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第65話「暑い夜に」

「それじゃあ、私は結衣お姉さんと寝ますので…お二人もどうぞごゆっくり。明日はゆっくり起きても大丈夫ですからね? それと『洗濯』についてもハウスキーパーに依頼しますので、その辺の心配も不要です。あとは…」

「美咲、その辺で…二人とも、ゆっくり休んでね。絵里花ちゃん、明日のご飯は私たちが作るから大丈夫だよ」

「…ど、どうも…」

 旅行における楽しみ、それにはいくつかあるらしい。

 有名なところでいえば、食事。実際、私たちの今日の夕飯であるバーベキューは美咲さんの強いこだわりがあったのか、用意されたお肉はどれも国産の質がいいものばかりでとてもおいしかった。

 さらに、入浴。この別荘なら浴槽も広いんだろうな…とは思っていたけれど、天然ではないものの露天風呂まで用意されていて、夜空を見上げながらの入浴は新鮮で心身がリラックスできた。

 でも…恋人と旅行する場合、『就寝』についてもしばしばお楽しみに分類されるらしい。

(…誘ったのは私。とはいえ、なんだろう、この空気…)

 この別荘には二人部屋が二つ、一人部屋が二つ用意されている。となれば美咲さんと結衣さんが二人部屋を使うのは既定路線と言えて、二人の顔はお風呂上がりだけでは説明がつかない赤みが差しており、そこから察するに『恋人とのお楽しみ』が待ち受けている可能性は乙女である私でも察せられた。

 じゃあ私たちはどうするのか、だけど。まあ、うん。私から誘ったのであれば、もうあとには退けない。

 美咲さんは事前に「どの部屋でも好きなところを使ってください」と言ってくれていたので、私と絵里花がそれぞれ一人部屋を使っても許されるだろう。あるいは今日くらいはリビングで夜更かしをして、楽しく遊びつつ寝落ちするという選択肢もありそうだ。

 だけど、それはできない。いいや、してはいけない。

 いそいそと二人部屋に引っ込む美咲さんと結衣さんを見送りながら、私は絵里花の手を握る。そこはすでにしっとりと汗ばんでいたけれど、どちらが発汗していたのか、あるいはお互い様なのか、わからなかった。

「…行こっか。私たちの寝室に」

「…う、うん」

 正確には美咲さんの実家が所有する建物だけど、そんな補足は野暮なのだろう。同時に、絵里花もそこは気にしていない。

 この別荘はどこも空調が行き届いていて、夏の高温多湿からは完全に隔離されている。けれども寝室に向かう私たちの体温は高く、少し激しく動けば汗をかいてしまいそうだった。

「ここが二人部屋か、お邪魔します…あ、シンプルだけど広いね」

「そうね…金持ちの別荘ではあるけれど、無駄に調度品が多いわけじゃないのは落ち着くわ」

 ドアを開き、二人部屋に入室する。するとそこは十分な広さがありつつも、無駄のない洗練された寝室だった。

 目立つ家具といえば小さめのデスクと読書ランプ、ガラス製の水差しくらいのもので、あとは。

(…ベッドはクイーンサイズが一つ…もしかしなくても、ここって夫婦が使う寝室なのかな…)

 寝室である以上、ベッドが目立つのは当然だろう。けれどもそのベッドは一般的な大きさのものではなく、二人で寝転んでも十分すぎるほど余裕のあるサイズで、潔癖なまでに真っ白なシーツとグレージュの掛け布団がこれまたシンプルだった。

 枕も二つ、つまりは二人部屋でなおかつ二人で眠ることを想定しているわけで…ここが誰かの所有物件であることも考えたら、いつかの日も愛が紡がれていたのだろうか?

 …ダメだ、今日は…『そういうこと』ばかり想像してしまう。

 チラリと横を見てみると、絵里花の視線もベッドへと注がれていた。なお、寝間着については別荘に置かれていたバスローブを借りていて、そのシルエットがどことなく浴衣みたいな和装にも似ている気がした。

「…ええと…と、トランプでも、する? それか、本を借りてきて読書とか…」

「…きょ、今日は疲れたし、横になりたい…あ、あの、これは、その…さ、誘ってる、わけ、じゃなくて…」

「う、うん、わかってる…」

 ベッドを眺める絵里花を見ていたら私の中にはボールペンで走り書きしたような渦がいくつも生まれて、言うべきこと、すべきこと、その他全部が塗り潰される。

 だからせめて旅行っぽい提案を…なんて思ったら持ち込んだ記憶のないトランプを提案し、ついで二人でするようなことでもない読書を持ち出すのだから、今の私は確実に冷静さを欠いていた。

 それは大切な人を傷つけるかもしれないという不安があると同時に、私にも女らしい一面があった証拠でもあって、自分の認識と身体が一致したことに場違いな安心感を覚えていた。

 そして私以上に女らしい──基準私独自のものだ──絵里花は私の的外れな提案を馬鹿にすることもなく、握った手にぎゅっと力を込めてベッドへの道を指し示す。それは歩いて十秒ともかからない距離で、さらに私たちがお互いを想い合っている恋人であれば躊躇する理由もなく、なんなら待ち望んでいた瞬間かもしれない。

 なのに言い出しっぺの私の一歩は重く静かで、絵里花もまた足音を殺すようについてくる。その光景は敵地に忍び込んだときのようにも、バージンロードを一歩ずつ進む二人組のようにも見えた。

「…あ、このベッド…すごく寝心地がいい」

「本当ね…こういう部分にお金をかけているの、見習ってもいいかもしれないわね」

 しかしひとたびベッドに腰を下ろすと、思わず仰向けに身を放り出すほど…心地がいい。

 ぼふん、とベッドに埋まった身体に衝撃はなく、かといって寝返りが打てないほど過剰に柔らかいわけでもなく、ただただ寝心地がよかった。

 同時に、少し懐かしい気もする。でも具体的な光景が思い出せるわけじゃなくて、なんとなく体が知っているような…もしかすると、物心つく前にこう言う寝心地がいい場所で眠っていたのかもしれない。

 もしくは。

(私の中にある因果、その積み重ねの中…同じ運命を歩んできた人たちが、こういう場所で寝たことがあるのだろうか?)

 十分な高さが確保された天井を見つめ、目を閉じ、自分の中に刻まれた因果をたどるように思いを馳せた。

 一般的に因果律は『その人が積み重ねてきた出会いの歴史』であって、遺伝子と一緒に引き継がれる。もちろん記憶までもが引き継がれているわけじゃないけれど、遺伝子という形で認識できる以上、過去とつながっているのもまた事実なんだろう。

 私の場合は作られた因果だけど、それでも特定のモデルをベースに書き換えられたのだとしたら、大本となった人たちの断片が残っていても不思議じゃなかった。

 そして、その人たちが絵里花の因果を持つ相手と惹かれ合うのであれば…同じベッドで眠ることで、やはりそういう行為をしたくなったのだろうか?

「…寝ようか。おやすみ、絵里花」

「…おやすみなさい、円佳」

 同じように寝転んでいた絵里花も私のほうをじっと見ていて、穏やかな室内灯に照らされた暗い赤色は夕暮れの湖面みたいにきれいだった。でも今日は遊びすぎたせいなのか、その夕日はゆっくりと沈みそうにとろけている。

 だから私は何気なく絵里花を睡眠へと誘い、彼女もまたそれに応じて枕へと頭を移動させる。ここまで心地よい感触に包まれていると、自分のお誘いが『ただの添い寝』になっても不思議ではなかった。

 いや、そうあるべきなのだろうか? 絵里花に聞くこともできない疑問は、室内灯が夜の帳に包まれると同時に消えてしまった。

(…静かだ。かすかに物音が聞こえる気がするけど、とても遠い。防音、意外としっかりしているのかな)

 エージェントになるための訓練を受けていると、やっぱり聴覚も相応に疑い深くなる。だから目を閉じると物音…おそらくは別の二人部屋で眠っている美咲さんと結衣さんが立てる音が聞こえてきて、でもそれはとても小さく、何をしているのか察するのは難しかった。

 …まあ、『なにか』をしていたとしたら。そういうこと、なんだろうか。

 でもこれくらいの音量でしか伝わらないのであれば、万が一私と絵里花があの二人をまねても大丈夫かもしれない。ましてやここは周辺に建物すら少ない別荘地で、私たちに横槍を入れる存在もいないわけで。

(…あ、やばい。そういうことばっかり考えていると、また…うん…)

 海でのアクティビティによって疲れた体はうとうとしかけたと思ったら、眠りに落ちる前特有のとりとめもない思考に包まれる。そしてそれは現在の状況を強く意識することにつながって、夜目が利くようになった私の視界に再び暗い天井が映った。

 でも見たいのはそれじゃなくて、隣で眠る絵里花だ。完全に邪魔が入らない、それも旅行先の寝室…こうしたシチュエーションは私の乏しい知識であっても『チャンス』というものに結びついて、いったい何の機会なのかとすっとぼけてみても答えは明白だ。

「…絵里花」

「…円佳…」

 とりあえず顔だけを横に向けて、絵里花の寝顔を見ようとしたら。

 彼女はすでに私のほうをじいっと見ていて、消灯した部屋であっても両目が潤っているのがわかった。

 それを見ていたら自然と私はその名前を呼んで、絵里花も返事をするように私を呼ぶ。声にいざなわれるように今度は体をそちらに向けたら、絵里花もごろりとこっちを向いてくれた。

 胸元が緩いバスローブは軽く乱れ、絵里花のきれいな膨らみがはだけている。それを見ていたら私の心臓はわかりやすく高鳴って、やっぱり絵里花にだけはこういう反応をするのが再確認できた。

「…ん…」

 自分の鼓動を伝えるように、絵里花と手を握り合う。両手の指が絡むことで、言葉よりも多くの情報が伝わってきた。

 絵里花も多分…いや、絶対、同じ気持ちだった。

 ドキドキしている、大切な相手に。

 つながりたいと思っている、好きな人と。

 どこまで行くのか、どうすればいいのか、わからない。

 それでもやるべきことがあった。

 だからキスをした。静かで暗い部屋の中、私たちの重なった吐息が響く。

 思えば、初めてかもしれない。

(…これまでのキスは、どっちかが一方的に求めていた。でもこれは、きっと…お互いが、求め合っている、キス)

 触れ合う唇から夜の温度を噛み締めつつ、私はそんなことに気づく。

 最初は、私から。お祭りの日、絵里花がとても儚げに見えて、その必死さに応えたくて、求められる前にキスをした。

 次も、私から。一緒にお菓子を作っていたら絵里花がとっても甘そうに見えたから、我慢できずにキスをした。

 その次は、絵里花から。私の言葉に嬉しくなって、我慢できなくなって、だから私を引っ張ってキスをした。

 どのキスでも相手はいやがっていなかったけれど、それでもこうしてお互いが歩み寄るようにキスができたのは…初めてだった。

「…嬉しい…絵里花、好きだよ…ずっと、こうしたかった」

「…私も、嬉しい。円佳のこと、好き…ずっと、こうなりたかった」

 その初めては、あまりにも幸福感に満ちていた。

 私が強引に求めるわけでも、絵里花が流されて受け入れるわけでもなく、お互いがしたいという気持ちを抱いて触れ合う瞬間。

 それは唇という体の一部だけでなく、心も一緒につながるキスだった。

 やっとわかった。これが本当の『キス』で、私たちが目指していた目的地。CMCとしてのやるべきことである以前に、私と絵里花に必要な瞬間。

「私たちはずっと一緒にいて、恋人でもあったけど…今、すごく…絵里花が『近い』ってわかる。ほかの誰でもない、絵里花が一番私に近い場所にいる…そう信じられるよ」

「うん、私も同じ…これまでの私はあなたの隣にいるようで、でもずっと追いかけていた…私は本当に一緒にいていいのか、必要にされているのか、ずっと信じられなかった…」

 私の言葉はとても直感的なもので、数字では解析できない情報で満ちていた。だからこそ研究所も正しいと言える形では私たちに教えられなくて、きっとCMCの組み合わせごとに目的地が違っていたんだろう。

 ずっと思っていた。『CMCとしての成果を求めるなら、さっさとすべきことを教えて欲しい』と。でもそれはたどり着いてみるとすごく無粋な考え方で、きっと昔の私ではわからなかった。

 今だってすべてを理解できたと断言できるほど明確じゃないけれど、目の前の恋人に同意してもらえた以上、私の感じていたことはきっと正しかったんだ。

 それがまた、嬉しい。だから絵里花が続きを口にする前に、絡めた指にひときわ力を込めて、その言葉を吸い出すように小さくキスをした。

「んっ…でも私、やっとわかった。円佳はずっと後ろにいる私に手を伸ばしてくれていて、でもそれを握ったら甘えることになってしまうからって、必死に走って並ぼうとしていた…でも、違ったのね」

「うん…私たちはどっちかが引っ張ったり引っ張られたりじゃなくて、こうして手をつないで…一緒に歩き続けることが、きっと『恋人』の形だった。これが『好き』なんだって、絵里花への『恋』だってわかる…好きだよ絵里花、大好き…」

「円佳…私も、好き…大好きっ」

 小さなキスを終えた絵里花の目尻から、寝室を包む夜空へ星が流れていった。完全に光のない世界でも輝くほどそれは煌めいて、私は夜を飛び越えて朝日を迎えたような、ゴール地点から始まる新しいスタートに身が震えた。

 多分これは、私と絵里花の始まり。CMCカップルという名目上のつながりから脱し、三浦円佳と辺見絵里花が本当の恋人同士になったことによる、新しい人生のスタート地点だった。

 きっとここから先にもたくさんのハードルがあって、この日の達成感はなんだったのかと思うような挫折も味わうのだろう。

 だけど私が握りしめる絵里花の手は、決して消えない。私が自分の意思で掴んだそれは与えられた因果による力だけじゃなくて、私の中に生まれ育った確かな気持ちが選んだのだ。

 この手を握っていれば、私たちはもっと先まで歩ける。そのお互いの中に生まれた歓喜を分かち合うように、子供のように無邪気な好意を交わしつつ、握っていた手をほどいて抱き合い、キスをした。

「んあっ、えり、かぁ…」

「んんっ、まどかぁ…す、きっ…」

 お互い両腕を相手の背中に回し、足は蛇のようにうねうねと絡みつき、そしてじわりじわりといろんな部分を擦り付け合う。

 無邪気な言葉とは裏腹に、私たちはお互いの火照りにどこまでも忠実に、そして冷める目処が立たないまま絡み合っていた。

 キスをする。離れる。愛の言葉を交わす。またキスをする。

 その間も体は離れることがなくて、私は熱に浮かされた頭で「経験がなくてもなんとなく『気持ちいいこと』ってわかるんだな」などと、わずかな冷静さをそんな考察に使ってしまっていた。

「…絵里花…」

「ひゃっ…ま、円佳ぁ…」

 何度目かのキスを終えて離れたら、私はわずかに視線を下ろす。

 するとそこには先ほど以上にはだけた絵里花の胸元があって、お互い眠るときは下着を着けないせいか、夜の中に花火を思わせる鮮やかな花が咲いていた。

 私はその花を摘むように、そうっとバスローブと絵里花の体の合間に手を入れる。それはまだ力すら入っていないソフトタッチでしかないのに、絵里花はビクッと身を震わせ、甘ったるく私を呼んだ。

「…いい…かな…?」

「…ダメ…じゃない…けど…でも、ダメ…」

 手のひらをスリスリと動かす。すると絵里花の花はゆっくりと開花していくことが伝わってきて、私は間違いなく『その先』に行こうとしていた。

 でもそれはキスのように雰囲気だけに任せられるものじゃなくて、なけなしの理性でたどたどしく尋ねる。すると絵里花は実に『らしい』返事をして、花を摘もうとする私の手に自分の手のひらを重ね、引き剥がすことなく…むしろ、もっと触れて欲しいかの如く自分の体へと押さえつける。

 行動と言葉が矛盾しているとき、どちらに従うべきなのか?

 私は、今の私なら…きっと──


『……ぁっ~~~~~~……!!』


 …と思っていたら。

 防音が施されている壁を乗り越えるような、くぐもった悩ましい声が響き渡り。

 それは夜の静寂を切り裂いて、私たちの時間を凍り付かせた。

 …今のって、多分…結衣さんの声…だよね?

「…っ、あはっ、はは…うん、防音、足りないみたいだね…」

「っ、ふふ、そうね…」

 それはまさに『台無しにされた』と言えるのだけど。

 でも、もしも…私たちがあの二人よりも素早く任務を達成した場合、ああいう声を聞かせる側になってしまったかもしれないわけで。

 そう考えると、うん…残念である以上に、ほっとしてしまった。

「…えっと、この先は…またの機会ってことで…上手く言えないけど、さ」

 私と絵里花は、今日始まったばかりだ。

 なら…時間はたっぷりとある。だって私たちはきっと、お互いの命が燃え尽きるまでそばにいるだろうから。

 それはCMCだから? ううん、違う。

 私は私の意思で、この子の隣を選ぶだろうから。

「…私と絵里花はずっと一緒だから。きっと、大丈夫だよ」

「…そうね。ありがとう、円佳…今日はキスをしながら寝てもいい?」

「ふふ、もちろん…好きだよ絵里花」

「んっ、私も…好き…円佳」

 まだまだ繰り返される夜の片隅で、私たちは因果に従って何度も出会いを繰り返す…それは、永遠の絆そのものだった。

 その久遠の中で生きるのなら、私たちは焦らなくていい。今日始まったばかりの私たちはそれに納得するように唇を重ね、そのまま朝日を待ちわびるように意識を溶かしていった。

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