『私はあなたを信じている。だから、尾行みたいなことはしないわ』
部屋に夕日が差し込む頃、今になって今朝の自分の言葉を激しく後悔していた。
円佳を信じているのは紛れもない事実で、尾行すればこの世で唯一無条件で信頼できる相手を疑うことにつながるのだから、あの宣言も行動も正しいのは間違いない。
間違っているのは、そんな誰よりも信頼できる人に対して妙な意地を張り、そしておめおめと恋敵に差し出した私なのだろう。
「……円佳……」
円佳は私を心配させないように、定期的にメッセージを送ってくれる。そしてその文章中にはあの女と楽しく過ごしていることが伝わるような内容もなくて、彼女はどこまでも私に対して気を使ってくれていた。
そう、円佳は…いつもそうだ。実力もないくせにいじっぱりな私を大切にしてくれて、自分のことなんてそっちのけで私に優しくしてくれるのに。
なのに、私は…なに?
(…私は、いつもそうだった。自分の気持ちにばかり従って、周りには意地を張って、でもその結果は円佳に負担ばかり押しつけて…口では『支える』なんて言ってるのに、支えられてばかりで…)
私は自分が嫌いだった。
小さな頃から周りに嫌われていて、やっと私のことを好きになってくれる人ができたとしても、その人の足を引っ張ってばかりで。
そして円佳が奪われそうになっても結局は負けてしまって、その後もあがくことはせず、『約束は守らないといけない』なんて常識論に逃げてしまった。
そして今は無駄に強がった結果として一人彼女の名前を呼びながら、夕飯の準備もせずにリビングのソファに座って窓の外を眺めている。頭では「せめておいしい料理を作って円佳をつなぎ止めたい」と思えるのに、それを実行できるほどの気力が湧かない。
本当なら今すぐここを飛び出して、円佳のところへ行きたい。でもそれをすれば彼女を疑っていたという証明になって、さらには自分で言ったことも守れない女になってしまって、ますます失望されるかもしれない。
だから私は自ら思考を迷子にして、ただ座って彼女を思うことしかできなかった。それは世界で一番時間を無駄に使っている瞬間で、自分の価値がますます失われたような無力感に包まれた。
ピリピリと全身を包む痛みとも痺れともつかない感覚は、ますます私から思考力を奪っていくような気がした。
(ここ最近はようやくエージェントらしくなれて、円佳と負担を分かち合うことができていたのに。なのに私は安っぽい挑発に乗って、惨めに負けて…私は、円佳に…相応しく、ない…?)
痛みと痺れが脳まで到達すると、私の両目は音もなく涙を流し始めた。今日は一日中こんな感じで、円佳が出かけて以降はずっとここから動いていない。食事だって喉を通るわけがなくて、彼女を思うだけで胸はいっぱいになり、そして早乙女の顔がちらつく度に吐き気を催していた。
早乙女は、私にとって間違いなく邪魔だった。あいつはいつもヘラヘラとしていて、一緒にナイトハイクをしたことで友情未満の仲間意識が生まれそうになったけれど、円佳を狙う以上は味方であるはずがないのだ。
ましてや自分よりも優秀であるという事実がもっと私を惨めにして、今になって「研究所は私を円佳から引き離すためにこいつを近くに置いたのかもしれない」と考えられるようになった。
(…もっと早く気付けばよかった…昔から私は円佳には相応しくないと思われていて、それでもあの子が必要としてくれたから一緒にいられただけで…きっとこれは、自分から身を引かせるための…最後の警告だったのね…)
気付いたところで私が無能なのは同じだし、早乙女は全力で円佳を奪おうとしてくるのだろうけど。
それでも私だってエージェントだ、あいつの隙を見つけて寝首をかくことくらいはできたかもしれなかった。真っ向勝負では勝てないというのなら、どんな手を使ってでも息の根を止めればよかったんだ…でも、もう遅い。
(…円佳、早乙女のこと…好きになった、のかしら…)
間違いなく私の好みじゃないけれど、早乙女は美人と呼んでも差し支えない見てくれだった。それでいて積極的だし、私みたいな無駄な意地も張らないし、仕事だって完璧にこなしている…。
そう、円佳という優秀なエージェントの隣に立つ存在としては、どうしようもないほど相応しく見えた。
(…円佳、どうして…『行きたくない』って、言ってくれなかったの…)
元々醜く歪んでいた私の性根は、ここに来て救えないほどのレベルに陥ってしまった。
自分から円佳へ行くように伝えたのに、今になって思うのはそんなこと。円佳は何度も私に「本当に行ってもいいの?」と聞いてくれたのに、私は約束を守ることを優先させて。
そもそもその約束だって彼女の意思を無視して私と早乙女が取り付けたのだから、彼女には間違いなく拒否する権利があったはずだった。でも誠実な円佳は私たちの意思を優先して、自分勝手な約束だって受け入れてくれたのだ。
そうだ、円佳が悪いことなんて一つもない。そもそも早乙女だって私か円佳が本気で拒否すれば、あるいは私が勝負に乗らなければこのような結果にはならなかっただろうに、私は、本当に、私は…。
円佳にすら責任転嫁をしようとする私は、いよいよもって生きている価値を失った気がした。
「…なにが、円佳のためよ…なにが、約束よ…全部全部、私の見栄でしかなかった…」
早乙女との勝負に応じたのも、円佳に約束を守らせたのも、いっちょ前に尾行はしないと伝えたのも…全部私の見栄だったのだ。
弱くて醜い自分を隠すための、身分不相応なプライド。そんなものがあったって円佳は支えられないのに、自分すら救えないのに、どうして私は…こうなの?
もしも私がこういう人間になってしまうのすら【因果】だというのであれば、私ごと消えてしまえばいいと思ったのだ。
ああ、憎い、憎い、憎い…自分なんかが円佳の負担になっていることが、ただひたすらに憎かった。
…今日ほど自分が嫌いになったことなんて、ない!!
「……いいわ。全部終わらせてあげる……」
辺見絵里花。
誰よりも優しくて強い円佳の隣にいるには、あまりにも弱くて醜い存在。
美しい花でだけ満たされた温室に、誰が好き好んで枯れ草を添えるだろうか?
だから私はこれ以上円佳の世界を見苦しくしないよう、自分で決着をつけなくてはならなかった。私に必要なのは優秀なエージェントになることではなく、早乙女に勝つことでもなく、ただ『辺見絵里花を終わらせること』だったのだ。
ようやくソファから立ち上がり、断頭台に向かう囚人のようにキッチンへ歩いて行く。その距離は極めて短いというのに、円佳がいない世界はいつまでも重苦しく前に進まなかった。
それでも到着し、私は料理をするときと同じようによどみなく、定期的に手入れしている包丁を取り出す。つい先日砥石を使っただけあって、刃こぼれは一切なかった。
このどんな食材でも容易に切断できる刃物なら、きっと私もすぐに断罪できる。エージェントは特殊な訓練を受けていて身体能力は高いのかもしれないけれど、防御力に関してはあくまでも人間の範疇に収まっていて、制服やパーカーなしでは一般人とあまり変わらなかった。
「……さようなら、円佳。愛してるわ……」
だから、どうか。
もしも生まれ変わったとしても、もう一度私たちが因果に導かれて出会えるのなら。
今度は少しでも優秀な私と出会ってくれますように。
最後まで他力本願だった私は右手で包丁を握り、左手首に刃を添えて、そして
「ただいまー。絵里花、いるー?」
それはあまりにもいつも通りな、何の気負いもないただいまの言葉。
愛する恋人の口から聞くには何の甘さも含まれていないというのに、私はその声音から圧倒的とも言える安心感を覚えて、一瞬で正気に戻って。
自分で握った包丁が食材ではなく私自身を切り裂こうとしているのを視認すると、まだ出血しているわけもないのに全身が冷えていった。
「いっ、いやあぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
自分で自分を殺めようとして、何がいやなのだろうか? 私の決意はその程度のものだったのか?
わからないことだらけではあったけれど、それでもはっきりしているのは…円佳の声を聞いただけで「死にたくない。もっとこの人と一緒にいたい」と思える、どうしようもないほど浅ましい自分の意思が優先されたことだった。
だから命乞いをするように叫び、包丁を取り落とす。それはフローリングに落ちて硬質な音を立て、私は腰を抜かしたようにへたり込む。
すると玄関からこちらに向かって駆け抜ける足音が聞こえ、ドアが開くと同時に人影が私の元へと飛び込んできた。そしてその人物の顔を視認する前に、私は慣れ親しみすぎたぬくもりに包まれる。
「絵里花、どうしたの!? 怪我はない!?」
「あ、ああ、あ…」
「あの、料理中にびっくりさせちゃった? ごめんね、脅かすつもりはなくて…」
「ち、ちが、ちがうの…本当に、ちがぁ…あ…!」
「…絵里花?」
円佳は私が先ほどまでなにを考えていたのか、そして何をしようとしていたのかなんて知らない。
それでも彼女は心配してくれて、そこに私を見捨てる様子なんてわずかにも存在してなくて、そして私は涙があふれてきた。
それは安心感から生じたものというだけでなく、それを上回る罪悪感からのものだった。普段から彼女はこうしてくれていて、私が消えることを望むはずなんてなかったのに。
…私は、何をしていた?
「ごめっ、ごめ、ごめん、なさいっ…! わたし、私、最低なこと、かんがえっ、しようと、してたっ、の…!」
「…落ち着いて、絵里花。何があったかわからないけど、大丈夫…私がいるから。私があなたをどんなことからでも守るから、安心して…」
抱きしめてくれる円佳に対し、私は錯乱しながら謝罪する。それは事情を知らない彼女からしても見苦しいことこの上ないのに、ゆっくりと、そして優しい声で語りかけてくれながら、背中をずっとさすり続けてくれた。
血液を失う前から冷たかった体に、あっという間に命の息吹が生まれる。そして、再確認する。
円佳は紛れもなく、私の人生のすべてだった。円佳がいてくれる限り私は生きていられて、彼女がいないということは死んでいるよりもつらいことだったのだ。
円佳がいれば、私はほかになにもいらない。孤独も悲しみもすべて取り除いてくれて、これから先の人生に何の不安もなくなる。世界は冬が明けたように彩りで満たされ、このまま時間が止まって欲しいと思う反面、円佳との未来をもっと見たいと前に進み、その先にある宝物を追い求めたくなった。
そんな人を自分のつまらないプライドで他人に捧げようだなんて、間違っているどころではなかった。けれど、それほどまでに愚かな私であっても、円佳は朝日で照らすように柔らかく包み込んでくれる。
「…まどか、きい、て…私、あなたに…」
「うん…」
だから私は神に懺悔するシスターのように、円佳へすべてを話すことにした。
円佳を無価値なプライドによって、賭け事に持ち出したこと。
そんな円佳をおめおめと送り出してしまったこと。
そのくせ一日中後悔していて、本当ならデートを台無しにするべく尾行したかったこと。
結局家にいてもなにも手につかなかったこと。
そして…そんな自分に耐えられなくなり、私の手ですべて終わらせようとしたこと。
…改めて考えると、醜悪極まりなかった。
どれも円佳のことを思っているように見えて、すべてが自分の愚昧さによって生じた結果でしかなかった。それこそ神に祈ることでしか許されないような、私なんかの命では釣り合わないような重罪。
「…絵里花、ちょっとごめん」
「え?…きゃっ」
円佳の腕の中は世界で一番優しい懺悔室で、いつまでもその温かさに包まれていたかったけれど。
だけど彼女はすべてを聞き終えると同時に身を離し、悲しげに曇っていた表情を一瞬だけ私に向けたかと思ったら、頬をリビングに差し込む夕日よりも赤くして、私を抱き上げるようにして立ち上がらせた。
そして私の手をやや強引に引き、スタスタと自分の寝室へと連れ込む。その意図がわかりかねた私はずっとされるがままで、背中に柔らかな衝撃が伝わってきたかと思ったら、円佳のベッドへと仰向けに寝かされていたのだ。
「…円佳?」
「…ごめんね、絵里花。私、怒ってる…理由、わかるよね?」
「っ…う、うん…本当に、ごめんなさい…やっぱり私、あなたのそばに」
「でもね」
円佳は私に起き上がらせる隙を与えないように、四つん這いになって上に覆い被さる。そして見上げる彼女の顔はいつも通り整っていただけでなくて、その怒りを示すよう、眉尻が珍しく上向きだった。
それでも最初に口から出てきたのは謝罪で、何一つとして悪くない彼女が謝ってくる理由がわからない。でも私が悪い理由については数え切れないほどあって、謝りつつも厚かましい彼女への気持ちを伝えようとしたら。
円佳の右手は私の頬へと伸び、ゆっくりと撫で始めた。思わず「あぁ…」なんて声が漏れてしまうほど、その滑らかな手つきは心地いい。彼女のためなら私なんて消えてしまったほうがいいと思っていた矢先であるのに、この感触を永遠に味わえなくなると思ったら、やっぱりまだまだ生きたいと思ってしまった…いくら何でも、私って浅ましすぎる…。
「…私も、流されるがままだった。本当は絵里花以外とデートなんてしたくないし、今日だってデートだなんて思ってないけど…それでも絵里花が望んでいることじゃないってわかってたのに、私はずっと『絵里花はなんで引き留めてくれなかったのか』って…自分の意思決定の責任を押しつけるばかりで、あなたになにもしてあげられなかった…」
「……ち、違う。悪いのは私、全部私……」
…本当に、絶対に、死ぬまで言えないけど。
円佳が私と同じようなこと、『パートナーが自分を止めてくれること』を望んでいたとわかったとき…ものすごく、嬉しくなってしまった。
それは間違いなく『面倒くさい』としか言えない考え方で、自分のしたいことはわかりきっているのに、相手にもそれを望んでいるという、恋をした人間特有のわがままだった。
そして円佳は私にとって完全無欠で、そんな醜い人間らしさも欠けていると思っていたのに。
(…円佳も、私と同じこと…考えてて、くれた。私のことが好きだから、私に言って欲しかった…あんなにもどうしようもない、わがままを)
自分で言い出したことを撤回してでも足を引っ張る、そんな行為ですら望むくらい…円佳は、私の意見を、私を…必要と、してくれていた。
最低だ、私は…心と言葉が円佳と一致したことで先ほどまで感じていた絶望感は消し飛び、胸の鼓動は命を紡ぐように『この先』を期待し、そして下腹部、女性が持つ『神秘の内臓』は…きゅうきゅうという音が聞こえそうなほど、私を『整えて』いた…。
私は浅ましいだけでなく、卑しい女でもあったのだ…。
「今日、早乙女さんとお出かけしてわかった。私はやっぱり、誰よりも、そもそもほかの存在と比較したくないくらい…あなたが、あなただけが、絵里花が好き。さっきのことは怒っているけど、そんなになるまで私を好きでいてくれて、とっても嬉しい…だから、私もちゃんと自分の気持ち、伝えるね。絵里花、あなたが…欲しい」
「あっ…んんぅ…」
お願いだから気付かないで、私の『体の変化』に。
けれどそんな願いは儚くも散り、円佳は私にキスをしながらゆっくりと服の中に手を入れてくる。それはいずれ私の『惨状』に気付いてしまうことを意味していて、今になって新たな後悔が芽生えた。
今日着ているのは部屋着のニットワンピースに、特別でもなんでもない自宅向けの下着。これから先を望む女としては、あまりにも無防備な状態だった。
けれども円佳の手が私の素肌を撫で始めたことで拒むための言葉はすべて失われ、続きを促すように彼女の首へと腕を回していた。