「先日はお疲れ様でした。捕縛対象には大きな外傷などなく、取り調べについても問題なく進んでいます…ただ、今回捕まえた相手も敵対勢力の重鎮というわけではないため、上のほうとの繋がりは完全には見つからないかもしれません。世界自由連合もそうですが、トカゲの尻尾切りが上手いんですよね」
「そうですか…」
いろんな意味で刺激的だったナイトハイクから二日後、私たちは予想通りCafe Mooncordeに呼び出されていた。
もちろん用件は説教などではなく、先日捕らえた敵対勢力の取り調べとその結果についての報告だった。ただ、取り調べが順調というわけではないようで、美咲さんの顔色はやや浮かない感じだった。
…いや、この人のことだ。急な仕事が入ったことで結衣さんに会えなくなって、それで調子が出ないのかもしれない。
そう思ったら適度に肩の力が抜けて、エージェントしか使えない秘密の部屋はわずかに空気が弛緩した。
「ただ、やはり敵の目的は『因果律のリセット装置の完成とその運搬』だったと考えてよさそうです。三人が録音してくれたログもそうですが、取り調べにてそれらしい情報も確認できました。だからこそ、装置の詳細や隠し場所、開発者まで特定できなかったのが残念ですね」
「…あいつら、そんなことをして何がしたいのよ」
私たちはエージェントなので因果律に対しても肯定的になるよう教育が施されているわけだけど、それを抜きにしたって『今そこにある平和と幸福』を蹂躙しようとする理由は理解できなかった。
美咲さんは自ら因果を捨てたと話しているけれど、それでもシステムそのものに対して嫌悪している様子はなくて、むしろいつも私たちを応援してくれていた。
そして絵里花は私との因果をとても大切にしてくれていて、その吐き捨てるような怒りの中には『円佳との因果を奪われたくない』と思っていることが伝わってきた。
もちろん、私も同じだ。因果律があったからこそ私は絵里花と出会えて、美咲さんが見守ってくれて、結衣さんとの縁にだって恵まれた。
…あと、早乙女さんとの関係だってそうだ。彼女の行動に対しては思うところがあるけれど、それでも私たちに悪意を向けてくるようなことは一度もなくて、それどころか何度も力を貸してくれた。
私の手の届く範囲の絆にはすべて因果が関わっていて、それを壊そうとする人間を捕縛するのはただ単に仕事ということではなく、大切な人を守ることにつながっていたのだ。
「…それと、あまり気分のいい話ではありませんが。ここ最近急にエージェントが消息を絶つケースがあるとお話しましたが、これにも今回捕まえたような敵対勢力が関わっている可能性が濃厚になりました」
「…そんな」
「ちょっと、どういうことよ! それがわかっているのなら、どうして救出作戦を立てないわけ!?」
そうだ、私たちは敵の言葉に惑わされる必要なんてない。
そんな決意を固くしていたら、美咲さんが珍しく不愉快を隠し切れない表情で危惧していたことを伝えてきた。
予想はしていた。私たちエージェントが消える理由というのは、そんなに多くはない。
一つは自身の運命に嫌気が差し、一般人になるため研究所からの脱走を企てること。
もう一つは敵対勢力の手にかかり、命やそれ以外のものまで奪われてしまうこと。
前者については他人に危害を加えない分、そこまでつらい内容ではない。もっとも、研究所はそうした脱走者を出さないために監視網を強くするだけでなく、因果律の素晴らしさをしっかり教え込むこと、さらには金銭面というわかりやすい待遇を強化することで、脱走者はめったに出ないと聞いていた。
しかし…敵対勢力に捕まったと聞いてしまえば、どうしても私たちはいやな想像ばかり働かせてしまう。それは私たちの性別が女であるがゆえとも言えて、たとえ男性であっても捕まってしまえば過酷な運命をたどるのだろうけど、それでもせめて無事であって欲しいと願うしかなかった。
そして…普段は周囲にそこまで入れ込まないものの、誰かが傷つくことを人一倍嫌う絵里花はその報告に対して机を叩きながら立ち上がり、防音が施されてなければ店内全体に響き渡りそうな声で怒鳴っていた。
もしも彼女が敵拠点について把握していた場合、一人でも助けに行こうとするだろう…そんな考えを誰よりも理解した私は机に置かれた絵里花の手に自分の手のひらを重ね、ゆっくりと首を横に振った。
だって美咲さんも、同じ気持ちだろうから。
「落ち着いてください、フロレンスさん。研究所としてもこの案件については非常に懸念していて、優秀なエージェントを全国各地に派遣して行方を追っています。仮に場所が特定できれば、私たちも含め救出作戦への動員が検討されるでしょう…ですから、今はどうか抑えてください」
「っ…ごめんなさい、あんたは悪くないのに…」
「いいんですよ、私のことは気にしなくて。難しいとは思いますが、お二人はどうかそういう任務が入るまではいつも通り過ごしてくださいね。CMCとして仲むつまじく過ごすことも重要なお仕事ですから」
美咲さんは自分の因果律に逆らうためにエージェントになったから、研究所に対する忠誠心という意味ではさほど強くなくても不思議ではなかった。というよりも、明らかに私たちのほうへ肩入れしてくれているのは伝わってきて、きっと見えないところでは面倒な仕事を処理してくれているのだろう。
そして絵里花は直情的である以上に他人への思いやりが強いから、美咲さんのそんな内心だってきっと把握してくれている。現に、自身もつらいだろうに私たちを気遣う美咲さんの姿は痛々しさすらあって、ホワイトパープルの瞳は仲間たちを悼むように伏せられていた。
それを見た絵里花は気まずそうに頭を下げて、再び腰を下ろす。これで話が終わればよかったのだろうけど、モバイルモニターにつないだ端末を操作する美咲さんの様子から、まだまだ聞きたくないようなことが知らされそうなのを察するしかなかった。
「今日はいい話をできなくてすみませんが…これから世界自由連合の党首が演説をします。ご丁寧なことにネット配信も同時に行ってくれますので、そちらのチェックをしましょう。お二人はあまりこういうのは見てこなかったでしょうから、敵を知るためにも目を通してくださいね」
「世界自由連合…了解です」
世界自由連合。それは政党要件を満たす、いわば合法的な政治集団だった。
けれどもその活動方針はかつてから存在した極左政党や活動家集団と変わらず、今は因果律システムを破壊することにご執心な、政治家としての本懐…日本を良くするということをないがしろにしている、先鋭化した人間しか支持しないような連中だ。
もちろんそんな集まりの首魁が演説したところで、すぐさま日本が転覆することはあり得ない。活動家と政治家を分別できないような存在はいつの世も一定数の支持を獲得してきたけれど、大多数の人間は思想よりも『生活』を優先しているのだ。
無論私たちも演説を聞いたところで趣旨替えするなんてあり得ないけれど、美咲さんの言うとおり本当の敵を知っておくことが重要だろう。
だから私と絵里花はモニターに表示された興味のない演説に対し、射撃訓練中のような目で視聴していた。
◇
国民の皆様、世界の同志たちよ。
私は
今日、私は皆様に問いたい。
あなたの隣にいるその人は、本当に「あなたが選んだ」人ですか?
あなたが今立っているこの場所は、あなた自身の意志で選び取ったものですか?
いいえ、それは違う。あなたの人生は、あなたのものではない。因果という鎖によって縛られ、決められた道を歩まされているにすぎないのです。
政府は言う。「因果律に従えば、幸福が約束される」と。
だが、私の愛する人は、その因果律によって未来を奪われた。
政府のデータが導き出した「幸福」という名の暴力の前に、私たちの自由は踏みにじられた。
これは私個人の悲劇ではない。この国に生きるすべての人間が、知らぬ間に侵されている問題だ。
あなたの選択は、本当にあなたの意志によるものですか?
本当にその愛は、あなたのものなのですか?
もしもそれを否定する勇気があるのなら、私たちと共に立ち上がってほしい。
『政府は、因果律を操作している』。
それは紛れもない事実です。私自身、かつて因果律システムの運用に関わる者として、その闇を知りました。
政府は因果律の「適正」と称して人々の運命を操作し、管理し、支配している。
あなたの恋人、あなたの家族、あなたの未来…すべてが政府の意のままに決定されているのです。
こんな社会が、本当に自由だと言えるのか?
いいえ、決してそうではない。
我々世界自由連合は、この不条理なシステムを根底から覆す。
真の自由とは、自らの選択によって未来を形作ることにある。
たとえそこに苦しみがあろうとも、それは自分の人生だと誇れる道であるべきなのです。
だが、政府は我々を脅威とみなし、不当な弾圧を続けている。
なぜか?
それは、私たちが「真実を知っている」からです。
彼らは恐れているのです…因果律という虚構が暴かれ、人々が自由を求めることを。
だからこそ、我々は闘わねばならない。
力なき者はただ支配されるのみ…だが、今ここにいる皆がその意志をひとつにするならば、未来を奪還することは可能なのです。
今こそ立ち上がるときだ。
あなたの未来を取り戻せ。
あなたの愛を、あなたの意思で選び取れ。
私たち世界自由連合は、すべての人に『真の自由』を約束する。
政府の欺瞞を打ち砕き、因果律という牢獄を破壊するその日まで──。
我々の戦いは、決して終わらない。
◇
「…これが…私たちの、敵…」
演説が終わった直後、私の口からはそんな認識が漏れていた。
おそらくは世界自由連合が使っている本部建物内、いかにもな演説用のホールにてその男…『天海拓真』が堂々と演説をしていた。
それは極左政党らしい独裁的な語り口でありながらも、支持者を熱狂させるようなカリスマ的な言葉遣いを選別し、冷静で丁寧、かつ押しつけがましい主張を展開している。
見たところ年齢は五十代ほど、黒髪に白髪が混ざった髪形は整えられていて、ノーネクタイでオープンカラーのシャツ姿で登壇していた。
その言動から性格は独善的で冷徹、自由を謳いながらも政権与党の意見を一切受け付けない様子は実にわかりやすい、活動家まがいのインテリ政治屋といったところか。
そしてこうした動画をオープンネットワークで配信する以上、AIによる注釈がリアルタイムで表示されていた。
『政府は因果律に従うことを推奨していますが、自由恋愛そのものを完全には否定していません』
『因果律が完全なシステムではないことは政府も理解しており、現在も因果を受け入れられなかった方向けの保護施設の支援などを進めています』
『因果律の操作については明確に否定されており、それを可能にする施設や設備も存在していません』
『たとえ因果の相手と結ばれたとしても、そこからどのような人生を歩むかは完全な自由が保障されています』
『世界自由連合が弾圧されているという法的な根拠は一切ありません』
『党首である天海氏が因果律システムに関わっていたという経歴は見当たらず、彼が提示した証拠もねつ造であると有識者たちが判断しています』
現代のAIは動画のリアルタイム解析とそれに伴うデマへの注釈が可能になっているため、これも誤情報の流布やマッチポンプの防止につながっていて、この演説の聴衆にも冷めた目を向ける人が多いことだろう。
一方で画面の向こうのホール内では割れんばかりの拍手が鳴り響いていて、演説が終わった直後には『因果律を破壊せよ!』とか『我らに自由を!』なんてスローガンが叫ばれていた。
…なるほど、こういう連中が支持していて、そして社会の裏側で悪事を働いているわけか。
「…ご覧の通り、彼らは間違いなく社会において少数派ですが、それなりに規模の大きな企業が支援していたり、今回の装置の開発や製造に加担していたりします。人を隠すには人の中、世界自由連合や関連組織を支持する人たちがいる限り、どうしても私たちの目を盗む機会もできてしまうのですね」
「…よくわかったわ。こいつらは『私とベイグルの絆を否定する敵』ってことが。悪いけれど、これからの任務では手加減しないわよ」
かつて地球上に存在した独裁国では『敵に対する憎しみを煽るための時間』という、非常に虚しそうなものが設けられていたらしい。
そしてこの演説を見せられた私たちも同じようなことをさせられたと言えるけれど、美咲さんや研究所を恨むことなんてなかった。
むしろ、絵里花とまったく同じ気持ちだった。
(…私の敵は研究所が定めたターゲットじゃない。私と絵里花の絆を否定する存在、それが本当の敵だ…!)
研究所からの連絡があれば、どんな相手とでも戦わないといけない。そこに深い意味なんて見いだしていなかったし、達成できないと私たちがどうなるかわからなかった。
でも、今ならわかる。因果律は完璧なシステムじゃないにしても多くの人に幸福をもたらしているのは事実で、何より私と絵里花は自分たちに与えられた因果に感謝していた。
それを踏みにじろうとするのなら…私は、戦う。
「…ありがとう、フロレンス。私、絶対にフロレンスを…あなたとの因果を守り抜くから。それだけじゃない、アセロラや結衣さん、早乙女さんだって…因果に導かれて出会った人たちを、守りたい。だから、これからも力を貸して」
「…うん。私も、絶対にベイグルを守るわ。優しいあなたが傷つかないよう、あなたが大切に思う人たちだって守りたい…早乙女は、保証できないけど」
「うふふ、実にフロレンスさんらしくて安心しました…もちろん私もお二人を守るため、そして私自身の平穏を守るため、たとえ敵がどこに隠れていたとしても…撃ち抜きます」
私たちには大切な人がいる。それはすべて、因果律があったからこそ出会えた。
その真実は因果を捨てた美咲さんでも、因果を持たない結衣さんでも、変わらない。
私と絵里花から広がる出会い、それの根源に因果律があるのだとしたら…私の戦いは『守るための戦い』になってくれるから。
私たちは世界が不穏な方向に変わりつつあるのを理解しながらも全員が微笑んで、守るための戦いに飛び込むことを誓っていた。
*
「…パパ、変わんないなぁ…そんなことしたって、誰もハッピーになれないのに」
同時刻、莉璃亜は自宅であるマンションの一室にいた。
そこもまた研究所が用意したエージェント向けの住まいで、共有スペースにはより多くの監視カメラが設置されているように、比較的反逆の恐れが強い人員が住まわされることが多かった。
莉璃亜はリビングにある一人用のソファに座り、携帯端末でその演説を見る。そしてそれが終わった直後、彼女は端末をスリープさせてローテーブルに放り、右腕で目元を覆った。
(パパはいつもそうだよね、目的を達成することしか考えないで…今そこにある幸せなんて、一度も見てくれなかった…)
画面の向こうで演説する『父』の姿は網膜の裏側にも焼き付いていて、それは莉璃亜の思い出をいくつも引っ張り出してくる。
そしてその思い出のすべてで父親は『父親』をしてくれていなくて、莉璃亜を道具として扱っていて…やがて道具としても機能しないと判断したら、始末しようとしてきた。
(あたしはただ、みんなが幸せになれる世界を求めてただけ…それっていけないことなのかな…?)
ねえ、円佳ちゃん。
莉璃亜が呼んだその名前は、ほかに誰もいないマンションの一室に虚しくこだました。
彼女のことを思うと、自分の胸はこんなにも弾む。それは間違いなく『幸せ』が存在していて、でも彼女には因果で決まった相手がいて。
(…だからね、あたしは…あの二人と一緒に、幸せになりたいな。『穴埋め』なんかじゃない、あたしもいることでもっと幸せになれる…そんな素敵な出会い)
くくくっ、莉璃亜の口元から潤いを伴った笑みがこぼれる。
気付いたら網膜の向こうにいた父は消えていて、そこにいるのは今一番気になる人。
そして、その気になる人と愛し合う人。
さらに…その二人のあいだに挟まり、笑う自分。
それはピエロのようにも、『もう一人の恋人』であるようにも見えた。
「…よーしっ! 聞き分けのない悪い父親には、『娘』によるきつーいお仕置きが必要だよね!」
そうすればきっと、あの二人も認めてくれるだろうから。
莉璃亜にとって父親は、もはや幸せにすべき対象ではなくなっていた。
それなら…自分は、迷うことなく引き金を引ける。
莉璃亜はわずかに震える手を握りしめ、もう一度自分を奮い立たせるように声を上げて笑った。