「早乙女さん、このあいだはありがとう。これ、たいしたものじゃないけど…お礼とお土産」
「…ありがとう」
「ありゃりゃ、本当に買ってきてくれたの? んふっ、こうして会ってくれるだけでもよかったのに…でもありがとっ」
あの思い出に残る旅行から戻って少ししてから、私と絵里花は早乙女さんをいつものカフェに呼び出していた。用件はもちろんお土産を渡すこと…だけど、同時に担当区域を代わりに守ってくれるという面倒事まで押し付けてしまったわけだから、そのお礼も兼ねていた。
そうした背景もあることから、さすがの絵里花も今はけんか腰という感じではない。今日の私たちはテーブル席を使っていて、向かい側に早乙女さんが、私の隣には絵里花が座っているといういつもの配置だけど、その絵里花は若干不服そうでありながらもきちんとお礼を伝えていて、私は内心でその様子に安心していた。
(…絵里花、あの旅行のおかげで少し余裕ができたのかな?)
美咲さんが企画してくれた旅行、それは…私たちにとって、忘れられない夏の思い出となってくれた。
研究所にいた頃は完璧な空調や行き届きすぎた衛生環境もあって、四季の移ろいはほとんど意識していなかったけれど、外に出てきてからはリアルな変化が私たちを刺激してくれて、一般的なイメージである『夏は恋人たちの季節』というのを実感させてくれたのだ。
恋人たち、という前置きだとわずかながらに『いかがわしさ』もあるのだけど、私と絵里花はなんだかんだで今の自分たち相応の立場に落ち着いたというか、先日の触れ合いにて『お互いがすべてを許し合えることが確認できた』とも言えて、それはとても健全な前進に思えた。
私たちはすでに『全部』ができてしまうほど、心身ともに愛し合っている。けれども拙速になってしまってお互いを傷つけることは望んでいなくて、きっといつかはするけれど、それは今じゃなくてもいい…そんな落とし所は実に絵里花らしい、奥ゆかしさも備わった恋人関係に思えた。
実際に絵里花も私の気持ちを理解してくれたのか、あれ以降は焦ったり怯えたりすることもなく、それでいて前よりもずっと近い場所で寄り添ってくれる。それはまだ夏が終わっていないとは思えないほど心地よい暖かさがあって、まどろむような安堵の中に跳ね回りたくなるような躍動もあって、これが一生続いていくと思ったら…どうしようもなく、幸せだった。
「どれどれ、お土産の中身は~…おっ、オシャレなお菓子! 二人とも、わかってるね~? でもでも、『形が残らないもの』っていうのはちょいと寂しいかな?」
「えっ、そうかな…むしろ残るものって実用的じゃないお土産が多くて、お菓子が一番無難かなって思ったんだけど」
「うーん、円佳ちゃんはその辺がちょっとドライすぎるね…ま、そーいうとこも含めて好きなんだけど!」
早乙女さんは受け取った紙袋を早速ごそごそとして、入っていた箱を取り出す。それは先日向かったリゾートエリアの付近でひっそりと経営する個人の洋菓子店、そこで販売されていた手作りのお菓子であるフロランタンの詰め合わせだった。チョイスはもちろん現役パティシエの結衣さんだ。
キャラメルとアーモンドがふんだんに使われていて、見栄えがいいだけでなく日持ちにも優れている。もちろん結衣さんが研究のために購入して試食、私たちも分けてもらったのだけど、上品ながらも素材の風味を活かした甘さがおいしかった。
よって見るからにおしゃれな早乙女さんにも気に入ってもらえるだろう…その予想は概ね的中したものの、箱を眺めてにぱっと笑ったあと、やや大げさに感じる本当に寂しげな微笑へ変化し、もしかしてお土産のチョイスを間違ったのだろうかとわずかに悩む。
私の見聞きした情報と個人的な価値観を混ぜ合わせると、残るお土産…それらはペナントや置物といった実用性がなく不要になった場合の処分に困るものが大半になってしまい、私たちが現地で浮かれていたというイメージを押しつけることになりはしないかと思い、早々に却下したのだ。
しかし、早乙女さんのリアクションを見ているとむしろそういうものが喜ばれるのだろうかと不安になったけれど、でもすぐに私に対してウィンクしつつ、いつも通り軽快に好意を口にしてくれた。
…絵里花の前でそういうのを言われると、正直困るのだけど。それでも絵里花は一瞬だけじろっと睨んだかと思ったら、私の横目に気づいたようにふっと目元をゆるめ、自分を落ち着けるように注文したアイスティーを口にした。
ちゅうっ、とストローを吸う仕草は見慣れたものだけど…これまで以上にきれいに整えられた唇は、私の意識をあの夏の日に引き戻しそうな魔力があった。
「…ふぅ~ん? 今回の旅行、本当に楽しかったみたいだね? 円佳ちゃんもそうだけど、とくに絵里花ちゃん…さてはさては、ちょっぴり大胆にアバンチュールしちゃったりするの~? うりうり、経験豊富なあたしに話してごらんよ~」
「…まあ、旅行が楽しかったのは否定しないわ。けどね、円佳はあんたが考えているほどふしだらじゃないし、一時的な盛り上がりで選択を間違えるような人間じゃないの。そんな安っぽい挑発にはもう乗らないわ」
「おっ? 絵里花ちゃん、本当に大人になっちゃったね…じゃあさ、あたし、もっと別のものが欲しいんだけど、その辺も許容してくれたりする?」
「先に言っておくけど、円佳をデートに引っ張るとかだったら一切許可しないわ。わかっていると思うけど、ここに交渉の余地なんてないから」
私が絵里花の唇に意識を奪われていたら、早乙女さんが勘のいい様子で追撃を開始する。私はこの子が悪い人じゃないとは思っているけれど、その鋭い直感は心の隙間を的確に刺してくるような精密さがあって、そうやって作られた穴から全部のことを暴かれそうなのがどうにも苦手だった。
その暗殺まがいの攻撃は絵里花みたいな直情型には効果てきめん…と思いきや、それすらも受け流す今日の彼女はむしろ私よりも精神的な余裕がありそうで、この場に限っては絵里花のほうが優秀なエージェントに見えた。
これならさすがの早乙女さんも…と思ったけれど、やっぱりすぐに引き下がる様子もなければ帰ろうとする仕草も見せない。というよりも絵里花の変化を楽しそうに眺めているあたり、やっぱり私の知っている人間の中では一番底知れなかった。
「そーいうのじゃなくて、あたしも思い出が欲しいな! あ、もちろん円佳ちゃんをくれるのなら喜んで…ちょ、ごめんごめん冗談だから! ここで『それ』を取り出そうとするのはやめようね!?」
「なら不用意なことを言うんじゃないわよ! 自分で言うのもなんだけど、私は円佳のことに関しては気が長いほうじゃないわよ! 次変なことを言ったら…!」
「え、絵里花、落ち着いて…」
「おやおや、若いと夏バテとは無縁で羨ましい…ですが、今はほかのお客様もいらっしゃるので、もう少し控えめにお願いしますね? このお店は『誰もがくつろげる空間』がコンセプトですから」
「「「…ご、ごめんなさい…」」」
思い出。それは私たちが自分の中に保持できる、ある意味では唯一の『死ぬまで持って行けるもの』だった。
私たちCMCに与えられた環境の大半は研究所が用意したもので、それは同時に自分の所有物も限られていた。そしてもしも反抗でもしようものならすべてを奪われるのは簡単なことであって、だからこそ私は…絵里花やみんなとの思い出が大切なものだと、今なら理解できていた。
だからだろうか、早乙女さんの詳しい要求を聞く前から「まあそれくらいなら」と返事をしようとしていたら、余計な一言にも敏感に反応した絵里花がボディバッグから『武器』を取り出そうとして、慌てて向こうが押しとどめてきた。
そしてその争いの渦中に置かれた私はどうやってクールダウンさせようか…と思っていたら、注文した覚えのない飲み物のおかわりを持ってきた店長がにっこりと、それでも怒りを含まない圧力でもって私たちの不毛な争いを鎮圧してくれた。
…店長、元は『現場』ですごく活躍したエージェントだったって聞いたけど…今の気配は狙撃中の美咲さん、あるいはそれ以上の危険レベルだった気が…。
「…んんっ、こほん…ともかく、あたしとも思い出作りをして欲しいの。あ、もちろん三人でね!」
「…ちっ。まあいいけど…で、何をして欲しいのよ? またお出かけ?」
「んー…じゃあさ、『ナイトハイク』なんてどう? ほら、ここの山なんていいでしょ?」
「…あ、ここか。うん、たしかに有名どころだし…メインの登山道は照明もあるしね」
早乙女さんの咳払いによって仕切り直しとなった要求は、たしかに現実的…というか、あえて言うのなら可愛らしいと表現できる内容だった。
端末を置いて地図を起動し、行き先をタッチすると写真と同時に概要が表示される。そこはここからアクセスできる山としては非常に有名で、なおかつ年間登山者数も世界有数の、もはや観光地と呼べる低山だった。
とくにメインの登山道は装備のない子供でも容易に登頂できるほど整備されていて、ナイトハイクの危険性も極めて低い。同時に、夜の山というのは日中よりも人が少なく特別感があるため、たしかに思い出作りとしては安全かつ健全だった。
…よかった。これで『口に出せないようなこと』だったら、また絵里花が武器を取り出そうとするところだった。
「そーだけどさ、今回あたしたちが登るのは…こっち!」
「…え?」
任務でも夜に出歩くことは多いし、並大抵の暴漢程度では私たちなら問題にもならない。
これはあくまでもお礼だけど、絵里花も一緒なら夜の散歩を楽しむのも悪くないか…なんて思っていたら。
満面の笑みを浮かべた早乙女さんが登山ルートの一つを指さし、それを確認したら。
私と絵里花はわずかに唖然として、同時に気を引き締める羽目になってしまった。
*
「よーし、それじゃあ点呼始め! いっちばーん!」
「え…えっと、二番…?」
「…付き合ってらんないわよ。さっさと行きましょう」
「もー! 絵里花ちゃん、思い出作りなのにノリが悪すぎ!」
「見れば全員いるのがわかるでしょうが!」
思い立ったが吉日とばかりに、私と絵里花はその日のうちに目的地である山、その登山道の入り口に集まったわけだけど。
「大体、なんで夜に人が少ないルートを選ぶのよ…メインの登山道だってこの時間なら多くはないのに」
「ちっちっちっ、甘いね絵里花ちゃんは…今は夏休み、しかも本日は快晴。そうなると学生たちが集まるから言うほど空いていない、ドゥーユーアンダースターン?」
「いちいちムカつく奴ね…!」
「まあまあ、落ち着いて…早乙女さん、本当にここから登るの? 一応美咲さんには報告しておいたけど、いくら私たちでも安全とは言えない気が…」
私たちが向かったのはメインとは異なる登山道、それも人の手があまり入っていない、ありのままの自然が楽しめるコース…といえば聞こえがいいのだけど、その分だけ難易度は高くなっており、ましてや夜ともなればその危険性は無視できないと言えた。
そのコースへ向かうと言われた後に美咲さんへ報告はしておいたけど、とくに止められはしなかった。ただ、若干気になる注意喚起はされたけど。
『エージェントと言えど、夜の外出なら警戒はしてくださいね。それと、最近は任務外でエージェントが姿を消したという報告も届いています。敵対勢力の動きかどうかは断定できませんが、その点も覚えておいてくださいね』
(…エージェントが行方不明、か)
監視社会化が進んだ日本において、原因がわからない行方不明というのは若干不気味だ。ましてや私たちエージェントは研究所が管理しているということもあり、そんな存在が消えたというのは不自然にもほどがある。
となると、考えられる可能性のうち、最悪のものは。
(…内通者がいて、敵に売り渡された…)
その答えに行き着いたとき、私は夏の夜には相応しくない寒気に包まれた。今日は山登りということでグレーの速乾Tシャツにネイビーのジョガーパンツを着てきたけれど、もう少しだけ厚着をしてもよかったかもしれない。
ちなみに絵里花はラベンダーのオーバーサイズTシャツの裾を軽く結んだものに、ミントグリーンのハーフパンツに冷感タイツを組み合わせていた。動きやすくはあるけれど、私よりおしゃれなのは言うまでもない。
対する早乙女さんはホワイトのタンクトップに薄手のグレーのスポーツジャケットを羽織っていて、ブラックのショートレギンスを履いている。スポーティーながらもスタイリッシュな服装を心がけている様子は女子力が高く、美少女二人に囲まれた私は自分の中の懸念が霧散していくのがわかった。
まあ、うん…油断とかじゃなくて、今日は早乙女さんのためにもそういうのは考えないようにしよう。
「んーふふ…このルートは人が少ないからこそ冒険感があって、しかもここから行ける頂上はとってもきれいな夜空が見られるんだよ! ほらほら、夜が明ける前にアタックしちゃうよ!」
「あっ、ちょっと! 円佳、気乗りしないけど行くわよ。このまま無視して帰ったら、三週間はグチグチ言われるだろうから」
「あはは、たしかに…じゃあ、行こうか」
ぴゅーっと音が聞こえそうな勢いで登山道に入る早乙女さんにはまったく恐れがなくて、私と絵里花は顔を見合わせてから手をつなぎ、その後を追う。
するとすぐさま木々に囲まれて視界が不明瞭になり、お互い装備したヘッドライトを点灯させる。
そして広がる世界は、予想していたよりも…本当に、『冒険』だった。
「…なんか、不思議だね。暗い中でライトをつけると、周囲を飛び回っている虫とかがくっきり見える気がする」
「ほんと、虫除けがないとどうなっていたかわからないわ…」
「ほらほら、二人とも早くー!…って、ずるい! 手をつないでる!」
「いいでしょ、恋人なんだから! それよりもさっさと先導しなさいよ!」
「何それ、それが功労者に対する態度かな!? あったまきたからあたしも握る!」
「わっ…あの、これだと歩きにくいんだけど…」
「というか、私の円佳に触らないでよ!」
ライトが夜を切り開く度、黒に包まれた自然が私の視界に姿を現す。それは明るい場所で見るものと違って、草木というよりも黒い画用紙で作った切り絵みたいだった。
そんな切り絵の周囲を飛び交うように、ライトに照らされた虫、木々や地面から舞い上がった塵、蜘蛛の糸や植物の種などが、ダイヤモンドダストのように輝いて見える。
なるほどこれは、たしかに冒険だ。普段の生活ではまず見ることができないものを五感で感じるこの時間は、思っていたよりも私の好奇心を刺激した。
…そこまではよかったのだけど、先行する早乙女さんが私と絵里花の手を見ると同時にすっ飛んで戻ってきて、絵里花の反論にわざとらしく怒って見せたら私の空いた手を握り、三人で手をつなぐような格好になってしまった。
もしもこれが行軍訓練であれば怒られていただろうし、登山のスタイルとしても正しくはないだろう。だけど私を挟んで言い合いを続ける二人を見ているとそんな正論を吐く気にはなれなくて、最初は呆れていたんだけど。
「…ふふっ」
「ちょっと! 円佳、何笑ってるの! そんなにこいつと手を握れて嬉しいわけ!?」
「いや、そうじゃなくて…」
「ええー!? あたしみたいな美少女と握れて嬉しくないわけないじゃん! 絵里花ちゃん、どんだけ心が狭くて見る目がないの!」
「だから、そうでもなくて…楽しいなって、素直に思えたっていうか」
そうだ、私は…間違いなく、楽しい。
心がコトコトと揺れてちょっぴりくすぐったくなるようなこの感覚、私は知っている。いや、知ることができた、というべきか。
「私ね、『知らない場所』や『遠い場所』へ行けるのが好きみたいなんだ。こうして大切な人と向かっているとさ、それだけで楽しいって感じるんだ」
「円佳…」
「また二人でいい雰囲気を作っちゃって…どーせあたしは邪魔者ですよーだ!」
「ううん、それも違う」
私の大切な人、それは真っ先に絵里花が思い浮かぶ。
だけど、それは早乙女さんがどうでもいいこととイコールではなかった。
「早乙女さんが誘ってくれなかったら、ここには来れなかっただろうから。だから、その…友達になってくれて、私たちのことを支えてくれて、感謝してるよ。ありがとう」
「…むー…円佳ちゃんってそういうとこあるよね…だから絵里花ちゃんも心配するんじゃないの?」
「…それは否定しないわ」
「えっ、どういうこと…?」
早乙女さんとの出会いと交流がこの結果につながっているのなら、私はそれにもきちんと感謝できた。
もちろん『大切』のベクトルは違うのだけど、それでも。
こんなにも素敵なものを見せてくれたこの子は、きっと大切な友達だった。
それを伝えると早乙女さんはライトに照らされた頬をわずかに染め、頬をぷくっとして顔を逸らす。そして絵里花もジトッと私を見つめてきて、なぜ自分が非難されているのかわからなかった。
「…あ! もう着いちゃった! ほらほら、見て!」
そうやって緩んだ空気に包まれて山を登っていたら、早乙女さんにぐいっと手を引かれて。
やや姿勢を崩しつつも足を踏み入れた先には。
紫に見えるほど星の輝く、見たことのない夜空が広がっていた。