エージェント同士の模擬戦、そのルールはシンプルだった。
お互いがシグナルガンを持ち、それの命中を判定するベストを着用して、廃病院内で撃ち合う。そして先に撃たれたほうが負け、体術などの銃以外の攻撃は拘束目的であれば可能…それを聞いた私は『これまでのお礼に痛めつけてもいいかもしれない』と一瞬だけ本気で考えて、円佳に見られていることを思い出してなんとか黒い衝動を抑え込めた。
スタート地点はお互いがくじ引きを行い、どこにいるかわからない状態で始まる。ちなみに私は一階の診察室に配置され、今は目を閉じて模擬戦開始のブザーを待っていた。
(…大丈夫よ、円佳。私はあなたに比べて弱いけれど、それでもあの女にだけは負けない…)
すでにシグナルガンの動作は確認済、ベストも体にフィットさせておき、動きの邪魔にはならない。ベストの下はいつもの制服、装備による不確定要素はなくなっていた。
唯一の懸念は早乙女がどこにいるのかだけど、そんなの相手も同じだ。となると純粋にエージェントとしての実力が試されるわけで、落ちこぼれの私にはそれこそが最大の不安要素だけど。
不思議なまでに敗北のビジョンは見えていなくて、それどころか二度とあいつが円佳に近づかない、明るい未来だけが私の脳内で芽吹いていた。
(私が勝てば、円佳を守れる…しかも、その後はデートもしてもらえる…そうしたら…)
私が勝った場合は『早乙女が円佳に色目を使わなくなる』というもので、円佳がデートしてくれると約束したわけじゃない。それでも早乙女が勝てば円佳とあいつがデートをするのなら、私が勝てば私とデートするのは当然…あるいは、自然と誘いやすいとも感じていた。
円佳とキスをしてからはいろいろありすぎて、恋人同士の時間を過ごす機会も減っていたけれど、それでも彼女は私との日々を大切にしてくれていて、だからこそ過剰な不満はない。
…だけど。私の中に『もっと恋人としてのつながりが欲しい』とねだる自分がいるのもまた事実で、早乙女に勝った上でデートをすれば私のほうが円佳にとって必要だと再確認できるし、そうしたら少しだけ『大胆』になれるかもしれなかった。
デートの後、私たちは私たちの居場所へと戻って、そしてすべてを
「…! 始まった…これより任務開始、目標を駆逐…捕縛する」
敗北という恐怖を失った私は若干の色ボケになっていたようで、模擬戦スタートのブザーにややびくりとしつつ行動を開始した。
気持ち的には早乙女を完全に駆逐したいけれど、それをすれば円佳の隣にはいられないのを理解する程度の冷静さを維持していた私は、まず物音を立てないように診察室のドアを開く。顔だけ出して左右を確認し、気配や物音を感じられなかったことから一階にはいないのだろうかと考える。
(ここで待ち伏せ、のんきに入ってきたところを撃つ…いえ、仕留めるまでのタイムも計られているだろうから、こっちから出向いてやるわ)
こういう場合、円佳ならどうするだろうと考える。
あの子は冷静で慎重…とくに私が一緒にいるときは仲間に被害を出さないことを最優先にするから、待ち伏せからの不意打ちを狙うだろうと思う。そして早乙女の落ち着きのない性格から察するに、自分からのこのこと罠にはまってくれるという可能性も考慮できた。
けれど、これは私と早乙女の決闘である前に『エージェントとしての優秀さを試すための戦い』でもあるのだ。となると撃破までのタイムも意識せざるをえなくて、私は攻めの姿勢に切り替える。
周囲の殺気に気を配りつつ、自分は感づかれないように気配を殺し、素早く通路を駆け抜ける。曲がり角に到達したら顔だけ出して様子を確認し、また索敵を行って早乙女がいないことを理解したら移動を再開する。
この地味な繰り返しは、階段まで続いた。
(二階にも地下にも行ける階段…さて、どっちかしら)
ここまでの移動から察するに、一階にはいないと思う。あの女の普段から考えれば我先にと私を探そうとするため、もしも一階にいたのなら私が見落とす可能性は低いはず。
つまりは二階か地下かのどちらか、そしてあいつが一階に向かってくるのなら待ち伏せしやすいのは私のほうだけど。
(もしも二階にいた場合、あいつならとっくにフロアの探索を終えて下に降りている…ということは、初期配置は地下二階、今は地下一階の探索中かしらね…お望み通り、こっちから出向いてやるわ)
早乙女の性格、行動力、動きの速さ…それらを勘案すると、地下一階にいる可能性が高いと私は判断する。これで手榴弾でもあれば階段で待ち伏せ、音が聞こえた時点で下に放り込むのもいいけれど…今日の武器はシグナルガンのみ、しかも捕縛の名目であれば息の根も止められなかった。
なので私は自ら奈落へと飛び込むように、地下に向かって階段を降りる。踊り場の時点ですでに薄暗かったけど、地下に到達すると窓がないこともあってか、最小限の照明しかないフロアは廃墟というよりも墓場だった。
(間取りを見たところ、ここには手術室や薬品保管庫がある…映画の撮影ならゾンビが出てきてもおかしくない、命からはほど遠い雰囲気ね…)
今は私と早乙女しかいない廃墟風の施設内は、音を立てないつもりでもわずかな足音すら小さく反響して、それがまたホラー映画っぽさを強調していた。
ここに潜伏しているとしたら、早乙女はさながら円佳を狙うゾンビ野郎ってところかしら。そして私はそれを倒してヒロインを守る主人公…なんて、柄じゃないわね。
私の物語の主人公はいつだって私自身ではなく、オープニングからエンディングまで円佳なのだから。そしてその物語に土足で入ってくるゾンビみたいな女を、私は躊躇なく撃つ。
そして三つ目の曲がり角にさしかかったところでそろそろ遭遇の可能性を考慮し、リフレクターガンを持つ手に力が入っていたら。
「ばあっ!!」
「…っ!! 死ねぇ!!」
曲がり角の先は安全かどうか確かめようと顔を覗かせたところで、にっくき女の顔が飛び出してきた。その距離は鼻先が引っ付きかねないほど近く、私は確実に驚いていたものの、おちょくるような行動と円佳以外は許したくない距離感に頭脳は瞬間沸騰、思わず左手でフックを放つ。
「わあっ、危ない! 今のがクリーンヒットしてたら絵里花ちゃんは失格だよ!?」
「それであんたご自慢の顔をめちゃくちゃにできるんなら安いものよ! ふざけてないでさっさと銃を抜くことね…もっとも、待ってあげるつもりもないけど!」
早乙女は出会い頭に銃を撃ち込むどころか、その両手は空いており…ぱあっと顔の横で開いて、言葉通り私を脅かそうとしていただけに見えた。
だからそのムカつく鼻っ柱をへし折るべく、私は捕縛を忘れたかのような打撃を叩き込んだけど…上半身だけ後ろにそらしてそれを回避、その勢いでバク転を繰り返し、着地と同時にサイドステップを踏んですぐそばの部屋に逃げ込んだ。
フックを外したせいで射撃体勢への移行が遅れ、私が引き金を引いたときにはすでに通路には誰もいなかった。そして早乙女が飛び込んだのは薬品保管庫、おそらく地下一階でも一番広いはずの部屋だ。
私は早乙女からの反撃がないことを確認すると誘われるように足を踏み入れ、薬品棚に身を隠しつつ敵を探す。棚には空き瓶がいくつも置かれていて、シグナルガンよりもこれをぶつけてやりたいと九割くらい本気で考えていた。
「まーまー、あたしの話を聞いてよ絵里花ちゃん!」
「なによ、模擬戦だから命乞いをする意味なんてないわ。降参するってんなら見逃してあげるけど?」
「にゃはは、あたしのほうが強いのにそれを言っちゃう~?…おっと」
棚の向こうから声が聞こえ、私はすぐさまそちらに移動し、身を隠しながら早乙女の様子を窺う。この期に及んでもまだ早乙女は銃を握っていなくて、モデルのように左手だけ腰に当て、大胆不敵に私を見ていた。
その意図がわからない私は念のために降参の意思を尋ね、すぐさま煽り返されたのでそばにあった空き瓶を投げつける。もちろんそれはひょいっと躱され、床に落ちても割れることなく転がっていった。この瓶はガラスではなく、トライタンなどで作られているのかもしれない。
「…んじゃ、言うよ。あたしもね、そろそろどっちが強いのか、どっちが『好きな人』の役に立てるか、はっきりさせておきたいんだよね。絵里花ちゃんもそれは同じでしょ?」
「…興味ないわ。私は円佳のためなら強くなるけれど、誰かと競い合うために強くなるなんてどうでもいい…あんたはぶっ飛ばしたいけど」
「んふふ、とか言っちゃってぇ…体は正直ってやつ~?」
今の早乙女を撃破するのはたやすい。私が構えているシグナルガンを体に撃ち込めば、すぐさま勝利を知らせるブザーが鳴るだろう。
…けれど。私は冷静そうに口にする割に、体はあいつの挑発に乗っていた。
早乙女のほうへと歩き、お互いが棚に挟まれながら正面から向き合う。癪だけど、今の私の体は…この女が求めていることへ乗っかろうとしていたのだ。
「あたしたちの決闘が、こんなおもちゃですぐに決まっちゃうのは…つまんないでしょ? お互いの使えるものを全部使って、組み伏せた上で撃ち込む…あたしも君も、そーいうのを求めている人間なんだよぉっ!!」
「知ったようなことを言うんじゃないわよ、泥棒猫!!」
私も早乙女もシグナルガンを投げ出し、相手へ急速接近して両手をつかみ合う。
それは円佳と握るときとはまったく異なる、力と力のぶつかり合いだった。
「んーふふ…んーふふ! 絵里花ちゃんは射撃も体術もいまいちって聞いてたけど! ちょっぴり見直しちゃったよぉ!」
「そのムカつく笑いをやめなさい! でないと…喉笛を引きちぎるわよ!」
この挑発に乗ってしまうこと、それは私にとって不利に働いた。
こいつの身体能力、格闘術…そのどちらもが確実に私より優れていて、私は自ら堅実な勝利を捨ててしまったのだ。これを見ている円佳は、きっと呆れているだろう。
…だけど! こいつは、こいつだけは…この場で叩きのめしたい!
そしてこいつも同じことを考えているのだとしたら、なるほどシグナルガンはただのおもちゃだった。これだと…こいつに勝ったとは言えない!
だから私は掴んだ手を引き、ヘッドバッドをお見舞いしようと頭を突き出す。けれど動物のような反応速度で早乙女はぱっと手を離し、先ほどのように上半身を後ろにそらして回避した。
それだけでなくサマーソルトを決めるように足を蹴り上げ、バク転と攻撃を両立したかのような動きを見せる。そして私も先ほどの動きを見ていたせいか、バックステップでなんとか回避できた。
もしもあれが私の顎に直撃していた場合、確実に病院送りになっていた…それくらいの力加減だったのだ。
こいつも私も、今は捕縛なんて考えちゃいない。どちらの体術も大ダメージだけを狙っていて、いつ中止が告げられるかわかったものではなかった。
…いや、すでにこの勝負に横槍は入っていたのだ。
『早乙女および辺見に模擬戦から逸脱した行為を確認。直ちに本来の目的を達成してください、さもなくばペナルティが発生します』
「ちいっ!」
「あーん、残念! それじゃあ…早撃ちで決めようかぁ!」
フロアのどこかに設置されたマイクから、私たちに水を差すような機械音声が突き刺さる。
こいつを仕留められるならペナルティも上等…だけど、どうやら体術については意外といい勝負らしく、これでは決着がつかずに強制終了とペナルティが確定しそうだった。
となると…不本意ながら、おもちゃで終わらせるしかない。それを理解した私たちは、それぞれが手放したシグナルガンへと駆け寄ろうとして。
「…! トラップが…!」
私は失念していた。
この廃病院は不測の事態に対応するため、敵勢力が仕掛けたようなトラップもいくつか隠されていることに。
そして今回は棚にある瓶の中に煙幕が仕掛けられているという設定だったのか、時限爆弾のように今になって周囲の瓶が爆発、あたりは煙に包まれた。
「くそ…! 私は、こんなことじゃ」
「あーあ…こうゆう形で勝負が決まるの、つまんないんだけどな~…ごめんね?」
不明瞭になった視界の中、私は這いつくばるようにして自分の銃を探す。足の速さは私だって負けていないのだから、先に見つければ勝てる…そう信じていたのに。
こいつは、まるで。煙幕の中であっても、すべてを見ていたかのように。
私が銃を見つけてそれを掴んだ刹那、後ろから本当につまらなさそうな声がすぐ後ろから聞こえ。
「しまっ──」
私のベストからヒットを告げる音が、いまだ煙晴れぬ倉庫へ無慈悲にこだました。
*
「二人ともさぁ…いくら模擬戦とはいえ、真面目にやりなよ…」
「真面目にやったわよ! その結果がこれで!…これで、ごめん、なさいっ…!」
「あっ、わ、私のほうこそごめん…えっと、褒められたことじゃないんだけど…絵里花は頑張ったよ、うん…」
敗北感に打ちひしがれながらテントまで戻ったら、円佳は…呆れつつも私が涙を堪えきれずに謝ったら、すぐに抱き寄せて頭を撫でてくれた。
円佳が物理的にそばにいてくれる瞬間というのは、どうしても心地いい。けれども今回は彼女のために全力を尽くせなかったことが情けなくて、同時に守り切れなかったことが…ひどく私を惨めにする。
「…あのー、あたしもいること忘れてない? それとぉ…約束もね?」
そしてすぐ後ろにいる早乙女が私たちを冷ややかに眺めながら、それでも遠慮なく指摘してくる。その言葉に私は円佳から離れてにらみつけたけれど、こいつの顔を見たら急に頭が冷えてきた。
早乙女は、笑っていた。笑っていたけれど、それは勝利に喜び私を見下している表情ではなくて、ただ寂しげで…私が知っている顔だった。
…こいつもまた、無理をして笑っている。勝ったくせに納得できていなくて、それでも自分は笑うべきだと言い聞かせるように。
円佳が落ち込む私を気遣うときのような雰囲気を感じて取ってしまった結果、目を伏せることしかできなかった。こいつの態度にわずかにでも救われている自分が、さらに情けなかった。
「…あの、そのことなんだけど。デートだけは、そのぉ…勘弁してもらえないかな?」
「えー!? 円佳ちゃん、約束を破るの!? あたし、このために頑張ったのに!」
「いや、これは絵里花をひいきしているとかじゃなくて…私、好きな人以外とデートするのって抵抗感がすごくて…だから実際に行ってみても、早乙女さんに失礼だと思う…」
…円佳ならそう言ってくれると思っていた、そんなふうに思う自分に情けなさがまた復活してきた。
円佳の言葉は嬉しいし、そもそも私たちが勝手に彼女を賭け事に使ったようなものだから、その主張には正当性もある。
だけど私は…どこまでも、弱い。
「……お出かけ」
「え?」
「……デートじゃなくて、『お出かけ』なら。見逃す、わ……」
それでも死ぬほどいやだけど。
その言葉だけは吐き出さなかった私は、これ以上弱くなることを認められなかったのかもしれなかった。
円佳のためには負けることなんて許されなかったのに、負けてしまった私。
そんな私をこれ以上円佳が気遣うだなんて、こんなのは…嬉しいのだけど。
だけど…早乙女にまであんな顔をされてしまっては、惨めな私は自分のプライドを守るように、あの勝手な約束だけは完遂しようとしていたのだろう。
そのプライドに恋人を差し出すほどの価値なんてないのはわかっていても、吐き出した言葉はもう飲み込むことはできなかった。
「絵里花…私…」
「…んーふふ! 仕方ないから、今回は『お出かけ』で勘弁してあげる! あたしたちってこれからも協力していくだろうから、そのための親睦を深める…これならいいでしょ?」
「…絵里花、本当にいいの?」
「……い」
いやだ。いかないで。
どっちも私の本音、私の希望。
なのに、なのに…なのに。
私は、円佳を。
「……一度、だけ。でも、もうこんな約束、絶対しない……ごめんね、ごめん、ねっ……まど、かぁ……!」
「…わかったよ。早乙女さん、約束通り『お出かけ』はするけど…こういうことに私を持ち出すの、もうやめてね。ちゃんと拒否しなかった私も悪いけど、それでも…」
「…もー! なんでこんなに重い空気になっちゃってんの! これがデート前…おっと、お出かけ前の雰囲気なのかな!? 円佳ちゃん、当日までにはちゃんといつも通りに戻ってよね!」
「…ごめん、わかった…」
私と円佳のデート前、それはもう散々に浮かれていたものだけど。
今の空気は同年代のエージェントが殉職したかのように重苦しく、つらい。少なくとも私にとっては大切ななにかを奪われたように、ただただ心が痛む。
そんな中でもいつもの調子を保とうとした早乙女に、私はどうしても怒りを抱けなかった。