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第59話「甘いのはお菓子だけじゃない?」

 唇へのキスを経験した私たちはより一層親密になり、どこぞのふしだらCMCカップルよりも仲良くなった…かと思いきや。

「二人とも、手伝ってくれてありがとね。円佳ちゃんも絵里花ちゃんも器用だし、おかげで次のイベントに出すお菓子も間に合いそうだよ」

「いえ、これくらいいつでも言ってください…あ、絵里花、こっちの調味料を使うよね? はい」

「っ…あ、ありがとう…」

 この日の私たちは結衣さんの自宅にお邪魔していて、地元のイベントで出すためのお菓子作りを手伝っていた。この前のお祭りに比べると小規模だけど、それでもそこそこの人数が訪れるらしく、ルミエラのパティシエは毎年協力するのが恒例となっているらしい。

 そして夏休みで時間に余裕があり、何より普段はこれでもかとお世話になっている結衣さんへの協力を惜しむはずがなくて、この話を持ちかけられたときは二つ返事でOKした。無論絵里花も…というか、料理が好きな彼女のほうが乗り気だったように思う。

 …だというのに。お菓子作りの最中、これから使用するであろう調味料を取って渡すと、絵里花は私の顔を見て頬を真っ赤にし、消え入りそうな声で返事をしつつそれを受け取った。

 ちなみに絵里花の視線の向かっていた先、それは多分…唇、なのだろう。

 だって私も今は絵里花を見る度にその唇に視線を奪われて、あの日の熱が夜空とそこに咲く花火と一緒に蘇り、彼女ほどではないにしても頬が赤くなるのがわかった。

 絵里花の唇は今日もきれいなピンクで、彼女の恋人である私は「私とのキスに備えていつもきれいに整えてくれているのかな」なんてうぬぼれてしまう。ちなみに私も絵里花とのキス以降は唇のケアに十分な時間を割くようになっていて、いつ不意打ちでキスされても問題がないよう、常在戦場の心構えで絵里花を待っていた。

 そんな備えを始めておよそ一週間、私の唇は無駄につややかなまま、絵里花が触れることなく所在なさげに主張を続けている。意識すると「もうちょっときれいにしたほうがいいかな…」と鏡の前に駆け込みそうになるあたり、自分の性別がやっぱり女なのだと安心できた。

「…はぁ…」

「絵里花ちゃん、疲れちゃった? ごめんね、少し休む?」

「あっ、ち、違うんです! こ、これは、その…えっと…自分の情けなさに嫌気が差しただけで!」

「そ、そう? でも絵里花ちゃんはしっかり手伝ってくれているし、そんなに思い詰めなくてもいいと思うよ」

「あ、ありがとうございます…はぁ…」

 三人でお菓子を作っている最中、突如として絵里花が自己嫌悪たっぷりのため息をつく。ともすればわざとらしさすら感じかねない行動だったけど、結衣さんがそれに対して不快感を表すはずもなくて、私よりも先に気遣ってくれた。美咲さんもそうだけど、結衣さんも本気で怒った姿が全然想像できない。

 対する絵里花は慌てて言い訳をし、ため息に自己嫌悪がこもっていたという私の見立てはやっぱり正しかったのだとわずかに誇らしさを感じ、同時にその原因がいまいちわからないことに情けなさも覚えた。

(…キス自体がいやだった、とかはないよね…?)

 ファーストキスの翌日以降、私と絵里花はお互いを強く意識していて、こんなふうに近くにいると上手く話せなかったり、そして絵里花の場合はため息をついたりしている。

 つまりキスが何らかの影響を与えたのは間違いなくて、でも仮にキスがいやだったのであればその嫌悪は自己ではなく私に向けていただろうから、そういうことを一切してこないということは最悪の可能性は考慮しなくていいだろう…万が一本当にキスがいやだった場合、私の心は折れてしまうかもしれないし。

 一応、気になることはある。キスをした次の日、朝起きてきた絵里花は肌つやと血色がよかった一方、両目は澱んでいて「ごめんなさい…」なんて謝られた。顔は健康的なのに瞳の中は黒い渦を描いていて、思えばあのときが自己嫌悪のピークだったのかもしれない。

(でも、その日の夜のことは絶対に教えてくれないんだよな…)

 もちろん私とて何もしないまま手をこまねいていたわけではなく、せっかくキスを済ませて親密になれた以上、それ相応の…仲良し、になりたかったのだ。いや、またすぐにキスがしたいというわけではなく。したいけど。

 けれども率直に聞いたら「それだけは言えないの…」と私までも飲み込みそうな渦を向けてきて、遠回しに聞こうにもそこまで自分の口が上手いはずもなく、結局は「言いたくなったらいつでも聞かせてね」という当たり障りのない受け身姿勢に落ち着いた。

 …さっきの絵里花の言葉じゃないけれど、私までも自分の情けなさに自己嫌悪を抱いてしまいそうで、二人揃って周囲までも巻き込む渦潮を生み出しかねなかった。

(…絵里花、私とキスをしてくれたのに。それなのに言えないことって、なんなの…)

 そんな渦から脱するどころか身を任せてしまった私は、面倒くさい女みたいな思考に支配されていた。

 あのときのキスはたしかに私からしたけれど、それでも絵里花は拒否しなかった。同時に、絵里花は本当にいやなことであれば私相手でも突っぱねられる強さがあるはずで、それを拡大解釈すれば『絵里花も私へキスをしたいという意思があった』と言えるだろう…もはや拡大解釈というよりも曲解みたいなレベルかもしれないけど。

 それでも唇へのキスを許せる相手は絵里花にとって一番大事な存在のはずで、ならば私へはなんだって言えるはずだった。これまでもお互いが上手く伝えられなかったことで何度もすれ違っていたわけだし、だからこそ何でも言って欲しい…というのは、わがままなのだろうか?

 いや、そもそも…私も絵里花に対して言えないことってあるのだろうか?

(…私は、絵里花ともう一度キスをしたい。そして彼女が拒まないのであれば、もっと深く、強く…っっっ!?)

 私はなんだって絵里花に伝えられる、それを再確認すべく自分の秘密とやらを探ってみたら…私の中の諜報員が掴んだ情報はこの場において相応しくない、色にたとえると『桃色』とでも表現すべき内容であった。

 それは桜のようにうっすらと淡い色合いではなく、ビビッドと表現すべき強烈で鮮明なピンク。人間は色に対してある程度共通するイメージを持っているけれど、この色については…その…。

 えっちぃ、とでも、言うべきか。

 絵里花の唇にキスをしたら、次は首筋にキスをしてみたい。

 そのままちゅっちゅと位置を下に移動させて、腕、手の甲、折り返して鎖骨、そして。

 と、そこまで考えて私は一人顔を赤くし、それに気づいた結衣さんに「円佳ちゃん、顔が真っ赤だけど…熱、あるの?」と心配された。

「い、いえ、大丈夫です…すみません、お菓子作りの最中なのに心配をかけて」

「それはいいんだけど…うーん…」

 思えば今日は結衣さんを手伝うためにここへ来たのに、その途中で勝手に重い女になって手が止まるとか…この人でなければどれだけ怒られていたかわからない。

 もちろん結衣さんは私の入り乱れる思考の中身なんてわからないだろうけど、それでも手が止まっていたのは事実だというのに、やっぱり叱るようなそぶりを見せずに私と絵里花を交互に見ていた。

 そのリアクションについて居心地の悪さを感じた私と絵里花は顔を見合わせ、けれどすぐにお互いが相手の唇に目線を下ろし、やっぱり顔を赤くするだけで何の進展もなかった。

「…私、少し材料を買い足してくるよ。二人はできあがったプリンにソースをかけててくれる? それが終わったら休憩してていいからね」

「あ、買い物なら私が」

「いいのいいの、今日は私が手伝ってもらっているんだから…時間がかかるかもだから、焦らなくていいからね」

 このまま見つめていても何も変わらないし、かといって絵里花から逸らすこともできない…なんて冷戦中の国境線みたいな状態になっていたら、急にふんわりと微笑んだ結衣さんはそんな提案をしてくる。

 結衣さんは元々柔らかな性格だけど、今の笑みはスフレのように軽やかでありながらも優しく、軽薄さを伴わない包容力にて私たちに投げかけられた。

 つまり私たちはまたしても結衣さんに気を使われてしまったということで、ここの家主は彼女であるはずなのに、私たちを二人きりにするために出ていくつもりなのだろう。

 さすがにそこまでは、と思って私も絵里花も自分が向かうように伝えたけれど、こういうときの結衣さんは意外と頑固なのか、それでもやっぱり焼き菓子のように堅さを感じさせない目配せで受け流し、私は『焦らなくていいから』の部分に「この人は私の重苦しい『女』に気づいているのかもしれない」と思ったら、またしても顔は赤くなりそうだった。

 かくしてキッチンには私と絵里花、そしてイベント用のお菓子であるミニプリンだけが残されて、滑らかにぷるぷると震えるその姿を呆然と眺めていた。

「…じゃ、じゃあ、ソース、かけるわね…」

「…う、うん」

 いつまでもプリンのダンスを眺めているわけにもいかないので、私たちは結衣さんの手伝いに来たという名目を完遂すべく、季節の果実で作られたソースをかけて仕上げを行う。

 プリンにかけるものといえばカラメルソースが王道だけど、今回は夏のイベントに出すことも鑑みて、完熟マンゴーのソースを作っていた。ピューレ状にした濃厚な甘さのマンゴーに少量のレモンを搾り、夏らしい爽やかを演出している。一方でプリンはたまごとミルクの優しい甘さを内包しており、結衣さんらしい季節感を活かした逸品に仕上がっていた。

 …今日はあくまでも手伝いに来たのだけど、完成品を見るとやっぱり食べたくなる。というか結衣さんからも「完成したら試食もお願いね」とも言われていて、すでに口の中はトロピカルなプリンの味を再現しつつあった。

 そんな空想上の味わいに、私のお腹はくぅ~という間抜けな音を立てる。それは私たちのあいだに漂っていたぎこちない静寂から空気を抜き、しおしおと緊張感は萎えていった。

「…ふふ、こんなにおいしそうだし、お腹も減っちゃうわよね」

「…あはは、恥ずかしいな…ね、先に試食させてもらおうよ」

「いいわね」

 こんな状況であっても空腹を奏でる自分の食欲に対し、思うところはある。というか、絵里花とキスをしてからの私はいろんな欲望に正直になっているのか、なるべく表には出さないようにしつつも心は自制できなくて、先ほどのように面倒くさくなっていた。

 だけど…正しいことばかりをしていても打破できない状況というのはあって、そういう格好悪い偶然が見せてくれる笑顔もある。現に今の絵里花は少しだけ自然に、そして楽しそうに微笑んでくれた。

 また、春が来る。ギシギシと固く冷たかった私と絵里花の冬が、夏に向けて一歩前進してくれたのだ。

「んっ、やっぱりおいしい…結衣さん、本当にすごいパティシエなんだなぁ…」

「本当ね…プリンにマンゴーソースってなかなか想像できなかったけど、これだけでアラモードみたいなたくさんの味わいが楽しめる…」

 だから私たちは目の前の夏を味わうべく、ミニプリンのマンゴーソースがけを口に運ぶ。

 果たして予想通り、それはとてもおいしかった。私の場合は料理に強いこだわりがあるわけでもないので、おいしいとしか表現できないのだけど…絵里花の『プリン・アラモードみたい』というのは、なんとも的確だった。

 シンプルにおいしいプリンにこだわりのマンゴーソース、構成内容を文字にするのは実に簡単だ。けれども口内に広がる味わいは牛乳の優しさ、たまごのまろやかさ、マンゴーとレモンの甘酸っぱさ…それはまさにアラモード、味のフェスティバルとも言うべき七変化を見せてくれる。

 つまり、なんだ…おいしい。あと結衣さんはすごい。しかも優しいし、気遣い上手だし…美咲さんの恋人でいてくれて、本当によかった。

 美咲さんみたいないい人に結衣さんみたいないい人が引っ付いてくれる、それは見ていてどこまでも安心できて気持ちのいい状態だった。

 いつか私と絵里花もそんなふうに思われたい、そう羨むくらいには…あの二人はベストカップルなんだろうな。

(そうだ、私と絵里花もあんなふう…に…)

 結衣さんのプリンによってお腹だけでなく心も満たされ、余裕のできた私は自然体で絵里花と向き合おうとした。

 けれど。プリンを上機嫌に食べる絵里花は、可愛いけれど。

 私の視線は懲りもせず、今一番気になる場所へと注がれた。それは自分でわかるほどねっとりとした熱と質感があって、夏らしいお菓子の余韻を台無しにしそうだった。

(…絵里花の口元に、ソースがついてる…)

 無邪気にプリンを楽しむ絵里花は口元が少し汚れていることに気づいていないようで、なんなら私の視線にも気を払ってはいない。

 絵里花のきれいな唇にそっとマンゴーソースが添えられている姿は、まるで私にだけ出されるデザート…あえてストレートに感想を口にするのなら、とっても『おいしそう』だった。

「…絵里花、口のところ、ソースが…ついてるよ」

「…え? あの、円佳…?」

 絵里花の頬に手を添えて、私はソースを取るべく…唇を近づける。指ではなく顔を寄せてくることで絵里花も私の意図に気づいたのか、その瞳は一瞬で湿度を増して、一度だけ左右に振れていた。

 けれども今ここにいるのは私たちだけで、誰にも『それ』を見られる心配はない。もちろん絵里花が拒むのなら私の体温も一気に冷えて、この衝動を省みられるのだろうけど。

 絵里花は決して後ずさりせず、手を出さず、拒絶の言葉も吐かずに。

 ぎゅっと目を閉じて、私だけが食べられるデザートを捧げてくれた。

「…んっ」

 私が絵里花の下唇にそっとキスをしたとき、どちらからともなく切なげで秘めやかな吐息が漏れた。

 下唇に付いたソースをちゅっとすくい取り、わずかに離れた私は舌なめずりをする。するとプリンにかけられていたものよりも強い甘みが口内に広がって、血糖値が急上昇したかのようにクラクラとした。

 絵里花は、こんなにも甘かった。彼女の味が、匂いが、感触が…私を酔わせる。甘い香りに誘われるミツバチのように、私はすでにソースが消えた絵里花の唇に再度キスをした。

「んんっ…」

「ん、ふぅ…」

 それはソースを舐め取るという名目すらなくなった、ただのキスだった。

 だから今後は私たちの唇全体がしっかりと重なって、忘れられない夏が始まったときのような感触が蘇る。

 あのときの違うのは、音。花火のお腹の奥を震わせるような振動はなく、遠くから聞こえる人々の歓声もない。私たちしかいないマンションの一室はあまりにも静かで、お互いから漏れる吐息がファーストキスのとき以上に生々しかった。

(…気持ち、いい。やっぱり、キスって…すごく、すごく…いい)

 ふっふっと繰り返される吐息を何度も噛み締めながら、私は唇にすべての神経を集中させ、絵里花の感触を一瞬たりとも逃さないように引っ付け続ける。

 そして私の脳が下した感覚、それは間違いなく『気持ちいい』という快楽のシグナルだった。

 絵里花の柔らかさを自分の柔らかな部分で受け止め、流れ込んでくる情報を熱に浮かされながら精査する。するとその結果は毎回同じで、ただただ、気持ちいい。

 一番気持ちいいのは唇なのだけど、首から嚥下されるようにその快感が下方向へと伝っていて、主に腹部に沈殿していくよう。自分の手で唇を触れたときではまず起こらない生理反応に、私の体は、脳は、魂は揺さぶられっぱなしだった。

(…『ここから先』は、どうなのかな…?)

 キスの先、それの意味がわからないほど勉強不足ではなかった。

 むしろキスをする前から『もっとお互いが好きになったらしよう』なんて約束をやや遠回りながらも交わしていて、そしてキスをしたらその回りくどさは一気果敢に解消されそうになって、気づいたら私は絵里花を抱きしめていた。

 それはまるで、この先を求めたとしても逃げられないように。丹念に作った巣に獲物を誘い込む蟻地獄みたいな行動に、絵里花は。

 自ら飛び込むように、私の背中へと腕を回してきた──。


「ただいまー。二人とも、遅くなってごめんね」


 危なかった。結衣さん、ありがとう。

 私の中に芽生えたのは、間違いなく感謝だった。

 だって、私は。

 結衣さんが戻ってこなかったら、どこまでしていたかわからなかったのだから。

 そして幸いなことに、玄関が開いた直後には私と絵里花はぱっと離れられて、多分何が起こっていたかは気づかれていないだろう…この真っ赤な顔を見て察せられない限りは。

「え、絵里花、私…」

「…ご、ごめんなさい、ちょっとお手洗い行ってくる…」

 せっかくの緩んだ空気を台無しにしたことを謝ろうとしたら絵里花はそそくさと駆け出し、その言葉通りトイレへ引っ込む。

 その様子に私はまたぎこちなさを取り戻したことを理解して、結衣さんの「…もうちょっとゆっくり戻ってきたほうがよかったかな…」なんて言葉にも上手く返事ができなかった。

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