たいキスをしたかった。

「…私、絵里花とキス…したい…」

 それはすでに経験したことで、今もあの瞬間の感触は唇に残っている。

 わずかにしっとりとしたお互いの唇は夏の湿度も手伝ってぺったりと引っ付いて、離すと名残惜しそうにお互いの皮膚が引っ張り合っていて、ああ、なんで一度だけで離したんだろうと自分の選択を嘆いた。

 だから私には『もう一度絵里花とキスをしたい』という圧倒的な存在感を誇る気持ちが胸中に横たわっていて、これを枕になすりつけなければ、あの日のように豹変して絵里花に襲いかかっている可能性すらあったのだ。

 …本当に私、なんで周囲に『冷静』なんて評価されているんだろうか。

 絵里花を奪われそうになれば相手が味方であっても殺しかねなくて、敵であればその関係者もろとも根絶やしにしようとして、絵里花をもっと好きになれば力ずくで自分の愛情をぶつけそうになる。

 それらの行動には冷静さなんてどこにもなくて、大切な人すら蹂躙しかねない暴力的な衝動があった。そんな自分に恐怖することでやっとキスの魔物が落ち着いてきて、冷静で優秀──周囲の勝手な評価だ──なエージェントが蘇ってくる。

(…もしも本当に絵里花を押し倒してキスをしたら…私、多分…『止まれない』…)

 もしも豹変した自分を解き放って好き勝手に暴れさせた場合、絵里花へキスをするのは確実だ。だけど、キスで済めばまだいい。

 けれど今の私がキスだけで満足するかと聞かれたら自信がなく、そして女性は気分が盛り上がると『その先』をしたくなる──美咲さんからのアドバイスだ──と考えたら…多分私はキスによってさらに気分が高まり、絵里花に衝動的で一方的な愛を叩きつけることになるだろう。

 そこから先は本当に心許ない知識だけしかない、そして知識だけでうまくできるかどうかわからない領域。だからこそお互いに経験のない私たちは、愛情というたしかな灯火を頼って進まなくてはいけなくて、その炎は私のエゴイスティックな愛だけでは燃え上がることもない。

(…よかった、キスだけで済んで…)

 枕から顔を上げ、右手の甲を額に置きながら空を仰ぐ。すでに夏の幻は消えていて、見慣れた天井だけが広がっていた。しかし幻が消えたとしても私は絵里花とキスのことばかり考えていて、あれは幻覚ではなかったと安心し、同時に…興奮、もしている…。

 それでもこんなむっつり──自分でも認めるしかなくなった──な私があのときはキスだけで切り上げられたのは、もしかしたら運がよかったのか、それとも案外本当に冷静だったりするのか。

 …いや、外でファーストキスを済ませるだけじゃなく、その先に及ぶ可能性も考慮するとか…私、女として終わってるのかもしれない…。

「…でも、また…キス、したいよ…絵里花…」

 完全に女として終わってしまう前に、私はちょっぴり乙女っぽいささやきを口にする。その先まで求めてしまいかねない自分から目を逸らすように打ち上げた気持ちは、閉じられた視界に広がる夜空に花火を生みだした。

 その花火はキスをする私と絵里花の姿を描き、ぱっと消えてしまう。それはこの願いまでもが叶わずに消えてしまうような暗喩に思えて、そうならないようにまた口を開いた。

「…私、絵里花が大好きだよ…だからもう一回…ううん、これからもたくさん…キス、しようね…」

 この気持ちが消えない限り、絵里花も同じ気持ちを持っていてくれる限り、私たちはきっとまたキスができる。その先までできるかどうかはわからないけれど、この唇は何度も絵里花と重なるためにあるはずなんだ。

 私はこれから先も絵里花以外とは口づけないであろう唇にまた触れて、彼女への気持ちを確かめ、そして一方的に約束した。

 その約束はきっとまだ届いてはいないけれど、それでも私は『絵里花なら理由もなく拒むことはない』と信じていたから、ようやく訪れ始めた眠気に身を任せるようにリモコンを操作し、室内灯をオフにして忘れられない夏の一日に幕を閉じた。

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