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第63話「海は広いな」

「ほらほらっ、絵里花っ」

「ちょ、まっ…きゃっ」

「あはは、これでまた私の勝ちだね!」

 水着──プールへ向かうために購入したものだ──へ着替えた私と円佳は再び波打ち際に移動して、今はビーチボールを使って遊んでいた。ボールは美咲が用意したもので、柄はスイカを模したものだった。

 その美咲は結衣さんと一緒にビーチパラソルの下にいて、たまに目が合うとこちらを見て微笑んでいた。先ほどまでは一緒に遊んでいたものの、「お二人と違って若くないので、ちょっと休ませてください…」とのことだ。狙撃銃を軽々取り回す精鋭エージェントの口から出た言葉とは思えない。

 ともかく私と円佳はどうあがいても邪魔が入らない環境で海遊びに興じていて、その円佳は…びっくりするほど楽しげだった。

 ビーチボールを使ったバレーの真似事──アニメなどでよく見る光景を見様見真似で楽しんでいる──はたしかに楽しいけれど、普段は学校の体育でも顔色どころか表情すら変化させない彼女はずっと笑っていて、この遊びのどこが彼女の琴線に触れているのだろう…なんて思いながら相手をしていたら、円佳が不意打ちのようにキレのいいアタックを仕掛けてきた。

 私はかろうじてレシーブで反応できたものの、彼女の身体能力から放たれるそれは注意力散漫な私の態勢を崩し、ボールが宙に浮いたと同時に背中から海へと倒れ込んでしまう。すると一瞬だけ視界は水中に染まり、味覚は塩味の到来を訴える。

 それは料理で慣れ親しんだものよりもしょっぱくて、私が今年になって初めて知った、夏の風物詩というやつかもしれなかった。

「ごめんごめん、大丈夫?」

「ちょっとしょっぱいけど、痛みとかはないから安心して…その、あなたがすごく楽しそうだったから、何だか見とれちゃって」

 足が軽く浸かるほどの水位で私は座り込んだまま、プライベートビーチの空を見上げる。入り江のイメージが強い空間は開放的であるにも関わらず青空が狭く見えて、窮屈さはなくとも箱庭に飛び込んだような錯覚があった。

 それをぼうっと見つめていたら立ち上がることを忘れ、心配してくれた円佳が歩み寄って私へと手を差し伸べてくれる。水着に着替えたあと、私がアップにセットした髪はどこか大人びていて、今日は可愛いよりもきれいが際立っているように見えた。

 でもその顔は心配にくもらせているわけではなく、ニコニコと無邪気で無防備に笑っていて、もしもこの子の顔から下があまりにも女性的でなければ、その年齢は中学生以下にも見えていたかもしれない。元々円佳は童顔だったけど、今日はもはや幼気いたいけの領域にまで幼く見えた。

 大人らしさに幼さを宿らせたアンバランスさは彼女ほどの造形美を備えていると、いびつどころか天秤座のような完璧なバランスにすら映ってしまう。

 …本当に、ここがプライベートビーチでよかった。もしも大衆的な海水浴場の場合、多くの人が円佳に見惚れてナンパをしてきそうだから。

「え、そうかな? 絵里花はあんまり楽しくない?」

「楽しくないのなら、こんなふうにはしゃがないわよ…その、円佳」

 円佳の手を握り、ゆっくりと立ち上がる。ほんの少し前までは意識しすぎてろくに触れることができなかったそれは、夏の日差しに比べてあまりにも安穏とした温度だった。

 いつまでも触れていたくなる、私だけのぬくもり。いつ何度でも私に差し伸べられて、そして包み込むように私を守ってくれていた存在感。

 その手は今海水にまみれて滑りそうに見えたけど、実際は私のことをがっちりと掴んでいてくれて、もしも津波が来たとしても絶対にはぐれることがなさそうなほど…安心できる。円佳は私を彼女の隣につなぎ止めてくれる、錨のような存在だった。

(だけどその安心感に甘えていては、私の気持ちは伝わらない…)

 円佳は思慮深い一方で、最近は強く迫ってくる機会が増えていて、正直に言うとそれは嬉しい。好きな相手に求められて不快感を覚えるほど女を捨てているわけがなく、むしろ嬉しいからこそ私の体は瞬時に円佳のための『準備』をしようとして、そうした反応が私の判断力を著しく低下させていた。

 円佳が好き、これだけは何があっても揺るぎない。

 同時に、円佳が求めているかもしれないこと…恋人の向こう側に行きたいとも思っている。

 だけど臆病でへたれている私は沸騰する体と脳が相反するような行動を生みだして、愛する人を受け入れることも、彼女から離れることもできない。

 …本当に、何をしたいのかわからない。強いて言えば『恥ずかしい』というのが根底にあるのだろうけど、それは眠る彼女に手を伸ばしかけた私の言えたことでもなくて、つまり、まあ、逃げていたんだと思う。

 だから今、手をつないだ瞬間。それを逃してはならないと思い、私は安心感から抜錨するよう、ゆっくり立ち上がって円佳を見つめた。

「…ごめんなさい。ここ最近、あなたのこと…避ける、じゃないんだけど。えーっと、なんて言えばいいのかしら…」

「…絵里花。えいっ」

 ばちゃん、水の跳ねる音が聞こえる。

 すると私の体に海水が降り注ぎ、円佳が両手を使ってかけてきたことを遅れて理解した。水を使った不意打ちはモゴモゴとした口の中に容赦なく侵入して、再びしょっぱいスープを飲まされたような気分になる。

 だけど、不愉快ではなかった。

「わぷっ!? な、何をするのよ!」

「だって絵里花、いきなり謝ってくるから…えっとね、あなたの言おうとしていること、なんとなくわかるっていうか…私も上手く言えないんだけど。こういうときはさ」

 ばちゃん、もう一度水が跳ねたものの、今度は両腕を使って顔だけを守り切る。全身は濡れてしまったけれど、水着である以上はノーダメージだと言ってもいいだろう。

 自分なりに大切なことを言おうとしていたのを遮られた結果、私は少しだけ睨むように抗議したものの、円佳はまったく悪びれる様子がない。普段の自罰的ですらある大人の表情や行動は、夏を満喫する少女によって完全に制圧されていた。

「たくさんたくさん楽しんで、それで笑えばいいと思うんだよね。そうすれば自然と仲良くできるし、変に意識しなくていいし…もしかしたら海にいるあいだだけかもしれないけどさ、それでもここにいるうちは楽しく絵里花と過ごせるなら…そういう時間を大切にしたいの。それがね、今の私の気持ち」

「…何よそれ。そういうのって…ずるいわよっ」

 夏という刹那的な季節を駆け巡る少女は、にっかりと笑って見せた。

 私の悩んでいることも、それを払拭するための謝罪も、心底どうでもいいように。いや、優しいこの子のことなのだ…きっと心のどこかでは今も悩んでいて、自分で口にしたように、海にいるあいだだけは意図的に無視しているのかもしれない。

 それは円佳には似つかわしくない問題の先送りで、そして逃避行動であるようにも見えた。冷静で優秀なエージェントを評価している研究所の連中からすれば、きっと嘆かわしく映るのだろう。

 だけど、私は…そんな円佳も好きだった。そもそも嫌いな円佳というのが存在しないのだろうけど。

 そんな大好きな人に対し、私はばしゃりと、これまでのカウンターをするように水をかぶせる。笑顔で無防備な円佳は上半身全体で海水を受け止め、それに対して驚くことも怒ることもなく、珍しく「きゃー♪」なんてはしゃいでいた。

「そうそう、そうこなくちゃ! 絵里花、次は水のかけっこで勝負だよ! 勝敗は…うーん…先にギブアップしたほうの負けで!」

「何よそのデスマッチみたいな勝負…上等じゃない! 私が負けず嫌いなこと、しっかりと思い出させてあげる!」

 今の円佳は、多分話を聞いてくれない。

 それくらい彼女の思考は楽しさに支配されていて、ほかのものが入り込む余地がない。そんな姿は年齢を重ね冷静になってからは一度も見たことがなくて、言うなればとてもレアな姿だった。

 大好きな人の珍しい姿を見られるなら、私はそれに付き合えばいい。大切な話とか、今後のことだとか、そんなの知るものか。

 円佳の思考が乗り移ったかのように余計なことを考えられなくなった私は、両腕を振り回すように円佳へと海水をぶっかけ始めた。もちろん円佳も反撃をしてきて、お互い全身がずぶ濡れになる。

 ちなみにそれを見守っていた結衣さんは「二人の水の掛け合い、なんだか勢いがすごすぎない!?」なんて突っ込んできて、美咲は「あれが若さですよ」なんて腕組みしながら頷いていた。


 *


「ぎ、ギブアップ! もうやめましょうこんなの!」

「だ、だね…あははっ、疲れたぁ…」

 それからの私たちは勝敗条件が曖昧な戦いを続け、やがて全身がしょっぱくなって息が切れ始めたところで、私が敗北を認めた。

 私は負けず嫌いではあるけれど、それでも円佳に勝てるところなんて一つもなくて、思えば最初から勝利者は決まっていたのかもしれない。それに対して悔しさはなく、残ったのは疲労感と…水もしたたる円佳を見られた満足感だった。

 海水を弾くつややかな肌、水滴が光を反射する髪、疲れたと言いつつも嬉しそうに笑う顔…そのどれもが海から出てきた人魚姫のようで、フィクションの中にしか存在しないようなこの恋人が改めて美しく見えた。

 それこそ、手を伸ばさなければそのまま海へと帰ってしまいそうで。私は呼吸を整えてから、今も「ねえ、次は何をする?」と遊ぶ気満々の彼女に問いかけた。

「ねえ、円佳…今日のあなた、どうしてそんなにも楽しそうなの? さっきも聞いたし、ダメとかそういうのじゃなくて…気になるのよ、恋人のことだと」

「んー…そうだね、たしかにらしくないっていうか、自分でもはしゃぎすぎてるって思うかも。でも私、ずっと夢だったから…絵里花といろんなところへ行くの」

 チャプチャプと円佳は私の目前まで歩いてきて、両手を握って軽く持ち上げる。指はとても自然に絡められて、まるでこの状態が普通であるかのようにしっくりときていた。

 だから私も要領の得ない返事に若干首をかしげつつ、それでも絡めた指にいつも通り力を込める。少し前までならこの距離だと顔が熱くなって身体がオーバーヒートを起こしていたけれど、今は海水による冷却効果が働いているのか、私の脳もお腹も冷静でいてくれた。

 だから、聞きたい。この人がどうしてここまで楽しそうなのか、大好きな人が何を考えているのか…私は円佳のことなら全部知りたかった。

「…私たちさ、普段は担当エリアから離れることなんてできないでしょ? 特別な事情があれば別だろうけど、そういう事情って多分仕事に関わるもので…こんなふうに絵里花と楽しくどこかに行けるのって、本当に夢みたいだって嬉しくなったんだ」

「円佳…」

 時々だけど、円佳は遠くを見ていることがあった。それは精神的な意味だけでなく、物理的な意味も込められていたように思う。

 そういうときの円佳は物憂げでそれだけで絵になっていたから、つい私は眺めるだけで満足することもあったのだけど…その視線と思考の行き先を詳しく聞くことはなくて、今になって彼女が好きすぎる自分の弱点が見えた気がした。

 円佳はとても思慮深く、いつもなにかを考えていた。だけど私は無意識のうちに彼女を完璧な存在として扱っていて、いや、円佳が私にとって完璧な恋人というのは間違いじゃないのだけど。

 完璧ということは弱点がなく、悩みとは無縁であると思い込みやすい。私は何度も円佳の心中を吐露してもらえていたのに、いつも自分の根底では円佳の完璧を疑ってなくて、それが際限のない甘ったれにつながっていたんだろう。

 …本当に私は、何度同じ失敗をすればいいんだろう。円佳を支えるって数え切れないくらい誓っていても、毎日いっぱいいっぱいな自分に翻弄されて、結局はこの子と向き合っていられなかったのだから。

 だから円佳を呼んで、続きを促す。その気遣いというには小さすぎる言葉にも、円佳は律儀に微笑んでくれた。

「私はいつも絵里花をいろんなところへ…素敵な場所へ連れて行ってあげたかった。絵里花がそれを望んでいるのかどうか、そこまでちゃんと考えてはいなかったかもしれないけど…それでも絵里花は研究所から出てきてからは楽しそうにすることが増えてたから、そんなあなたをもっと見たくて、それが叶ったと思ったら…楽しくて、たまんない。今回は私の力じゃないけど、それでも…って、絵里花? どうしたの?」

「……ごめんなさい、ちょっとこっち来て」

 円佳は誰よりも私のことを理解してくれているけど、研究所から出てきてからの私について…なぜ嬉しそうにしていたのか、それだけはちょっぴり認識がずれていた。

 そう、私は…円佳と恋人同士になれたことが、何よりも嬉しかった。それは因果律のことを考えれば当然の結果なのだろうけど、それでもその瞬間を迎えたこと、円佳が全然いやそうにしていなかったこと、そうした事実がとっても嬉しくて…私は円佳が恋人として隣にいてくれたのなら、今も研究所にいたとしても嬉しそうにしていただろう。

 それでも今の円佳の言葉には『絵里花を喜ばせたい』と『絵里花が嬉しそうだと私も嬉しい』という意味が多分に含まれていて、海水による冷却効果は一瞬にして失ってしまった。

 ああ、ダメだ…このまま円佳と見つめ合っていたら、おかしくなる。

 だから私は醜態を晒すくらいならと彼女の手を引っ張って、先ほど着替えに使った岩場へ急行した。美咲も結衣さんも私たちを見ていたけれど、制止することはなかった。


 *


「絵里花、本当にどうし…んんっ!?」

 プライベートビーチにある小さな岩場、その裏。そこは私たちの保護者役をしている人たちの目からも逃れられる、ラストリゾートともいうべき場所だった。

 そう、ここなら。私の衝動を爆発させたって、それは私たちの記憶にしか残らない。

 だから私はキスをした。円佳を逃さないように抱きしめ、唇を強引に奪う。

(無理、もう無理…円佳、好き、好き、大好き…大好きっ)

 私の状態を正確に表現するなら、『たまらなくなった』というものだった。

 円佳のことは、ずっとずっと大好き。だけど人が変わったように楽しむ姿の原因が私への愛情にあると思ったら、こんなの、我慢できるわけがない。

 もしもあのまま円佳と手を握りながら見つめ合っていたら、私は程なくしてへたり込み、全身を震わせてあられもない様子を晒していただろう。その姿は体調不良にも見えただろうけど、現実はあまりにもひどい…口にすることはできない、それこそ『醜態』でしかなかった。

 じゃあどうする? 決まっている、円佳で発散するしかない。

 まるで男のような欲求解消方法を採用した私は、間違いなく卑しい女だった。

「んっ、んっ…ん」

「んふぅ、んっ…」

 そんな卑しい女の行動に円佳は最初だけ驚いて見せ、だけどすぐに力を抜くどころか、私の身体に腕を回して彼女も受け入れてくれたのだ。

 ああ、たまらない…たまらないという気持ちが、無制限にあふれてくる。

 ろくな恋愛経験もない私でも、これの正体が『たまらない』と表現すべきものだとわかる。人間は相手への愛情が振り切れるとそれ相応の行為に及びたくなるみたいで、もしも私たちが『この先』を経験していた場合、とても危なかったかもしれない。

「…ぷはぁ…絵里花、どうして…?」

「…ご、ごめんなさい…あなたにあんなこと言われたら、私、我慢できなくて…」

「…んふっ、そっか。うん、うん…多分それ、この前の私と同じだと思う」

 愛情を取り立てるような強いキスを終えて口を離すと、円佳はあどけない少女の顔に成長した女の表情を混ぜ込んで、私に対して短い質問を突きつけてくる。そこに不満や憤怒はなかったけど、『発散』ができたと思わしき私は罪悪感を吐き出すように謝った。

 目を伏せて落ち込む私をやっぱり円佳はぎゅっと抱き寄せて、水着だと肌が触れ合う面積が広くてうっとりしそうになり、でも罪悪感が残っていたことでなんとか意識は保てた。

 …あ、頭も撫でてくれた…油断すると、やばそうね…。

「…私もさ、お菓子作りのとき…絵里花を見てたらたまらなくなって、キスしちゃった。だからさ、あの…絵里花も、私のこと、それくらい好きで『たまらない』って思ってくれてるの、わかるっていうか…な、なんかうぬぼれてるみたいで恥ずかしいけどっ」

「…んふへっ、あはっ、あはは…ご、ごめんなさい、変な声出ちゃったわね…」

 あのときの円佳の行動に対し、私はもちろん拒否感はなかった。

 だけどそのときの勢いについては私をお菓子ごと食らいつくそうとするような力があって、でも抵抗する気はさらさらなくて、身体はむしろ受け入れるように反応していて…。

 それがひたすら恥ずかしかった。でも、だからこそ、円佳の気持ちがわかる。

 私たちの考えていること、突き動かす衝動…それがピタリと一致して、そのあまりにもしっくりとしたはまり具合は幸福よりもおかしさを先行させた。

「…あなたから逃げてばかりで、ごめんなさい。でも私、一度もいやとは思ってなかった…だから、その」

「…今日の夜、一緒に寝てみようか」

「!!…っ、う、うん…」

 それはもしかすると、添い寝のお誘いかもしれない。

 でも、ここまでの行動と文脈から察すると…その意味について、より『深いもの』を考えてしまって。

 それでもやっぱり断らなかった自分の判断を、私は内心でしっかりと褒めていた。

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