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第5章・消えゆくもの、残るもの

第72話「世界自由連合の爪痕」

 かくして私たちの夏休みは、不穏なものを感じつつ終わりを迎えた…原因は言うまでもなく、世界自由連合だ。

 先に言っておくとしたら、私は彼らを支持することは未来永劫絶対にあり得ない。彼らが因果律を認めない限り、私と絵里花の出会いを否定しようとする限り、世界から国境が消えないように私と彼らの溝が埋まることはないだろう。

 それでも私には先日の演説、異なる意見を認めない独裁者らしい言葉の羅列が脳裏に刻まれていて、ふと『人間はいやなことほど忘れられない』という話を思い出す。

 私は絵里花との思い出をほぼ全部覚えているつもりだけど、それでもわずかに曖昧なエピソードも存在していて、だからこそ私たちは時折同じ話を繰り返しつつ、できるだけ多くの出来事を未来へ持っていこうと努力していた。

 そんな努力もせずに頭に残る記憶、それを焼き付けたあいつ…天海拓真は物理的にも心理的にも私にとって邪魔な存在になったのだ。

 あいつがいる限り、因果律に否定的な勢力は存在し続ける。

 あいつが生きている限り、私の中に絵里花以外の、余計な記憶が主張し続ける。

 どこまでもどこまでも…邪魔な奴だ…!!

 私は無駄が嫌いだった。無駄だと感じるということは、不要なものにリソースを割かないといけないから。そして脳のリソースをあんな奴らに割くことで、絵里花に割けるはずの大切なもの…私の人生の有意義な部分を余分なものに奪われてしまうわけで、それはわずかな消費であっても苛立たせる。

 もしも研究所が私たちに『敵への憎悪を煽る』という目的があったとして、そのために天海の演説を見させたというのなら、それは見事に機能したと言える。少なくとも私の中では敵への怒りがくすぶり続けていて、万が一目の前にあいつが現れたのだとしたら、『捕縛』というエージェントの目的すら忘れてしまうかもしれない。

 だからこそ、私は願っていた。

 どうか身近にいる人たちが、彼の言葉に惑わされませんように。

 仮に因果律へ賛同できなかったとしても、せめて私の敵にはなりませんように。

 そんな願いを背負って迎える新学期は、まるで夏休みの宿題を忘れたような重苦しさを伴っていた。


 *


「世界自由連合のあれ、見た?」

「見たー。なにか言う度にAIに突っ込まれてるの、こってこての陰謀論者って感じがしてむしろ笑っちゃった」

「ていうか、信者以外で信じてる人っているのかね? 今時さぁ、お年寄りでもAIに教えてもらって陰謀論を真っ向から信じないのに」

「いつの世の中でも逆張りする人っているっしょ? ほら、なんだったかな…大昔、信者や学生をそそのかして暴れさせて、議席が0になった政党とかいたじゃん。時代が進んでもああいうのって定期的に出るっぽいし」


 私が抱えていた重苦しいものは、始業式を終えて教室に戻ったあと、比較的早い段階で軽くなってくれた。

 今日も今日とて絵里花と仲良く過ごしつつ、耳は周囲の喧噪をこまめに拾う。そしてこの日はとくに『世界自由連合』というキーワードに聴覚が反応して、絵里花も同じことをしているのか、私と会話しつつも情報収集の邪魔をしないように言葉数を減らしてくれていた。

 絵里花は私に対しての感応力が高い人だけど、やっぱり私が先日の一件でナイーブになっているのを察してくれていたようで、今日も登校前に「大丈夫、聖央の奴らはそんなに頭が悪くないわ」なんて励ましてくれたっけ。

 だから絵里花も周囲の会話に応じて反応を微弱に変化させていて、私が安心するタイミングではほぼ同じように目元を緩めている。つり目がちなまなじりは、私との関係が深まるほどに柔らかさを帯びていた。

(…絵里花の目、やっぱりきれいだな…っと、油断するとこの子のことばかり考えちゃうな…悪いことじゃないけど)

 絵里花の瞳は私と色合いが似ているけれど、それに比べると若干暗い赤色だ。暗い、という表現を使うとネガティブな印象を想像しやすいけれど、太陽のような明るさを秘めた輝きだといつかはこちらの網膜が焼かれてしまうように、その夕日が月に変わるような優しい赤色はいつも私を夢中にさせた。

 思えばあのファーストキスのときもこの赤色に誘われて、朱空が沈むようにゆっくりと重ねていた。花火のか細い光だけが照らす世界で見た絵里花の瞳は、夜空に咲く輝きを邪魔しない、奥ゆかしい彼女ならではの道しるべだった。

 その道の先に見えてきたのは、決して暗くないこの国の未来。かつての教育現場では自分の思想信条──それも極端なものばかり──を振りかざす教師や学校施設がとても多かったらしいけど、あの演説でもAIが活躍していたように、感情に左右されないツッコミが即座に入るのはやはり人々のリテラシーを向上させていた。

 …まあ、そのAIも因果律を悪く言わないように『配慮』はしているだろうけど。それでも多くの人が先鋭化して祖国を滅ぼそうとするよりは、よっぽど健全に思えたのだ。


「なあ、知ってるか? 二年のとーこ先輩、あの演説を見た後に世界自由連合の主張に興味を持ったらしい」

「え、あの頭のいい先輩が? マジかよ…あの人、美人で物腰も穏やかだったのに…もったいないな」

「頭がいいからじゃないか? 自由連合の支持者って案外高学歴が多いって聞くし、党首も優秀なエンジニアだったって自称してたし…まあ、その経歴も怪しいもんだけど」

「その先輩も因果律に思うところがあったんじゃない? ほら、たまに『相性がいいはずなのにどうしても受け入れられない』みたいなケースもあるらしいし…時間をかければ解消する場合がほとんどだけど、それまで我慢できないって人もいるみたいだしね」


 とーこ先輩。私はその名前を脳裏に刻み、今も絵里花との会話を続けるそぶりを見せつつ、手は忙しく端末を操作していた。隣に座る絵里花も同じように操作していて、おそらくは私と同じこと…聖央高等学校のデータベースにアクセスして、該当する生徒の情報を検索しているのだろう。

 私たちの携帯端末がエージェント向けの特別製であるのはいうまでもないけど、それは機密保持に優れるだけでなく、普通なら手出しできるはずのない情報…それこそ、学校側が厳重に管理しているはずの『全校生徒の情報が網羅されたデータ』にすらアクセスできた。無論、それは低俗でゴシップ的な欲求を満たすために使うわけじゃない。

(…二年生、小路陶子。この人か)

 程なくして該当すると思わしき生徒の情報を確認、これまでの補導歴などはなく、因果律システムがきっかけで知り合った他校生と仲良くしている…らしいけど。

 ちなみに噂話通り成績は優秀、将来はAI関連のシステムエンジニアを目指しているらしく、たしかに因果律に逆らって将来を棒に振るにはもったいない人だと言えそうだ。

「絵里花、放課後は少し付き合ってくれる? ちょっと『先輩』に会いに行かないといけないから」

「ええ、大丈夫よ。私も少し『話』があるし、ちょうどよかったわ」

 でも、私に見逃すつもりなんてなかった。

 優秀な人間ということは味方になれば心強いけど、それ以上に…敵に回ることがあれば、厄介な存在になってしまう。

 たとえば現在広く使われているAIは悪用防止の仕組みが幾重にも施されているけれど、犯罪組織は脱獄と呼ばれる違法な改造を施して使うこともあるように、AIのエンジニアとなればそういう組織からも引く手あまただろう…なら。

 私は何食わぬ顔で絵里花に振り返り、穏やかに放課後の約束を取り付ける。絵里花も力を抜いたまま応じてくれたけれど、お互い目は笑っていなかった。

 絵里花の暗い赤色が任務を見つめるとき、それはどこか寂しげに曇る。最近の彼女は仕事中も安定していて十分優秀と言える水準になっているけれど、それは私といるための無理に慣れてしまったとも表現できて、沈みゆく夕闇を見ているようにもの悲しかった。

 …だからこそ、絵里花を悲しませる要因はすべて潰す。そのために私はエージェントなんてしていて、抗うための力もあるのだから。

 その後は気さくに話しかけてくれたクラスメイトたちと夏休みの思い出を語ったりして、その間だけは新学期の明るい始まりを感じられた。もちろん、私と絵里花の『新しい一歩』は言えなかったけれど。


 *


 放課後、私たちは二年生が集まるフロアにてその先輩を見つけ、距離を取りながら後をつける。見たところは挙動不審な様子もなく、むしろその横顔は涼しげであり、開放的で知的な聖央高等学校の校舎にマッチする立ち振る舞いだ。

 …『世界自由連合には頭のいい連中も多い』というのは、単なる噂だと切り捨てられない危険な情報である気がした。

「…この方角、空き教室が多い場所へ向かっているのかしら?」

「だね…部活の集まりがあるって情報もないし、『そういう集まり』が開かれているのかもね…だとしたら、脇が甘いけど」

 私たちにとってそれがどんな集まりなのかは、この少ないやりとりからでも理解は可能だった。

 聖央はその校風も相まって、放課後の活動に関する自由度も高い。それこそ学生のうちから起業を目指すような生徒も普通にいて、それが成功するという事例すらある。そしてそうした活動を『学生なら勉強しろ』と押さえつけないのもいいところだろう…そもそも、聖央に入れる以上は勉強しろと言われる前にしているのだけど。

 しかし、ここは私たちエージェントにも協力しているように、そういう面での監視網はかなり行き届いている。でなければ私たちがデータベースにアクセスすることはできないし、こうした放課後の尾行についても何らかの苦言が呈される可能性もあった。

 だからこそ、私たちは認めてはいけない。その活動の内容が、因果律に反するものであったのなら。

「…ここか。ドアに無線集音マイクを設置、立ち聞きしていると怪しまれるから少し下がろう」

「了解。美咲にも連絡しているから、終わったらすぐに送信するわ」

 その先輩はとある空き教室の一つに入っていき、それを確認した私たちはそこのドアに極小サイズの集音マイクを取り付ける。ドアの取っ手の裏側にも隠せるサイズのガジェットであるため、普通の生徒たちが気づく可能性もないだろう…これを発見できるような生徒がいた場合、また監視対象が増えるだけだ。

 私たちはそのまま携帯端末の無線到達範囲ギリギリの、階段の踊り場まで移動する。そして録音モードを起動してまもなく、男子生徒の声が聞こえてきた。


『皆さん。僕は、どうしても聞きたいことがあるんです』

『僕たちは本当に、幸福に生きることができているのか?』

『政府が約束する“幸福”は、本当に“僕たちのためのもの”なのか?』


「…ビンゴ、かしら」

「うん…この前の演説で洗脳されたか、元々の信者だったか…ってところかな」

 小型の無線マイクはそのサイズとは裏腹に、肉声に近いクリアな音声を届けてくる。

 そしてそれは男子生徒としては気持ち高めの、比較的よく通る声に感じられた。それでいて情熱は感じられるけど、どこか荒削りでまだ具体性のない、おそらくは『必要のない義務感』に駆られての行動を感じられる声音だった。

 どちらにせよこの時点で、彼の運命は決まってしまったのだろう。


『因果律は、完璧なものだと教わりました』

『最良の組み合わせを見つけ、運命的な出会いを導き、社会を効率よく発展させる仕組みだと』

『でも、それが本当なら、なぜ…なぜ、“幸せになれなかった”人たちがいるんでしょう? そして、なぜそれには積極的に触れないのでしょうか?』


「…政治家なんて、昔からそんなものでしょうに。都合の悪いことには触れず、蓋をして、その負担は誰かに押しつける…だから、私たちがいる…」

「…そうだね。でも、絵里花は一人じゃないよ。あなただけに負担は背負わせない、私も一緒だからね」

 一生、一緒だから。

 それは言葉にはせず、演説に小さく反応した絵里花の手を握った。絵里花はすでに聞いていて疲労を感じているのか、その密やかな笑みには疲れが滲んでいるように見えた。

 …絵里花にこんな顔をさせたのだ、今すぐ突入して無力化を…なんて、九割くらい本気で考えてしまう自分をなんとか抑え込む。

 まだだ、まだそのときじゃない。そしてそのときが来ないならそれに越したことはないけど、きっと来る。

 だから、そのときに私たちは背負えばいいのだ。


『僕が知っている人が教えてくれました』

『その人には、心から愛する女性がいました。でも因果律の結果、政府は“別の運命”を与えました』

『二人はそれを拒めなかった。拒めば、社会の“異端”として排除されるから』

『でも、それで二人は幸せになったのでしょうか?』


 強まっていく声に混ざり、聴衆と思わしきほかの生徒の小さなざわめきが聞こえる。ここまでしっかりと音声を拾うのだから、研究所の支給するガジェットの優秀さを理解するしかなかった。

 もしも私たちも逆らえば、こうした技術でもって追い詰められる…そこまで、わかってしまうくらいに。


『その女性は因果律によって選ばれた相手と結ばれた。でも、その結果…彼女は、生きる理由を失ったんです』

『政府は“幸福を与えた”と言ったけど、それは本当に“彼女の幸福”だったのでしょうか?』


「…それを決めるのは、お前じゃない」

「円佳…」

 次は私が返事をする。決して聞こえない、苛立ちを隠せなくなった声で。

 冷静だと評されるエージェントが笑わせる、そんな自虐は握り返してくれた絵里花の手によって飲み込まれた。

 そうだ、私には…揺るぎない『幸福』が、ここにあるのだから。


『恋とは、自由に育まれるものであるべきじゃないですか?』

『僕たちは、好きな人を好きになってはいけないんですか?』

『なぜ、“因果律”という名の運命に従うことしか許されないんですか?』

『僕は疑問を持ってしまいました』

『政府が言う“幸福”が、僕たちにとって本当の幸福なのかどうかを』

『このまま因果律に従えば、誰もが幸せになれるなら…どうして、泣いている人がいるんですか?』


 因果律がなくなれば、もっと多くの人が涙を流す。なぜ、そこからは目を背ける?

 選民思想に酔いしれたマイノリティはこうも視野が狭くなるのか、私の怒りには呆れも混じり、次なる反論は口にせずに済んだ。


『天海拓真という人を知っていますか?』

『彼は言いました、「人は生まれながらにして自由であるべきだ」と』

『僕たちが愛する人を、自分の意志で選ぶ自由すらない世界は…本当に“平和”なのでしょうか?』

『…でも、もうすぐその“枷”もなくなります』

『ついに、自由を取り戻す時が来たんです』


 男子生徒の呼吸に熱がこもる。周囲のざわめきが大きくなる。

 その『自由を取り戻すとき』がなんなのか、こいつは知っているのだろうか?

 そして、この話を聞いている人たちは想像できているのだろうか?

 私と絵里花は神妙な面持ちで頷き合い、すでに美咲さんへの連絡内容を入力し始めていた。

 自由を取り戻した結果、これまでに生まれた絆のすべてが奪われるのであれば。

 そんな自由、消えてしまえ。


『考えてください』

『あなたは、今の人生に満足していますか?』

『あなたのそばにいる人は、本当に“あなたが選んだ”人ですか?』

『まだ因果の相手がいない人も、どうかこの言葉について考えてみてください。大丈夫です、僕たちは…自由を掴み取ろうとする人たちの味方です。ご静聴、ありがとうございました』


 そして私たちの精神的な疲労がピークに到達する直前、男子生徒の演説は締めくくられた。その直後には極めてまばらな拍手が鳴ったものの、喝采へと変わる前に鳴り止んだ。

 …一人でも拍手をする人間がいた時点で、危険度は大きく上がったわけだけど。

「…円佳、美咲から返事が来たわ。『決行』は二日後、これから打ち合わせよ」

「了解…念のため、ターゲットの顔を確認してから行こう」

 階段入り口の壁から端末のカメラのみを出し、演説会場だった教室から出てくる人たちの記録を行う。人数が多いってほどじゃないし、感銘を受けた様子の人も少なさそうだけど、中にはうんうんと訳知り顔で頷く人もいた。

 …もしかしなくても、捕縛対象は増えるのかもしれない。

「…あいつか」

 そして最後に教室から出てきた男子生徒を確認し、私は小さくつぶやいた。

 短髪ながらも前髪はそこそこ長い黒髪、制服はきっちり着こなし、手にはご丁寧なことに世界自由連合のロゴステッカーが貼られたノートを持っていた。

 わかりやすいのは嫌いじゃない、ただ…私の敵になった以上、もう容赦はできない。

「絵里花、写真からデータベースの照合をお願い。私はもうちょっと撮影しておく」

「任せて…照合が終わり次第、美咲にも送るわ」

 私はこの仕事が好きじゃない。どちらかといえば嫌いだろう。

 それでも私たちはやるべきことを熟練兵のように淡々とこなしていて、次の段取りについて考えている。そして私たちに気づいた様子もなく歩き去る後ろ姿を撮影しながら、今日ほど衝動に任せて飛びかかりたいと思った日はないかもしれなかった。

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