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第66話「美咲はもっと自重して」

「……ぁっ~~~~~~……!!」


 無駄のない洗練された空間に、結衣の官能的な叫びが広がった。

 彼女の尊厳のために補足しておくと、その声は決して誰かに聞かせる意図を持って発したわけではない。むしろ彼女はできるだけ自分たちの情事を表に出さないよう配慮していて、だからこそ天衣無縫に振る舞う美咲に頭を悩ませていた。

 今だって、そうだ。

「……ふう。結衣お姉さん、ご満足いただけたみたいですね?」

 目を白黒とさせてシーツを握りしめ、結衣は自分の中に生まれた津波が静まるのを待つ。そしてそれを横で眺めるのは同じように『満足』したはずの美咲で、お互いが一糸まとわぬ姿だった。

 ベッドとその付近には二人が着用していたと思わしき衣類が散乱していて、立ち上がる熱気も先ほどまでの出来事を物語っている。結衣は体内のモールス信号のような衝動が収まるにつれて周囲を把握できるようになり、先ほどまで自分が立てていた音を遅れて思い出し、今になってはっとして口元を押さえた。

 もちろん、それは手遅れだ。音は生まれた瞬間には世界に響き渡り、聴覚によって受け取った人間はそれをそう簡単には忘れない。百歩譲って目の前の恋人が聞き取っただけであれば問題ないが、ここにいるのは自分たちだけではないのだ。

 結衣は自分の口元を押さえていた手を移動させ、美咲の頬を引っ張る。乳脂肪分が多い高級アイスのような滑らかで白い肌はゆるゆると伸びていき、欠点を感じられない非現実的な美しい顔立ちが、良くも悪くも人間らしい輪郭を作り上げていった。

「いひゃい、いひゃいれふおねえひゃん…」

「…あのね、美咲…自分が何をしでかしたか、わかってる?」

 結衣は美咲の頬の感触と体温を感じ取りながら、ジトッと睨みつつ説教を開始する。今もびよびよと伸びていくそれはやはりアイスを連想させつつも、先ほどの行為の余韻を感じられる体温は熱したマシュマロのようでもあった。

 そうしたお菓子にたとえられるくらい甘い時間を過ごした二人であったが、すでにこの部屋を包む空気はいつものように甘さ控えめの、健康に気遣った味わいへと変化していく、

 それは間違いなく、心地いい。美咲にとって結衣との時間はどんなときよりも落ち着く、それでいて満たされている瞬間であった。同時に結衣も美咲といると退屈することはなく、自分と彼女の間に因果がないことを忘れさせてくれる。

「も、もちろんです…今日の私たちはバカンス中の恋人、だからこそいつも以上に『奉仕』には力を入れました…!」

「限度があるでしょうが! 大体私、今日は『添い寝だけですから』って最初に言われたんだけど?」

「でも結衣お姉さん、ぎゅってしてくれました…あれは『お誘い』だと認知されても仕方ないかと…」

「ビーチでも『今日はシない』ってちゃんと言ったよね? まあ、私も強く拒まなかったのはダメだったって反省してるけど…でもね、『ダメ』とか『やめて』とかちゃんと伝えたのに、それでもやめなかったどころか…もっと激しくしてきたのには、どう弁明するの?」

 結衣は包容力のある優しい女性であった。しかし、それでも許容できないことはある。

 心のどこかが無駄だと叫びつつも、結衣は頬を引っ張る手を離して美咲の言い分に耳を傾ける。それはどこか誇らしさすら内包していた、自信満々の言い訳だった。

 今日の結衣は恋人の頑張りを高く評価していて、自身も楽しませてもらったことを認め、できる限りのねぎらいをしたいと考えていた。だからこそ二人きりになって早々に引っ付いてきた美咲を抱き寄せ、優しく頭を撫でてそのままベッドへ横になる。

 女性らしい豊満さとエージェントらしいしなやかさを兼ね備えた美咲の抱き心地は極上で、結衣も『そういう気分』になりかけたのは否めない。しかし、それ以上に周囲への気遣いを欠かさなかった美咲をゆっくり休ませたくて、同時に…部屋は別とはいえ、近くに円佳と絵里花がいたのだ。

 そして恋人同士の情事が盛り上がれば相応の『音』が生まれてしまうわけで、それを聞かせたいと渇望するほど結衣は特殊な嗜好を持っていない。ましてや先日の失態もあるのだ、今日こそは…と思っていたのに。

 結衣に抱きしめられた美咲は一瞬で着火を終えたかのように、全身を使って絡みついてきたのだ。結衣はすぐさまやめるように言ったものの、美咲から伝わる熱は容易に彼女の制止を振り切り、次第にお互いの体に慣れ親しんだ快感が満ちてくる。

 人間の本能を満たす感触は全身に無抵抗を促すシグナルを送り続け、自制心に優れる結衣ですら抗う力を失い、それを見た美咲は肉食獣のごとき勢いで愛する人を貪り続けて。

 そして、結衣の中でひときわ大きな波が生まれた。それは三大欲求の一つを充足させると同時に堪えきれない叫びを放たせ、恐れていた事態を迎えてしまったのだ──。

「…だってお姉さん、普段からこういうことをしていると『ダメ』って言いますし…でも本当にやめちゃったら、絶対に欲求不満になっちゃいます…」

「優先順位を考えて! そういうのを我慢するのとあの子たちに聞かれるの、どっちが大事なのかくらいわかるでしょ!」

「うふふ、大丈夫ですよ。あの子たちはとても物わかりがいいですし、それどころかあっちも盛り上がっているでしょうし…いひゃいいひゃい、もうひわけごひゃいまへん…」

 たとえ美咲との情事を知ったあとであっても、結衣は決して清楚さを失っていなかった。『エッチなことはダメ』と決めつけるほど狭量ではない一方、四六時中求めるほど淫蕩に溺れることはなく、恋人相手であっても強引に求めることはまずない。

 美咲はそんな最愛の相手を強く慕うと同時に…そういう結衣だからこそ欲しくなる、実に人間らしい歪んだジレンマを抑えきれなかった。

 自分の手によって身をよじらせ、ダメと言いながらもまったく拒絶せず、キスをすれば情熱的に応じてくれる…決してほかの人間が見られない様子は、美咲にとって最高の宝物だったのだ。

 だから彼女は飄々と自身の正当性を強調したら再び頬を引っ張られて、決して主張しない痛覚とは裏腹に痛みを訴えていた。結衣も力加減はわきまえていたが、そのわざとらしい主張にため息をつき、緩やかに手を離す。

「はぁ、もう…聞かれてたらどうしよう…顔、合わせづらいなぁ…」

「心配しなくとも、あの子たちは下世話な目は向けてきませんよ。もちろん馬鹿にすることなんてありませんし、私たちは堂々と仲良し夫婦を見せつけちゃえばいいんです」

「まったく、調子がいいんだから…結婚もまだなのに」

「いつか訪れることがわかっているんだから、今日だけ先取りしちゃいましょうよ~」

 美咲はようやく許されたと──都合よく──考えて、掛け布団を引っ張りお互いの身をくるむ。手入れをされた清潔な寝具は事後の汗や匂いまでも覆い隠すように、二人に夜の安静をもたらしてくれた。

 すると結衣もそろりと寄り添い、美咲は笑顔で肩を抱き寄せる。今もなお何も纏っていない肌を寄せ合う感触は、クイーンベッドに勝る満足感をもたらした。

「…結婚かぁ。美咲と結婚…じゃあさ、たまには帰省しておいたらどう? 結婚するときだけ帰省するっていうのもさ、なんかよそよそしいっていうか。別荘だって使わせてもらったし、お礼も伝えてきなよ」

「…うーん…まあ、そのうち…気が向いたら…私は結衣お姉さんの猫ちゃんでもありますから、その辺は気まぐれなんですよ」

 美咲はエージェント関連以外の情報は、できるだけ結衣と共有するようにしていた。それは隠し事を続けなければならない美咲にとって、数少ない贖罪となっていたのだ。

 一方で実家に関する詳しいことは話さず、結衣も美咲が話したがらないことは無理に聞き出さない。それでもここに来た以上はそういう話題が出てくるのも当然で、お互いが恋人同士の余韻に浸ったことで気が緩み、ようやく少しだけ話せたというべきか。

 そうして美咲はやっぱり自分は誠実なんかではないと自嘲しつつ、ほかに言える言葉もなく曖昧に受け流した。普段は雲のように掴めない軽口も、今回ばかりはキレが悪く逃げ切れるとは思えなかった。

「…言いにくいことかもしれないけど。美咲、もしかしてご両親とはケンカでもしてる? 育ちがいいのはなんとなくわかってたけど、美咲ってそういう環境はあんまり好きそうじゃないから、それで飛び出してきたとか」

「…結衣お姉さん、探偵になれそうですね。おっしゃるとおり、私は両親とはあんまり仲良しじゃないんですよ。理由については、まあ…因果律関連です。環境はそこまで嫌いじゃないんですけどね」

 ああ、今日の私は口が軽くなってる…美咲はそう思いつつも、ポロポロとこぼれる身の上話が止まらない。それこそエージェント関連の情報ですら吐き出しそうになっていて、ここに来たことがある自分すら特別な環境に緩んでいるのだと再確認した。

 それでも美咲は詳しい話はできず、自分の中にある気持ちを拾い上げ、吐き出せる部分だけをちぎって口にする。そんなすべてを口にできないような状況であっても、美咲は胸の内が軽くなっていくのを感じた。

(…この人は、いつもそうです。私にとっていつも居心地のいい場所になってくれて、多くを聞かないのに私から言葉を引き出させる…悪い人ですよ、私の恋人は)

 たとえ言えないことがあったとしても、言える部分だけでも口にすれば心は救われていく。

 そうした行為からも逃げていた美咲は、今日もまた結衣に寄り添われる幸福を両手で包むように、彼女を抱き寄せる腕に一層の力を込めた。抵抗しない結衣がさらに自分の体と重なっていく様子に、美咲は全部をぶちまけたくなる。

 無論、そこまではできない。その無力感は消せなかったとしても、そこから感じる重みは確かに軽くなっていた。

「…どうせ結婚するときは顔合わせをしなきゃだし、私も一緒に行ってあげようか? ご両親がどんな人かはわからないけど、美咲を育ててくれた人たちだから…怖いとかそういう心配はしてないし、もしも怒られるようなら私も一緒に…んっ」

 軽くなった体はスキップでもするように、美咲はとても自然に笑顔の結衣へキスをした。

 それは多分、美咲にとって一番求めている答えだった。

 あの家に向かうとき、美咲はいつも一人だった。家政婦である山田は美咲の味方をしてくれるが、それでも彼女は雇われの身だ。美咲はその関係に溝を感じていなかったにせよ、職を失う覚悟で反抗して欲しいとは思えなかった。

 だからこそ、今の結衣の言葉は…美咲にとって、どこまでも理想的だった。

 権力者でもなく因果すらない結衣は、この世界ではあまりにも弱々しい。それは誰よりも本人がわかっているというのに、彼女は逃げようとしない。

 怒られることしかできない、そんな虚無とすら表現できる結末であっても…一緒に怒られることを選ぶ、一緒にいることを望む彼女の献身は、美咲が久方ぶりに涙するほど暖かかった。

「…ぷはぁ…そういうところですよ、結衣お姉さん…あなたいつもいつも、私を無意識に誘って…どうしようもないほど、幸せにしてくれる…あなたのいない人生なんて、考えたくないほど…」

「んあっ、やっ…み、美咲、本当に、ダメ…今日はもう、いいでしょ…?」

 唇を離し、息を整える。すでに美咲の涙は止んでいたが、その痕跡をたどるように結衣は優しい所作で頬を撫でていた。

 美咲が再び狼藉を働こうとしていても、その手は止めない。それは結衣を愛する美咲にとっては、際限のない愛おしさをあふれさせる『お誘い』でしかなかった。

 美咲は結衣を抱きしめていた腕へ再び命を与えたかのように、もぞもぞと全身をまさぐり始める。しかし下品で乱暴にはならないよう、ピアニストのような指裁きで上品に愛の刻印を行っていた。

 肩、背中、お尻、太もも…どこであってもスケートリンクを滑るように、優しく優しく刺激を続ける。その微弱な快感はやがて結衣の脳に蓄積され、彼女もまた美咲を受け入れる態勢を整えつつあった。

 体は正直、そんな安っぽい表現すら事実であると認めてしまうほど…美咲は上手く、優しく、こんな行為であっても下品さを一切感じさせない。

(ああ、そうか…私、美咲のそういうところに…逆らえない、のかな)

 キスと愛撫による立て続けの愛情伝達に対し、結衣は完全な受け入れ態勢ができあがる前にそんなことを考える。

 結衣は、美咲以外を知らない女性であった。だから比較対象なんてどこにも存在していなくて、ただ美咲が与えてくれた情報から推察するしかない。

 それでもわかっていることは、美咲がいつも自分を『満たして』くれること。女はおろか男すら知らなかった結衣でもわかるのは、人間に備わった本能的な機能がきれいさっぱり解消される事実だけだった。

 クラシックのように上品で、けれどもロックのように情熱的。フルートが好きな美咲の演奏会は、いつでも結衣を聞き惚れさせていたのだ──。

「お姉さん、ごめんなさい…また恥ずかしい思い、させちゃいます。今日はもうとことん、全部全部、朝まで…あなたを愛し続けたい」

「ひゃっ、うっ…み、美咲ぃ…わかった、から」

 演奏会のアンコールが始まる刹那、結衣は最後の理性を頼るように美咲の肩を掴み、キスができない程度の距離を獲得する。すでに火がついていた美咲はそれにすら不満を浮かべていたが、結衣の微笑む口元によって中断はあり得ないと確認した。

 この人は、いつだって…私を拒絶しないのだから。

「…されっぱなしは、格好悪いから。美咲にも恥ずかしい思い、してもらう」

「わっ…あんっ、おねぇ、さぁん…きて、ください…」

 結衣はいわゆる『受け』が多かった。求めるときは大抵が美咲からで、そんな関係も嫌いではない。

 しかし、女性同士がより満たされるのであれば、相互努力は欠かせない。そしてこういうことにすら真面目な結衣はきちんと美咲を『気持ちよくする術』を学んでおり、現に美咲はそうされる時間も好んでいた。

 愛する人に触れられ、高ぶらされ、頂点を目指す…愛に貪欲な美咲は首筋にキスをされたことで、あっという間に攻守が逆転した。

「覚悟してね、美咲…これはお仕置きでもあるんだから」

「…んふっ、嬉しい、です…あっ…好き、大好き、です…お姉さん…」

「…私も、だよ。大好き、美咲…」

 仰向けになった美咲と見つめ合い、結衣は珍しくいたずらな笑顔を浮かべる。美咲はそれを眺めることで「この人が相手なら捕食される側もいいものですね」と納得して、すべてを委ねた。


 …

 ……

 ………


 翌朝、結衣だけでなく美咲の声も聞いた円佳と絵里花が二人を上手く見られなかったのは、言うまでもなかった。

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