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第64話「こんな時間が続いて欲しいですね」

「若者たちは元気ですねぇ…羨ましい限りです」

「美咲も私もまだ二十代なんだけど…けどまあ、あの二人が元気っていうのには同意かな」

 プライベートな海辺に建てられたビーチパラソルの下で、美咲と結衣はくつろぎながら妹分のやりとりを見守り、つい先ほどは絵里花が円佳の手を引いて、ここからでは見えない岩場の影へと移動していった。

 それの意味するところがわからないほど、美咲も結衣も子供ではない。けれどもその様子を想像するほど無粋ではなく、同時に制止するほど不健全でもないと理解していることもあり、円佳と絵里花の姿が見えなくなってもその点に触れることはなかった。

 二人が消えた海を眺める美咲と結衣の表情は優しく、そこにあるさざ波のように穏やかですらあった。

「にしても、美咲も粋なことをしてくれるね。実家へ別荘の鍵を取りに行ってたなんて」

「うふふ、私は昔から小粋な人間ですよ。若者たちの背中を押すため、何より愛する人の水着姿を見るためなら…これくらい、お安いご用です」

 先ほどまでは四人で遊んでいたこともあり、美咲も結衣も水着に着替えていた。

 美咲はブラックのシンプルなビキニで、トップスはハイネックデザインで露出を抑えつつ、ボトムスもハイウエストでありながらも腰のあたりにメタリックなアクセントが施されていて、全体的にクールにまとまっている。

 結衣はクラシカルなネイビーのワンピースで、胸元についているシンプルなリボンが上品なイメージを持たせていた。素朴なパールイヤリングやストローハットも着用しており、その様子は美咲以上にお嬢様らしかった。

 そして美咲は結衣の水着姿を上から下まで滑らせるようにチェックし、お菓子を食べた猫のように舌なめずりをしつつ満足げに頷く。普段の結衣であれば苦言の一つや二つも呈していたものの、今日は柔らかな苦笑を浮かべるだけだった。

「私は水着に着替えなくてもよかったかなって思ってたけど…そんなふうに言ってもらえるなら、選んだ甲斐があったかな」

「ダメですダメです、結衣お姉さんだけが水着を着ないなんてマナー違反もいいところです…ましてやここには私たち以外がいないんですから、奪われる心配もありません…こんなふうに」

「わっ…もう、人がいないからって。それに美咲のほうがスタイルもいいし、私のほうが心配なんだけどな?」

 普段以上にふわりと笑む浮かべる結衣に対し、美咲は同じように笑って肩を抱き寄せる。するとお互いが水着を着ていることもあってか、肌の感触やぬくもりがいつも以上に浸透していった。

 すると美咲の中に、圧倒的な納得による満足感が押し寄せてくる。それは目の前の小さな海のように、じんわりと二人をくるんでいった。

(…そう、この人とあの二人が喜んでくれただけで…私は満足です。過去のことだって、どうでも)

 このプライベートビーチもあの別荘も、かつて美咲が家族と訪れていた場所であった。あの頃は家族仲も良好で、末娘である彼女は両親だけでなく兄や姉からも可愛がられていたのだ。

 別荘へ到着すると同時に我慢できずにリビングで着替え始め、母親にはしたないと叱られたこと。

 海では水鉄砲を使って逃げ回る兄を撃ち抜き、早くも射撃能力の片鱗を見せたこと。

 散々遊んだ後に別荘へ戻り、父親と一緒にバーベキューの用意をしたこと。

 食後、バイオリンを弾く姉の隣でフルートを吹いたこと。

 そのどれもが美咲にとって捨てられないほど輝いていた思い出で、だからこそ実家に戻ること、こうして思い出すことで胸の奥は軋むような音を立てて痛みを訴える。

 だからこそ、私は見たい。私を笑顔にしてくれる、この人たちだけを。

 美咲は抱き寄せたとしても逃げない結衣にそっと顔を近づけ、触れるだけの甘いキスを捧げた。

「…もう、外なのに」

「うふふ、いいじゃないですか。あの二人も今頃はいい感じになってるでしょうし、私たちも負けてられませんよ」

「そうだね、円佳ちゃんも絵里花ちゃんも海に来てからは素直に楽しんでいるみたいだし…美咲、本当によく頑張ったね。えらいえらい」

「あっ…」

 夏の気温に身を任せ、このまま舌までも入れてしまいたい。以前ここに来たときはもっと子供のように戯れていた自分が、今や恋人を貪ることを覚えてしまっていた…それはまるで思い出をピンクの絵の具で塗り潰すみたいで、美咲は後悔はせずともまた奇妙な軋みが胸の奥でうめくのを自覚した。

 そしてキスによってほんのりと頬を染めた結衣は一度だけいさめるようにつぶやいたものの、すぐに先ほどの優しい笑顔を取り戻し、今度は彼女が肩に腕を回して抱き寄せ、そして美咲の頭を撫でた。

 その子供扱いされる感触に、美咲の視界は一瞬だけセピア色に染まる。そして波打ち際では在りし日の自分と家族が走り回っていて、思わず手を伸ばしそうになり。

 その動きを制するように、結衣は頭をぽんぽんとした。美咲の景色はカラー表示へと戻ったが、そこに寂しさはない。ただ愛する人の変わらぬ笑顔があったことに、ひどく安堵していた。

「…美咲は私たちのことになると頑張り過ぎちゃうの、知ってるからね。私たちはとっても楽しいけど、美咲は大丈夫? 無理してないよね?」

「…もう。結衣お姉さんは優しすぎて、気を使いすぎですよ。私、これでも上手くやっているつもりですから。お姉さんが心配することなんて、ありませんよ」

「ふふ、そっか…そういうことにしとくよ」

 自分の過去、その痛み…それすら見通しているかのような結衣にじっと見つめられ、美咲は自分の心を守られていることに安心しつつ、それでもすべては言えなくてゆらりと目を逸らした。

 結衣はその視線を追いかけることなく、もう一度頭をぽんぽんしてから手を離す。そうして彼女は人の存在しない海を眺め始め、美咲はその横顔に見とれていたら、携帯端末の通知音に邪魔をされてわずかに顔をしかめた。

(…はぁ、また研究所からですか…緊急でないならもっと頻度を落としてもらいたいのですが)

 エージェントの端末は文字通り特別製であり、見た目こそ普及品に酷似しているものの、機密を守るための仕組みがいくつも搭載されていた。

 たとえばロック解除にも使う顔認証用カメラは常時起動しており、エージェント以外を認識したらダミー画面へと瞬時に切り替わる。結衣は元々携帯をのぞき見るような無作法はしないとはいえ、美咲は恋人の視線が海に向いていることを確認しつつ、届いたメッセージ内容を確認していた。

 美咲のような監視役をしている場合、研究所からの報告というのは小刻みに届く。ましてや彼女の場合は優秀な狙撃手も兼ねているため、やむを得ない場合は別任務へと駆り出されることもあった。

 幸いなのはそういう緊急性の高い通知ではなかったことで、それでも読んでいないと後で何を言われるかわからなかったこともあり、美咲は要約機能を使いつつ目を通す。

 それは決して時間も手間もかかる作業ではなかったが、彼女の胸中に辟易とした感情が浮かぶ。

(今は物理的に研究所から離れているのに、私たちは運命から解放されるわけじゃない…当たり前のことですのに、バケーション中だと気が重くなりますね)

 美咲は──ほかに選択肢がなかったとはいえ──自らの意思でエージェントになり、そしてその立場だからこそ自由を貫く権利を得ていた。

 しかしその自由は仮初めのものであって、大きな失敗でもあればいつ剥奪されるかわからない。それは自ら背負った運命が常に後ろから銃を突きつけてきているような圧迫感があって、水着を濡らす海水は乾いたというのに、じっとりとした重みが彼女の身体にのしかかっていた。

(…私はいいんです、選ぶことができたのだから。でも、あの子たちは)

 自分の意思でエージェントになった美咲。

 生まれたときからエージェントであることを義務づけられた円佳と絵里花。

 どちらもエージェントでありながら、美咲は『選ぶ』というプロセスが与えられなかった二人に対し、運命の不平等さを改めて感じていた。

 だからこそ、あの子たちから運命の重みを取り除きたい。それができないとわかっているからこそ、その重さを忘れられる時間も与えたい。

 自分のためだけに銃を撃つことになった美咲は、気づくとたくさんのものを背負うようになっていて。

 それが、私は。

「まさか、女の子からの着信じゃないよね? 言っておくけど、『ほかに用事ができました』なんて理由でどこか行こうとした場合…私だけじゃなくてあの子たちにも見捨てられるからね?」

「…結衣お姉さん、私をなんだと思ってるんですか…くすん」

 湿度を帯びた重さに飲み込まれようとしていた美咲の耳朶に、結衣の言葉が丸く突き刺さる。それはどこか責めるようなニュアンスがあるというのに、声音はとても軽やかだった。

 美咲は音の方向に顔を向けると茶化すように笑っている結衣がこちらを見ていて、その手は頬へと伸び、むにっと美咲の顔を引っ張る。それは何の痛みも生み出さないどころか、美咲を波音が心地よい世界へと引き戻してくれた。

 そうだ、私は。自分のことも、あの子たちのことも。

 何より、この人のことを背負って戦う自分が。

 今となっては唯一、誇れるものだろうから。

 その答えに行き着くと同時に美咲はわざとらしく頬を膨らませ、そして嘘泣きの仕草を見せた。

「…ありゃ、いいの?」

「ええ、いいんです。今日は家族サービスをするよき姉役ですからね、可愛い妹たちと素敵なお嫁さんだけを見ています」

「お嫁さん、ね…んふ」

 嘘泣きが止んだ後、美咲は携帯端末をマナーモード──といっても緊急性が高い連絡には無効だが──に切り替え、それを鞄の中へと入れる。

 無粋な連絡の確認が遅れたところでなんだというのか、それで怒られたとしてもどうということはない。

 今日は、大切な人たちだけを見ていよう。いろんなものを捨ててきた私の戦う理由になってくれる、この人たちのことを。

 いろんなものを振り切った美咲に対し、結衣は珍しくくすぐったそうに笑いをこぼして、一方的なお嫁さん宣言を否定も肯定もせずに受け止めた。

 その余裕がある態度に美咲は救われる一方、自分なりに『未来』を意識したつもりだったのか、曖昧にされたことで心細さを感じていた。

 私の未来には、ずっとこの人がいて欲しい。

 そんな本音を隠せずに、また一歩、好奇心と慎重さを兼ね備えた猫のように踏み出す。

「…いつか本当の家族サービス、したいですね。ほら、前に話したこと…覚えてますか?」

「私に子供を産んで欲しい、だっけ? そうだねぇ…子供がいたらさ、たしかにこういうところにも連れてきてあげたいよね」

「うふふっ、それだと今日は家族旅行の予行演習にもなっていますね…円佳さんと絵里花さん、私たちの子供としては申し分ないでしょう?」

「あははっ、わかる…でもさ、あの二人が子供だとしたら手がかからなさすぎて、逆にちょっと寂しいかもよ?」

 美咲の静かなる一歩に対しても、結衣は照れることなくいつも通り返事をする。気づいたら円佳と絵里花が波打ち際に戻ってきていて、お互い顔が少しだけ赤いものの、今も握られた手から強い絆を感じられた。

 賢く、聞き分けもよく、成績優秀で気遣いもできる…それは子供としてはできすぎていて、結衣はそんな二人が自分の娘であったらと考えたら、圧倒的な満足感の片隅で物足りなさが主張しているのに気づいた。

 もしかしたら私、結構過保護なのかな…結衣はそう思いつつも、そんな家庭を築きたいと素直に思えた。

「ですかねぇ…あの二人なら私たちの『夫婦の時間』にも配慮してくれそうですから、なかなかありがたくないですか?」

「子供ができたら夫婦である前に『両親』であらないと、でしょ? そうなったら美咲にはいろいろと我慢してもらって、今以上にバリバリ働いてもらわないとね」

「…やっぱり、もうちょっとだけ夫婦じゃなくて恋人でもいいかもですね」

「んー、同感…と言いたいけど、美咲には今のうちからしっかりしてもらいたいから、とりあえずお仕事は頑張ってね?」

「…やっぱり、結衣お姉さんはいけずですっ」

 多分私は、この人と結婚する。

 美咲と結衣はほぼ同時にそんな未来を想起していて、そして…同じように茶化し、ケラケラと笑い合っていた。

 自らの因果を捨てた美咲。

 因果を持たない結衣。

 因果律が支配する世界において、その組み合わせは異物とすら言えるいびつな形かもしれない。

 しかし二人は自分たちの絆がどこでもまっすぐ続いていると信じられて、再び波打ち際での遊びを再開した円佳と絵里花の目を盗むようにして、やっぱり軽いキスを交わした。

 触れる時間は短く感触もささやかではあるが、それに反比例するかのように心はきらめく波で満たされていく。

 満たされた恋人たちが見つめ合うと、どうしても思うことは同じであった。

「…今日、二人部屋で一緒に寝ましょうね。恋人同士が旅行先で別々に寝るだなんて、それこそあの二人に心配されちゃいますから」

「…いいけどさ。先に言っておくけど、今日は本当に『シない』からね? この前のこと、ちゃんと反省してる?」

「もちろんですっ。あれからしばらくは本当にお預けされて、作曲中の鼻歌がデスメタルみたいになってました…」

「自業自得でしょ…まったく。そのときだってすぐに泣きついてきて、結局許す羽目になったし」

 夏の海水のような温度を帯びた美咲の瞳は、結衣を求める熱に満ちていた。結衣はそんな熱が自分に投げかけられたこと、そしてこれまでの『狼藉』を思い出してしまったことで…自分の身体までもが同じことを求めそうになっているのを自覚した結果、美咲へ責任を押しつけるかのように呆れてみせた。

 本当にこの愛する人と二人きりになって流されずに済むのか、今日は同じ家に泊まるとはいえ円佳たちとは部屋が別々なので大丈夫かもしれない、そうした思考がぐるぐると回りつつも結衣はせめて言葉だけでは抵抗しておく。

「…ふふっ。この旅行、朝から夜まで楽しいことでいっぱいですね」

「…そうだね。その点に関しては、感謝してる…好きだよ、美咲」

「はい、私も好きです…結衣お姉さん」

 抵抗するための言葉はどこか白々しいというのに、好意の言葉のなんともしっかりしていることだろうか。結衣は自分の口が思っていたよりも正直であることに、悔しさと嬉しさがない交ぜになっていた。

 美咲もまたその素直さに『お誘い』が肯定されたと信じてしまい、自分の持ち込んだ荷物の中に『とっておきの肌着』を紛れ込ませたのは正解だと確信する。

 二人の気持ちだけでなく身体まで溶け合うのかどうか、それは夜が訪れるまで誰にもわからなかった。

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