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第58話「あふれる『好き』」

 夏。それは『恋の季節』という若干頭の悪そうなイメージがあって、現にこの時期になるとなぜか人々は行動的になり、いとも簡単に恋に落ちてしまうらしい。

 そうした恋は夏の風物詩である線香花火のように、季節が寒くなるとあっさり立ち消えてしまうことも多い。そして私と円佳の絆はそんな一時的なものではなくて、夏だからと特別に関係が進展することもなければ、夏が終わると同時に関係が終わるようなこともない…後者については、ちょっぴり、そこそこ、結構…不安だけど。

「…円佳ぁ…」

 自室のベッドの上で、私は枕を抱きしめながらごろりごろりと寝返りを繰り返していた。そして万が一にでも愛する人に聞こえないよう、情けなくも甘ったるい呼び声は枕に押しつけて打ち消す。

 それでも私の呼吸と体温を受け取った寝具は空調の効いた部屋であってもあっという間に熱くなって、せっかくシャワーを浴びたというのにまた汗をかきそうになっていた。

 …汗だけで済めばいい。気を抜いてしまうと私は『とんでもない失態』を一人晒しそうになっていて、この間抜けに悶えている姿ですら自制した結果でしかなかった。

「…好き、好き、好き好き好きっ、大好きっ…円佳、円佳、円佳ぁ…」

 彼女と出会った頃から存在していた気持ちは年々落ち着くどころか、一緒に過ごすほど増大していった。今の私は『円佳への愛情がかろうじて人の形を保っているだけ』でしかなくて、この瞬間は人どころか巨人サイズになってしまうほど、彼女の愛が私の器に収まらないほど大きくなってしまっている。

 だから私は人ならざる姿になってしまわないよう、少しでも彼女への愛情を吐き出し、心も形も人間であろうと努力していた。円佳には絶対に言えないけれど、私は彼女からとくに優しくされたときは──つまりそれなりの高頻度で──こんなふうに一人愛を囁いていたのだけど、今日はもう、すごい。

 どれだけ愛を吐き出しても無制限に砂糖のような熱が生まれ、もしも枕を取り上げられてしまった場合、私は窓を全開にして月へと吠えていただろう。

 それは野生の狼という格好いいものではなく、飼い主である円佳が好きすぎる結果、ちょっと離れただけで泣きわめきながら必死に呼ぶ、実に私らしい駄犬の様相を呈していた。

 ドバドバ、胸の中で生まれる砂糖は今も止まらない。今の私なら結衣さんが作るお菓子よりも甘いなにかを吐き出すことが可能で、これを円佳にぶちまけてしまいたいと思う反面、そんなことをすればドン引きされるのが明白であるとおびえるくらいの冷静さが、私をまた一歩人間に近づけている。

(…私、キス、された…円佳に、大好きな、人に…)

 この無限に生まれるカラメルソースの正体、それは今日、円佳にされたことが関係していた…というよりも、それこそが甘さの源泉であり、私から人間性を奪いかねない原因でもあったのだ。

 プールで早乙女との冷戦がスタートした結果、私は一人で『円佳を取られるかもしれない』と悩んで、それでもあいつに助けられたことで安易に手をかけるわけにもいかず、どうすれば勝てるのか…ではなく、どうすれば負けずに済むのかと、ひたすらに情けなく弱い私は考えていた。

 その結果として円佳とのあいだに生まれた空気は冬の温水プールみたいな、微妙な温度と湿度でもって私たちの会話を奪う。暖かいけど少し冷たい、でも震えるほどじゃない…そんな温度調整に悩んでしまう距離感は私を押し黙らせて、ああ、こんな私だからこそ円佳は奪われそうになるとうじうじ悩んでいたのだ。

 そんな温度を一変させてくれたのが、夏祭り。

(お祭り、本当に楽しかった…おいしいものを食べて、一緒に遊んで、花火を見て…花火…)

 う、そんな痛みを伴わないうめき声が聞こえる。その発信源は枕で、私の寝具は呪われているのかもしれない…などと、自分の間抜けさを押しつけていた。

 初めて参加するお祭りの空気は悩みを抱えた私たちすらも踊らせるような、夏の躍動感を集約したかのような力を持っていた。エージェントとして育てられた私たちでも浮かれてしまうような、ともすれば命取りになりかねないイベントであるにもかかわらず、あのときの私たちは油断とかそういうことを意識する余裕もなく。

 ただ好きな人と目の前のお祭り騒ぎに翻弄される時間は私に襲いかかってくる泥棒猫のことも忘れさせてくれて、どんな戦いであれそれから解放されることの幸せは、私の脆弱な精神をゆるゆると溶かしてくれた。

 そうして迎えた打ち上げ花火、私は二人きりになれたことで空に浮かぶ花畑…というより、ちらちらキラキラとした光に照らされる円佳の横顔に心を奪われていた。

 その顔は、一枚の絵画のように完璧だった。人々の目を奪うはずの花火すら彼女の美しさを引き立てるスポットライトになっていて、これまでに何度も触れてきた私ですら手垢を付けることが許されていないような、宗教画すら超えた神々しさを放っている。

 だから私は懺悔するように今日のことを謝り、それでもまだ罪から逃れるように自分の弱さと最愛の人を奪われる不安を吐露したら。

 スポットライトが消えた暗い空間の中、円佳が一歩踏み出したと思ったら、私の唇は最愛の人の唇によって塞がれていた。

 それは天から使わされた現人神が哀れな民衆を慈しむような、あまりにも優しい感触。伝わる温度は帳が下りて幾分か涼しくなった夜を一気に朝焼けに進めるような、日の出を知らせるあたたかさ。

 その時間の概念すら奪い去る出来事は当時の私にとって驚きでしかなく、せっかくのファーストキスなのに目を見開いたまま固まるという、女性としても恋人としてもいろいろと台無しな反応しかできなかった。

 けれどもキスの最中にうっすらと目を開いた円佳と視線が交差しても、彼女はそんな私のリアクションを唾棄するどころか、そっと肩を掴んでさらに強く唇を押し当ててくる。そこでようやく私は最愛の人に、人生で唯一の初めて、最初のキスを捧げられたのだと理解できた。

 そこから家に帰るまで、そして汗を流して自室に入るまでは夏の陽炎を歩くみたいに不確かな足取りと思考だったけれど、快眠を促す室温と慣れ親しんだベッドによって、やっと私は円佳の気持ちを噛み締めることができて。

「…私の片思いじゃ、なかった」

 円佳は何度も『私は絵里花の恋人だよ』と伝えてくれて、しかも『好き』とか『大好き』とか、思い出すとまた枕に突撃したくなる愛の確認までもしてくれて、今さら片思いという単語を口にするなんて頭がおかしいと思われるだろう。

 だけど私にとっての円佳は…現実味を損なうくらいに完璧な存在であって、それこそ本当に絵画の中にしか存在しない美の象徴だったとしても不思議じゃなくて、私は空想上の物語に一方的な恋心を抱いていたかのような不安があった。

 一分の狂いもなく配置された目鼻口、左右対称の完璧な輪郭、人間らしさを感じさせない整いすぎた顔立ち。

 いつも冷静なのに優しくて、とりわけ私にはどこまでも情け深くなる性格。

 頭の回転、身体能力、戦闘技術、すべてを備えた強さ。

 どこからどこまでも私の理想…いや、横恋慕を企てる人間がいくらいたとしても不思議じゃないほどの魅力を持つ円佳が私だけの恋人だなんて、毎日が雲に包まれた山道を歩くような不明瞭さがあったのだ。

 誰よりも近くにいてくれるのに、いつ消えてしまっても不思議じゃない相手へ恋をすることは、私にとっての片思いも同然だったのに。

 今も刻まれているキスの感触は円佳が人間であることを教えてくれるには十分な、体で感じる情報量の塊みたいな出来事だった。

 この日、私の初恋は両思いになった。さすがの私でもキスされてしまえば円佳からの愛情、その存在を疑うわけにもいかない。

 すると、どうだろう。自分が円佳に愛されているという実感は彼女に甘ったれ続けていた最後の自制心すら取り払うかのように、あまりにも貪欲な…今日してもらえたキスの先すら、求め始めていた。

(……私は、円佳に……抱かれたい)

 ハグという意味であれば、私は何度も抱いてもらっている。それこそ毎日、私がねだるかどうかに関係なく円佳はぎゅっとしてくれて、その両腕に包まれる幸せは何度重ねても色あせず、毎日愛する人で上書きされるような多幸感に心身が狂喜乱舞しそうだった。

 つまり、今の私の欲求は。キスの先、恋人同士の、つながり。

 それは男と女であればもっとシンプルに、そしてもっと早く求め合い、精神的なものだけでなく肉体的なものまで満たすための行為だった。

「……!? な、何を考えてるのよ……!?」

 思わず枕を上空に放り投げ、叫ぶ。その叫びが室内の壁を何度か反響したところで枕は再び私の顔に落下し、ぼふっという痛覚を刺激しない衝撃に戒められた。

 …いや、今の自分の考えがそこまで不条理なものではないことくらいはわかっている。そういう知識だって──逆に言えば知識しかない──備わっていた。

 たとえ女同士であっても、好きな相手に抱かれたいと願うのは自然なことだ。そもそも愛情には単なる優しさ…慈愛だけでなく、性愛だって含まれている。それは多くの場合で男と女が向け合うものだけど、同性カップルのCMCも珍しくないように、私と円佳が向け合うことになるのは時間の問題だったかもしれない。

 何より…私は、見てしまった。正確には聴覚での把握だったけれど、美咲と結衣さんのアレ…セッ…んんっ、女同士でも求め合うというのを知ったわけで、そうなると私が求める相手なんて一人しかいない。

「…キスって、あんなにも…あんな気持ちに…」

 枕を顔から下ろし、天井を見つめてぼやっと口にする。

 唇にするキスは多くの意味合いを持つけれど、『そういうこと』をする前に行うケースが多いように、気持ちだけでなく肉体にもスイッチを入れる効果があることを、今になって知ってしまった。

 そう、私の体は…円佳を『受け入れる』ための準備を…しようと、していた…。

(…うそ…嘘、でしょ…わ、私、そんな女…だったの…?)

 意識することで自制できるかと思いきや、むしろ私の体は『卑しい』と表現できるような状態になりつつあった。

 心拍数は上昇し、顔に浮かんだ熱は全身に伝わっていき、とりわけお腹の中…やや下の位置くらいが、熱い。

 熱くて熱くて、キスをすることで知らない夏となった今日みたいな温度が、きゅぅぅぅんと生まれる。それは経験のない私であっても理由と作用がわかる、だからこそ認めたくない事実を突きつけていた。

(…だ、ダメ…私は『前』にも、円佳に…円佳を、求めそうになって…)

 仰向けに寝転がったまま膝を持ち上げ、両手はお腹を押さえ、太ももをもじもじと擦り合わせつつ、かつての蛮行を責めるべくあの夜を思い出す。

 美咲と結衣さんの情事を感じ取った私はその熱狂に感化されたように、円佳の体に手を伸ばした。そしてその女性らしさの主張に触れたとき、その心地よさに酔いしれた反面、手垢を付けてはならない美術品を汚したような罪悪感に襲われたのだ。

 そして今、円佳と両思いになったという確信がまた私に禁断の扉を開かせようとしていた。もしも私が駄犬らしく理性を完全に捨てて本能に身を委ねた場合、今すぐ円佳の部屋に乗り込んで…勝てるかどうかはわからなくとも、体術を使ってでも押さえ込み、そしてこの衝動を発散するための行為に及びかねなかった。

「……できるわけないでしょうが!! そんなの、そんなのって……!!」

 円佳は私なんかよりも強いから、本気を出せば駄犬くらいならあっさりと撃退できるだろう。

 だけど彼女は私のことをキスするくらい好きでいてくれて、それ以前からも優しすぎて…私に襲いかかられたとき、本気で攻撃できないかもしれない。

 だからこそ、そんなことは絶対してはならない。私はすでに円佳へすべてを捧げる準備が終わっている…むしろすぐに捧げたいけれど。

 円佳は…あの清らかな恋人は。きっとそこまでは、求めていない。

 いつかは彼女も私のように体へ熱を帯びてくれるかもしれないけれど、円佳は恋愛に対してはとても思慮深く、潮の満ち引きのようにゆっくりと歩み寄ってくれていた。それなのに私の津波のような衝動で飲み込もうとするなんて、許してはいけない。

「……ごめんなさい、円佳……んっ」

 だから、どうか。

 あなたのことが好きすぎて仕方ない、ふしだらな私を許して。

『こうする』ことで私は落ち着き、あなたのペースに合わせられるだろうから。

 だから私は念のために消灯し、掛け布団を被り、そしてもぞりもぞりと動き始める。最初だけ思わず声が漏れてしまったけれど、すでに眠っているはずの円佳には聞こえていない…はず。

 そうして私は自分に生まれた『火照り』を持て余すように、声を潜めて長い夜を噛み締めつつ、せっかくシャワーを浴びたというのにまた『汗をかく』ことを受け入れた。

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