愛車──といっても研究所が用意したものだが──を運転して程なく、美咲は都市部から少し離れた住宅地…それも豪邸のみが建ち並ぶような、超高級という表現の似合うエリアに訪れていた。
そこは円佳たちも暮らすような住宅地とはまた異なる、非現実的なまでの閑静さに包まれていた。それぞれが十分な敷地を持っていることもあって家同士の距離もしっかりと確保され、人口密度が低く自然も多いことから、人の手が入っていながらも生活感のない空間となっている。
無論高所得者たちを守るように監視ドローンは飛び回り、それぞれの家の塀にもAI監視カメラが備え付けられ、空き巣などを狙う不審者も近づけなくなっていた。
(そう、ここは外も中も人の営みから隔絶されている…一握りの人間だけが手に入れられる環境としては、あまりにも無機質)
美咲はそんな住宅地を歩き、とある豪邸の前で立ち止まり、一層息が詰まったような錯覚を感じる。徹底的な監視網が敷かれたこのエリアは不審者でなくとも息を殺しそうになるが、ここは…『実家』については、とくに彼女へプレッシャーを与えていた。
美咲の実家、それはこの住宅地の中でもとりわけ立派な邸宅であった。レンガ造りの外壁は西洋風の重厚な雰囲気を放ち、屋根はスレートグレーの上品かつクラシカルなデザインで、黒い鉄製の門壁には家紋が刻印されている。
美咲がそれを何気なしに開くと正面玄関へ向かって石畳のアプローチが続き、整然と手入れされた植栽が並んでいた。敷地内にあるガレージにはかつては父親が趣味で集めていた輸入車が並んでいたが、現在は多忙で乗る時間もないせいか単なる物置になっている。
本日履いているグレーのランニングシューズは学生時代に使っていたローファーとは異なり、石畳を歩いても余計な音はしない。仮に音を立てたとしても、かつてここで暮らしていた美咲に後ろめたいことはないが、実質的に『断絶』を選んだ人間が目立つわけにもいかず、彼女は自然と呼吸音すら潜めていた。
そして両開きのドアを開くと、その外観に見合う大理石の床と高い天井のエントランスホールが出迎える。吹き抜けになっている空間は日本の持ち家としてはファンタジーの領域にすら足を踏み入れていて、ふと「ここでドレスを着て自撮りすれば結衣お姉さんを驚かせられるかもしれない」と思い、端末を取り出そうとして、すぐにやめた。
(…ドレスもまだあるかもしれませんが、性に合わないんですよね。私には作曲中に着る部屋着がお似合いですから)
昨日、円佳たちに晒した自身の部屋着──仕事着も兼ねている──を思い出す。
それは実家が用意したものではなく、紛れもなく自分の力だけで購入した衣類であった。記憶の中にあるドレスとは異なる既製品であり、着古したと言えるほど長く着続けた結果、それなりに価値があるものであってもすっかり生活感にあふれてしまっている。
結衣にすら「そろそろ買い換えなよ…せっかくの美人なのに」と苦言を呈されてはいるが、美咲にとっては自分が『外』で生きた証拠でもあるため、もはや相棒と表現しても差し支えない。
なお、今日の美咲はライトブルーのタンクトップに薄手のホワイトパーカーを羽織っており、ボトムスはブラックのジョガーパンツというスポーティーカジュアルだった。パーカーと色を揃えたスポーツキャップを目深に被っており、これもここで暮らしていたときとはまったく異なる、ある種の変装でもあったのだ。
自分はもう、この家の人間ではない。まるで拘束具のような堅苦しいドレスも、一族に相応しい上品な服装も、すべて捨ててしまった。
(…それでもここに戻ってくることはある…結衣お姉さんに事情を知られたら、笑われそうですね…)
階段を上りつつ、美咲は壁に飾られた絵を眺める。それは単なる西洋画だけでなく家族を描いた肖像画も含まれているが、自分も描かれているものはほぼ見当たらない。おそらくここを出た直後には外されたのだろう。
それは美咲にとって当然のことであり、むしろ救いのようにも感じられた。もしも現在もここに自分の肖像画が飾られていたのであれば、似合わない郷愁を覚えていたかもしれないから。
しかし…自分の痕跡が消えつつある実家を目の当たりにすると、違った寂しさも浮かんでくる。今現在この家を包む空間のように冷たく静かで、かつて暮らしていた頃には感じなかった震えるような空気は、美咲に戻る場所がなくなったような寂寥感を抱かせた。
「…お邪魔します」
家というには広すぎる屋内を歩き、美咲は目的地…父親専用となっている書斎にたどり着く。不在であることは把握していたのでノックはしなかったものの、口からは自然と他人行儀な挨拶が漏れ出て、美咲は慌てて口を押さえそうになり、予想通り誰もいなかったことで苦笑いだけを浮かべた。
部屋のほぼ真ん中には重厚な木製の机があり、周囲は本棚に囲まれている。それは本屋にいるときのような得体も知れぬ緊張感を生み出していて、改めて長居は無用だと悟った。
するすると静かに歩き、机の一番上の引き出しに手を伸ばす。するとそこには鍵がかかっていて、美咲は予定調和とばかりにパーカーの内ポケットからピッキングツールを取り出した。
「…お父様、娘は立派に成長しましたよ。その成果、ご覧になってくださいね」
AIによる高性能セキュリティツールが一般化した昨今であるが、この机の鍵は旧来の、それも簡素なものである。これは安価な製品というわけではなく、むしろ世代を超えて使われるほど頑丈で歴史のあるものであるがゆえ、鍵穴のアップデートも行われていなかった。
それはつまり、エージェントとして一通りの訓練を受けた美咲にとって無防備と同然だ。アナログな施錠は家の人間からプライバシーを守るには十分であったが、解錠技術も備わった外部の人間にはあっさりと突破を許し、美咲は引き出しを開く。
小物入れのトレーを持ち上げると小分けされたスペースが登場し、そこにはいくつかの鍵が入っている。そのうちの一つを取り出した美咲はパーカーのポケットに入れて、引き出しの施錠を済ませて自分の足跡を消す。
(お父様は忙しい方ですからね、どうせ気づかないでしょう…うふふ、美咲は悪い子に育ちましたよ)
目的を達成した美咲は口元にいびつな笑みを浮かべ、かつては尊敬していた父親の背中を思い出そうとした。
けれどもそれは物理的にも時間的にも遠くへ行ってしまったように、スーツを着ているということしかわからなくなっている。顔についてはニュースでもしばしば取り上げられているはずであるが、自身の端末には家族関連のニュースは表示されないようにミュートを駆使しているため、もしかしたら一生顔を合わすことはないのかもしれなかった。
(…やっぱり、ここに来るべきではなかったかもしれませんね…)
もう顔を合わせることはない、それは美咲だけでなく家族にとっても望んだ結末かもしれなかった。
しかし、父親、母親、兄、姉…それらの血が通った存在とはもう会えないと思ったとき、美咲の胸中には3000ピースのパズルよりも複雑な感情が走り抜けた。
決して噛み合わず完成することもない感情は、美咲に『本当にこのまま帰ってもいいのか?』という、本来聞くべきではない質問がよぎる。
もう目的は達成した、長居は無用だ…だというのに、美咲の足は玄関ではなく別の部屋へと向かっている。それがどんな結末を迎えるのか、予想はできていたとしても。
「…ただいま戻りました」
ここは自分のいるべき場所じゃない、美咲は自覚があってもそう言わざるを得ない部屋…自室のドアを開いた。
そこはかつて自分が過ごしていたとは思えないほど、生活感が取り除かれた部屋であった。
「…ですよね」
自分の痕跡に乏しい自室にて、美咲は予想通りの結果に口元を緩める。
もしもあの頃のままであった場合、自責の念に駆られて心をかきむしっていた。
しかし目の前に広がる光景には自分の私物なんて残されておらず、ベッドやデスクといった比較的大きな家具もなくなっていて、美咲はわざとらしく目元を覆ってくっくと含み笑いを漏らす。
「ああ、もうここは…私の帰るべき場所じゃないんですね…」
わかっていた。なんなら、それを確かめるためにここへ来たのかもしれない。
それでも美咲は両親が自分をどう思っているのかを突きつけられたようで、心の外側に痛みとかゆみが半々くらいの割合で駆け抜ける。その感触は美咲の体に『早くここから立ち去るべきだ』と警告していて、けれども自傷行為へと走るように、彼女は部屋の片隅に置かれた段ボールへと歩み寄る。
その段ボールの上には、かつて自分が家族の期待に応えていた姿…ホワイトダリア女子学院へ通っていた頃の、美咲の写真が置かれていた。
写真の中の美咲はワンピースタイプの制服を着用していて、色は落ち着いたブラウン、それを同じ色のベルトで引き締めていた。そしてその両隣には笑顔の両親が立っていて、自慢の娘との記録を喜んでいるようにしか見えない。
そしてこの写真が残っているという事実に、美咲は今も自分を大切に思ってくれているのではないと気づく。
(…私と家族の時間は、ここで止まったままなんですね)
この写真の中で時間が止まっているのであれば、両親にとって美咲は美しい思い出でしかないのだ。
それを美咲が望まなくとも、両親はそうありたいと願っている。そして美咲はそれを邪魔しないことこそが最後の親孝行だと理解し、思い出の中に写る自分を指先で一撫でして、写真立てを静かに伏せた。
「…さようなら、『私』」
おそらく『鍵』が不要になればまた戻しに来るだろうが、それでもこの部屋に来るのはこれが最後だろう。
だから美咲は思い出の中で歩みを止めた両親と自分に別れを告げ、自室だった場所を後にした。
「…美咲お嬢様?」
もうここでの思い出はいらない、私は前に進むだけだ…なんて思って自室を出た直後。
掃除道具を持っていた50代ほどの女性がきょとんと見ていて、美咲は自分の体がこわばるのを自覚した。狙撃の最中ですから自然な動きを続けるというのに、今の彼女は親に叱られる子供のように動けない。
「…お久しぶりです、山田さん」
呼吸を取り戻すように、美咲はその人の名前を呼んで挨拶する。すると山田と呼ばれた女性は温かく微笑んで、掃除用具を置いて一歩前へと踏み出した。
山田は美咲が幼い頃から世話をしてくれていた、この家の使用人…家政婦だった。両親からの信頼は厚く、兄や姉ももう一人の母親のように慕っていて、そして…末娘だった美咲は、とくに可愛がられていたのだ。
加齢という年輪は増えたように感じるものの、今も浮かべる笑顔には美咲を邪険にする雰囲気はなく、美咲は誰かに見つかったという警戒心があっさり消え失せていくのを感じる。
同時に、考えてしまう。
もしもこの人が、唯一の家族であったのなら。
「お嬢様、お久しぶりです…! お戻りになったのなら声をかけてくだされば…」
「いえ、もう帰りますので…あの、私が今日ここに来たことはどうか内密に」
「ご安心ください、旦那様も奥様もしばらくはお戻りになりませんし、お兄さまやお姉さまも出かけておりますので」
美咲は一瞬生まれてしまった親しみに罪悪感を覚えつつ、人差し指を口に当てて内緒のポーズを取る。それはあまりにも子供っぽい仕草であったが意図的ではなく、彼女が油断していることをあらわにしていた。
山田もその動きに応えるように、美咲の懸念を払拭するための言葉を紡ぐ。それはかつて美咲がいたずらをしたときの仕草そのもので、在りし日を思い出すように山田はまた表情を緩め、同時に眉尻を下げた。
「…お嬢様が今はどのように過ごされているかは存じませんが…ここには戻られないのですか?」
「…今さらですよ。もう両親は私のことなんて見ていませんし、戻ることを望むはずがないでしょう? 由緒正しい家に生まれておきながら因果律に逆らう、そんな親不孝者はここには不要ですから」
多分この人は心から私のことを案じてくれて、そして『戻りたい』と願えば最大限心を砕いてくれるだろう。
美咲は単なる使用人を超えた絆を感じると目の奥がわずかに熱くなったため、それを冷ますべく厳然とした事実を述べる。
自分の心身を冷ます言葉は吐き出す度に口内が凍り付くようで、不覚にも潤みそうになった目は無感情を取り戻すように乾いていった。
山田はそんな様子にあの頃の美咲がいなくなったことを理解し、一段と眉尻は下がっていく。
「そんなことはありません、奥様は今もお嬢様との思い出を大切にしていて…あの写真だって、奥様がそのままにするようにとおっしゃっていたんですよ?」
「…お父様は?」
「旦那様は立場上、素直になれないだけです。政財界の手前、どうしてもお嬢様には厳しくしないといけなかっただけで…たまに書斎へお酒を持ち込んで、録音したお嬢様のフルート演奏を聴きながら目を閉じていました」
聞くんじゃなかった、美咲はそう感じて渋い表情となる。
この人は使用人だ、両親のことは自分のほうが理解している…そんな思い上がりは今もあるはずなのに、自分を育ててくれた女性の言葉は容易に頑なな心を揺るがせる。
母親は、まだいい。美咲の母は彼女に似て穏やかな気性であり、多少は心配してくれているのは織り込み済だった。
しかし…父親は。いつも理知的で周囲を優先していたあの人が、そんな感傷的な行動を取っているだなんて。
いじける子供のように質問したことを美咲は恥じて、目を泳がせつつも声は震わせない。
「…それなら私は、あのときに優しく…味方になって欲しかったんです。でも、それをしなかった…そして、この家からほとんど私の痕跡を消した。ここは私にとって寒すぎる、冬のような場所になってしまいました」
「お嬢様、それは違います…お嬢様の私物は、今はガレージに」
「っ、失礼します…!」
「お嬢様…!」
ダメだ、この人の言葉は…私を生暖かくしてしまう。
美咲はその一時的なぬくもりによってさらにこの家の寒さが際立ったような気がして、両腕を抱えるようにして身を逸らす。
背中から投げかけられる言葉のすべてを遮断するように走り、少しでも早くこの冬のような場所から逃げ出せるよう祈っていた。
*
「…ええ、ええ。はい、準備バッチリです…うふふ、これでもあの子たちのお姉さんですから」
実家から逃げおおせた美咲は停めてある車に乗り込み、携帯端末を片手に通話する。
その相手は結衣、最愛の恋人だった。
「…え? 落ち込んでる? 私がですか? うふふ、結衣お姉さんって本当に勘がいいですよね…大丈夫です、ちょっと『冬みたいに寒い場所』にいて体が冷えちゃっただけですから」
結衣と話していると、凍り付いた心はあっさりとほぐれていく。
美咲は何度も感じていたことを今日はとくに噛み締め、その優しさに声は震えていき。
今度こそ堪えきれなかった一粒が、頬を伝って落ちていった。恋人にすら見せなかった雫は人知れず弾け散り、美咲は雪解けを迎えたことに笑っていた。
「…ねえ、結衣お姉さん。『旅行』も楽しみですけど、今日はそれとは別にお泊まりへ行ってもいいですか? 実はまだちょっと寒くて、お姉さんに温めてもらいたくて…ああっ、エッチなことはしなくてもいいんですっ」
そんな恋人と、さらには妹分も一緒に行く旅行はさぞ楽しいだろう。
美咲は山田の言葉によってより不確かになった家族との関係から目を逸らし、ただ楽しいことだけを見つめていた。
この人がいてくれたら、きっと私から四季は失われない。寒いだけじゃなくて暖かい…時には『熱い』とすら表現できる季節だって迎えられるから。
「…うふふ、ありがとうございます。今日はお酒も持ち込みますから、一緒にいい夢を見ましょうね…それでは」
季節の訪れを受け入れてもらえた美咲は電話を切り、車を走らせる。
いつもの癖で確認したバックミラーには誰も映っていなかったが、それでも家族同然の家政婦の優しげな笑顔がちらついて、美咲は小さく囁いた。
「…山田さん。もしもまた『そこ』に行くことがあれば…フルート、聞いてくださいね」