夜空、それは文字通り夜になればどこからでも見られる、人間にとってあまりにも当たり前になりすぎた自然現象だった。
そして大昔の人間は夜になると活動を停止せざるを得ないほど暗闇を恐れていたというのに、やがて人工的に光を生み出す術を身に付け、それもまた人類がこの星を支配する原動力となっていったのだろう。
私も現代を生きる人間としてその恩恵に預かっているけれど、代償として自然破壊が進んでいったように、本当の夜空…星々が瞬く空の海を見られなくなったことは、どれほどの人が残念に思っているのだろうか?
そんな似合わない疑問を抱いてしまうほど、私たちを迎えた夜空は見事なものだった。
「ほらほら、すっごくきれいでしょ! あれがベガ、アルタイル、デネブ…夏の大三角だね!」
「すごい、こんなに大きく星が見えるなんて…」
「本当だわ…一等星だけでもすごいけど、それ以外の星も輝いていて…あれが織り姫と彦星なのね…」
有名な山のマイナーな登山道、その頂上…そこは光どころか設備らしいものもほとんどなくて、普段は夜でもせわしなく飛び回っているドローンもはるか遠くにしか見かけない。
幸いなことに石を木材風に塗装した簡素なベンチはあったので、私たちは三人並んでそこに腰を下ろす。私を真ん中にして左側が早乙女さん、右側には絵里花が座っている。
そして幸福で満たされたような声を出した早乙女さんに従って夜空を見上げると、その名前の通りに三角形を作るように配置された、ひときわ強い輝きを放つ三つの星が見える。それの名前は聞いたことがあったけれど、意識して見上げたのはこれが初めてであり、ちりばめられた星の海で燦々と輝く様子は、私のような人間でも感動するほど美しかった。
普段は美術品のたぐいに一切関心を示さない絵里花ですら、その視線は私ではなく夜空へと釘付けになっている。普段の私であればそれに対して小さな嫉妬心の一つでも抱きそうなものだけど、今日は同じ感動を共有できることの喜びが圧倒的に勝っていた。
早乙女さんが口にした名前と異なり、絵里花が呼称したのは日本で馴染みのある名称だった。どちらの名前も正しいものであるはずなのに、呼び方が変わることで途端にイメージが変わるのが不思議だ。
一年のうち、出会える期間が限られている恋人の物語。それを初めて学んだ当初の私は「自然現象に対して大げさな…」なんて思っていたけれど、ここまで美しいものであったのならば、そこに物語を見いだすのは人間ならではの美しい感性とすら考えてしまう。
ましてやそれを指摘したのが私の恋人…一年に一度、七夕にしか会えないなんて耐えられないほど愛おしい人なのだから、彼女との因果がより一層尊く感じられた。
「それでねー…あれがアンタレス! さそり座の心臓、いつも明るく、そして赤く輝くあたしみたいな星だよ! あたしは赤色と甲殻類が好きだから、どーしてもアンタレスには親近感が湧いちゃうんだよね~」
「…サソリって甲殻類じゃなくて節足動物のはずだけど」
「いいじゃん、細かいことは! あたしのコードネームは
「仲間を喜んで食べるのってどうなのかしら…」
早乙女さんは再び夜空へと指を伸ばし、言葉通りさそり座についてあれこれとうんちくを聞かせてくれる。たしかにその方角を見ていると赤く輝く星がきらめいていて、早乙女さんの髪色とは対照的なはずなのに、どことなく彼女を連想してしまう。
そして絵里花は私を挟んでいるとはいえ、早乙女さんとも肩の力を抜いて雑談に応じていた。これまででは考えられなかったような自然なやりとりは聞いていて心地よく、私までも笑顔になってしまう。
正直に言うと、夜の外出はあまり好きじゃなかった。暗い場所が好きというわけではなく、何より私たちにとっての夜は『闇に紛れてターゲットを仕留める絶好の機会』であることから、自宅以外で過ごす夜に殺伐とした運命を感じていたのかもしれない。
けれど、この日ばかりはこの時間、この場所でないと同じものを見られなかったと思ったら、私の夜に対する意識改革をしそうなほどに貴重な機会だと思えたのだ。
「ねえ、二人とも。今日ここに来れたのはさ、あたしとの【因果】があったからだって思わない?」
「…円佳との因果があるのは私だけよ。これは因果律で定められている真実で、決して誰も踏み入ることはできないわ」
「あはは、やっぱり絵里花ちゃんならそーいうよね…でもさ」
星が瞬く。まだまだ遠い朝日を目指して、夜空が流れていく。
そんな変わる世界の美しさに見入っていたら、早乙女さんはかざしていた手をきゅっと握り、なにかを掴んだように言葉をこぼす。それはまるで私たちとのつながりを自分のほうへとたぐり寄せるような、空へと祈りを捧げる乙女みたいな響きだった。
けれども絵里花は声音こそ穏やかなままだったけれど、私との絆は自分にしか存在していないことを示すように、指を絡めるように私の右手を握ってきて、夏とは異なる温度を伝えてきた。
絵里花の体温は、とても温かい。夏の夜であっても決して紛れることができない程度には熱く、私の中の夏の情景を鮮明に映し出す。もしも二人きりでここに来ていた場合、間違いなくキスをしていた…そうさせるような熱を灯す、私だけが知っている温度だった。
その当然とも言えるカウンターに早乙女さんはふにゃっと笑い、けれども言われっぱなしで終わる気がないのを示すように、星の輝きを邪魔しないような静かさで続きを語る。
「因果ってね、一人につき誰か一人としか持てないだなんて寂しすぎない? たとえばあたしのことを好きな人がいて、でもその人には因果で決められた別の相手がいて、お互いに好きって気持ちがあるのに離れないといけないなんて…悲しいでしょ、そういうの」
因果律システムはお互いが因果による強いつながりを持つ、もっとも相性がいい相手と巡り合うためのものだった。
同時に、今でも日本では自由恋愛を尊ぶという建前上の寛容さがあって、それがときに歪な関係や感情を生んでいた。因果の相手が見つかるまでは自由に恋愛をしていい、けれども因果律による決定が下ればその相手と結ばれることが望ましい…民主主義国家であるがゆえのジレンマを抱えていたのだ。いや、面倒な部分を放置しているだけと言うべきか。
早乙女さんもそうしたねじれに思うところがあるのか、あるいは『好きな相手と離れなくてはならない出来事』があったのか、在りし日を見つめるように夜空を眺めていて、その姿にいつもの騒がしい面影はまったく見当たらなかった。
赤色が好きだと話すアッシュグレーの髪をした少女は、今は本来の髪色にぴったりの憂いを帯びている。その横顔は…不謹慎にも、美しいと思ってしまった。
「だからね、あたしは思うんだ…因果律が一番相性のいい相手を見つけられるなら、二番、三番、それ以降…そういう相性のいい人たちも見つけられて、その全員と愛し合うのって…素敵じゃない?」
「…馬鹿な話をしないで。あんたが言っているのはね、『好きな相手は何人いてもいいし、その全員と関係を持ってもいい』なんて内容に聞こえるわ。そんなの、因果律云々よりも倫理的にどうかと思わないの?」
「やれやれ、絵里花ちゃんって予想以上にお堅いね…たしかにさ、あたしみたいな考え方を持った人が取り締まられることもあるよ? でもね、世の中って常に面白い方向に進んでいるんだよ?」
いししっ、私に以前聞かせたようなことを話しながら、本当に楽しそうに早乙女さんが笑う。けれどもそれは子供っぽい無邪気さというよりも、どこか蠱惑的でいたずらっぽさが強かった。
そしてそのいたずらに巻き込まれ続けてきた立場からすると、それは本当に面白いものなのかどうか、あるいは私たちにとって有益なことなのかどうか、脳は期待よりも不安を刺激してくる。
それでもこの夜空が早乙女さんに対する友情をひときわ強くしてくれたのか、真っ向からの否定をする気にもなれない。あまりにも美しく広大な景色がすぐそこにあると、私たち人間の抱える悩みなんてちっぽけに感じてしまうのだろうか。
「あたしの因果はね、特別なものなの。偉い人が『まだ実験段階だから余計な混乱を招かないよう、詳細は安易に話すな』なんて釘を刺してくるんだけどさ、あたしならきっと円佳ちゃん…そして絵里花ちゃんとだって、一緒にいられるよ? それこそ…円佳ちゃんが絵里花ちゃんと付き合いながら」
私の左手に、知らない温度が宿る。それは絵里花のものに比べてわずかに低く、同時に汗もほとんどかいていない、夏を忘れるさらさらとして滑らかな質感だった。
不快じゃない。単純な触り心地という意味では、むしろ気持ちいいとも表現できるのだけど。
左右から伝わる温度と感触を比べてしまうと、どうしても私は右手側を握り返したくなる。だから私は左手側は握られるがままで、自分から握り返すことはできなかった。
それが多分、私の答えなのだろう。だけど、早乙女さんは続きを口にした。
「あたしとも付き合ってくれていいの。円佳ちゃん、今なら両手に花だよ? 美少女二人に愛される人生なんて、ほかの人じゃまず経験できない…とーっても幸せなこと。この前の旅行で絵里花ちゃんとしたことを、あたしにもできちゃう…」
「…さっきから黙って聞いていれば、好き勝手ばかり! ここにつれて来たことは感謝してあげてもいいけど、やっぱあんたは私の敵だわ! 円佳、もう帰りましょう! 付き合ってらんない!」
「絵里花、落ち着いて」
この前の旅行のこと、それが何を意味するのか、早乙女さんはどこまで知っているのか、気掛かりはいくつかある。
けれど、私の中にある答えは変わらない。早乙女さんは今も私の手を握っているけれど、その力加減は絵里花とはまったく異なっていて、それは私の返答内容すら察しているのかもしれなかった。
もちろん絵里花がその申し出に黙っていられるわけもなく、ついには怒鳴って立ち上がる。だから絵里花を大事に思うのなら私は手を引かれるがまま帰宅して、そして早乙女さんとは自然に距離を置くようにすべきなのかもしれない。
だけど私は立ち上がらず、早乙女さんの手を振り払うこともしなかった。そして絵里花の手に指を絡めたまま微笑みかけて、心配はいらないことを表情で伝える。
絵里花は完全には納得していなかったけれど、それでも私の気持ちを察するようにもう一度隣に座ってくれて、今度は足や腕がぴったり引っ付くくらいには密着してきた。
…やっぱり可愛いな、絵里花って。
「えっと、早乙女さんが言うような関係…愛の形も、許されるのかどうかは別としてあるんだと思う。あと、あなたの因果がどういうものなのかはわからないけど、そういう関係が許されるのならそれもまたいいって思うよ」
「じゃあ、あたしとも付き合ってくれる?」
もはや夜空に広がる物語は誰も見ておらず、全員がそれぞれ求める相手と関係を見つめていた。
早乙女さんは決して重なることのないベガとアルタイルを引っ付けるように、私に顔を近づけて確認してくる。これで余裕たっぷりの笑顔だったら私も立ち上がってしまったかもしれないけれど、彼女の顔もまた赤色に染まっていた。
その頬に浮かぶ夕暮れを、私は何度も見てきた。絵里花は私への気持ちを伝えるとき、いつも必死でまっすぐ、だけど迷子になりながら言葉を探して、その夕日が沈む前にはきちんと好意を伝えてきてくれた。
早乙女さんは器用な人だと思っていたけれど、こういうときは絵里花とさほど変わらないらしい。それは真剣であることを伝えるには十分な力があって、だから私も曖昧にはできなかった。
…美少女二人に囲まれる生活、か。もしも生まれる時代が少しだけ未来だったのなら、私も受け入れていたのだろうか?
「私の恋人…一番特別な人は、絵里花だから。恋人として向き合う相手が一番特別っていうのなら、私は絵里花としか付き合えない。これは因果律で決められた運命である前に、私自身の気持ちなんだ」
「円佳…円佳っ」
主任の言うとおりなら、私の気持ちは私自身の、私の命が叫んでいる言葉だ。因果律は命のある人間に宿ると言うのなら、私は自分の命に従えばいい。
その結果として早乙女さんを悲しませることになったとしても、絵里花を泣かせたくないから。
そんな気持ちを真摯に伝え切ったら、絵里花は私を呼んで肩を掴み、やや強引に…キスをしてきた。
「…わァ…」
そのキスもまた、これまでとは異なるものだった。
唐突で力強く、これまでで一番熱い。
でもその熱さの原因は『誰かに見られているから』というものが一番大きくて、そしてこういうのは絵里花が一番苦手としていそうなシチュエーションなのだけど。
今日の絵里花は、止まらない。肩を掴む力も唇を押し付けてくる圧力も強くて、たとえ引き離されても強引にお互いが歩み寄るような、新しい織り姫と彦星の物語が生まれていた。
その様子を冷やかすことなく、早乙女さんは嘆息したようにささやく。絵里花のほうを向かされている私にその表情は見えなかったけれど、少なくとも泣いているとかそういう心配はなさそうで、おかげで絵里花とのキスに集中できた。
絵里花が止まらないように、私も抵抗はできなかった。いいや、したくなかった。
絵里花とのキスなら、何度だってしたい。今日に至るまでその気持ちにぶれはなくて、それが一生続くことを願うように、絵里花が離れるまで私は身を任せていた。
「…ぷはっ…これでわかったでしょ? 私の唇も、心も、全部円佳のものなの。そして円佳もそれを受け入れてくれている…はっきり言うけど、あんたの入り込む余地なんてないし、これからも絶対に作らせない。たとえ研究所があんたと円佳を因果で結びつけようとしたって、私は何度でも戦うわ」
「…絵里花…」
唇を離した刹那、絵里花は私に真っ赤な顔で微笑みかけて、すぐに表情を引き締め早乙女さんに事実を突きつけていた。
…絵里花って案外私には受け身なんだけど、こんなふうに強引になっている姿って…いいな…。
なんて乙女みたいなことを考えていたら。
「…んーふふ! やっぱり面白いね、二人とも!」
早乙女さんは悔しがることも悲しむこともなく、拍手をしながら私たちを讃えた。
…あれ? 今のって、一応…早乙女さん的には、失恋、のはずでは?
でもそのリアクションは一般的な失恋とはほど遠く、むしろ喜劇が結末を迎えたかのように笑顔を浮かべていた。
「あたしさ、円佳ちゃんのことが好きなんだけど…やっぱりね、絵里花ちゃんも好きだよ! 最初は円佳ちゃんに比べてピンと来なかったけど…とっても大胆で、やっぱり二人とお付き合いしたくなっちゃった!」
「はあ!? あんた、私たちの話を聞いてたの!?」
「もちろん! 絵里花ちゃんと円佳ちゃんはお互いが一番好きで、あたしは二人から二番目に好きになってもらえばいいんだよね?」
「やっぱり聞いてなかったんじゃない! あんたの頭の中どうなってるのよ!?」
…早乙女さんって、なんか…うん。すごいな。
決して褒め言葉ではない、それでもすごいとしか表現できない態度に、私は急速に肩の力が抜けていった。
もちろん絵里花は早乙女さんの謎理論に噛みついていて、私を渡すまいと右腕を強く抱きしめてくる。すると早乙女さんも「あたしも混ぜてよ~!」なんて言いながら私の左腕を抱きしめてきて、お断りしたはずなのに『両手に花』状態になってしまって。
私は、笑ってしまった。絵里花に「笑い事じゃないでしょ!?」と怒られても、やっぱり胸がくすくすと音を立てている。
(…絵里花がいるから、口には出せないけど)
もう一度夜空を見上げながら、夏の大三角を目でなぞる。
ベガとアルタイルが見つめ合う中、デネブがそこに割り込むべく虎視眈々と様子を窺っているように見えてしまい、それもまた私をおかしくした。
こんなにも楽しく感じるのは、絵里花、美咲さん、結衣さん、この三人といるときだけだと思っていたけれど。
(…早乙女さんの言う因果とはちょっと違うかもだけど、因果律には恋人以外との出会い…大切な人との縁も含まれているのかもしれないな)
早乙女さんに振り回される日々というのも、案外悪くないのかもしれない。少なくとも、私がちゃんと絵里花を見つめている限りは。
だから絵里花に悪いとは思いつつ、私は早乙女さんもいる日常に思いを馳せて、こんなにも素敵なものを見せてくれた彼女との縁も大切にしたいと思っていた。