「すみません、休日の夕方に呼び出したりして…あら? お二人とも顔が赤いですが、体調は大丈夫ですか?」
「…あはは、まだ少し暑いから。大丈夫、仕事には支障ないよ」
あれからの私たちはそびえ立つ名残惜しさをなんとか使命感で押し切り、念のために制服へ着替えてからMooncordeへと向かう。もちろん美咲さんへは何食わぬ顔で応じていた…つもりだけど、やっぱりことがことだけに完全には誤魔化せなかったらしい。
いつもの部屋に入って早々、美咲さんは私たちの顔を見て気遣わしげに尋ねてくる。私たちはエージェントなのだから休日であっても任務には応じる必要があるし、少々の体調不良で休ませてもらえるほど甘くもないだろう。
だから美咲さんの観察眼と思いやりはこの人らしい柔和さに満ちていて、とても嬉しい反面…その察しの良さに見抜かれないかと、今も体の奥でくすぶる熱を押し殺そうとしていた。
そして絵里花は『こういう場合に自分はぼろを出す』と知っているのか、美咲さんの指摘にも顔を赤くして「大丈夫よ」とだけ口にする。その頬は日が落ちる直前の夕日よりも赤く見えて、さらにその口元は先ほどまで私と重なっていたと思ったら、こんな場所であっても体温が上昇しそうだった。
血色のいい絵里花、可愛いな。ぷるぷるの唇、色っぽいな。
そんな思考を出さないようにするため、私は努めて無表情を装った。
「…うふふ、大丈夫ならいいんです。本当なら『熱の原因』について事細かに聞きたいのですが、今回は重要な任務なので早速本題に入りましょう…私たちに護衛任務が入りました。申し訳ないですが、少しのあいだ学校はおやすみしていただくと思います」
「護衛任務…珍しいね。そういうのは専用のチームが割り当てられそうなイメージがあったけど」
「ええ、おっしゃるとおりです。ですが、今回の護衛対象、現在の住まい、人員の配置などを諸々勘案した結果、私たちが適任だと判断されました…優秀なチームはつらいですね」
「ベイグルとあんたが優秀なのは認めるけど、私でいいのかしら…っと、余計なことを言ったわ。で、護衛対象はどんな人なのよ?」
エージェントにもいろんな人たちがいて、私たちのような学生であれば『都市風景に紛れての不意打ち』がメインとなる。よって護衛のような体を張った任務であればより実力行使が得意な人員が割り当てられそうなもので、現に護衛に特化した作戦は初めてだった。
ただ、美咲さんという天才スナイパーがいること、さらに私たちは同年代でも──美咲さんが言うには──優秀らしいため、先日の海外脱出用船舶の制圧といった任務も任されたことから、今後はこういうことも増えていくのかもしれない。
そして自分に自信がない絵里花は一瞬だけ難しい表情になったけれど、私と美咲さんを見たらすぐにネガティブを切り上げ、何の不安もなさそうに続きを促した。
(…うぬぼれかもだけど、さっきまでしてたことが絵里花を変えてくれたのかな?)
堂々と任務に赴く絵里花の横顔は、まったく心細さを感じさせない。頬は赤いけれどそれはむしろ命のありかを私たちに伝えているようで、絵里花が生きてくれていることに私までもが心強さを感じていた。
恋人同士の情事を淫らだと考える人もいるだろうし、私にもまだまだ恥じらいは残っているのだけど。それでもありのままの姿で身も心も重ねる時間というのは、たくさんの言葉を交わす以上の力を持っている気がした。
先ほどの行為は途中で終わってしまったけれど、私の両手には絵里花の肌の感触、そして体温がじんじんと残されていて、それを思い出すと胸の奥で花が咲くのだ。
もう一度、そしてもっと、絵里花と抱き合いたい。そのために私たちは生きて、そして自分たちの家へと帰る。
そうした意思を生み出すのであれば、私と絵里花の『交わり』はとても尊いもののように思えたのだ。
「今回の護衛対象はですね、桐生夫婦…
「桐生、流沙…あっ、もしかして小説作家の?」
「その通りです、ベイグルさん。彼女の作品を読んだことがあるならご存じでしょうが、桐生先生の作品はどれも因果律を肯定的に捉えたものばかりで、とくにラブロマンスものは好評を博している…これには因果律システムを好意的に捉える力もあるのは予想できますよね?」
「…まさか…」
私は読書家と言うほどではないけれど、退屈なときは本を読んで過ごすこともあって、主にミステリー小説が好きだった。絵里花もそこそこ読むほうで、彼女の場合はレシピ本が多いけれど、ジュブナイル小説も結構好きらしい。
そんなわけで今をときめく人気小説家、桐生流沙については知っている。というよりも私たちも関連書籍は読んだことがあって、たしかに『因果の相手と巡り会い、四苦八苦しながらも最終的には幸せな結末を迎える』という描写もしばしばあった。
…ちなみに、女性同士の恋愛関係…いわゆる『百合小説』も結構たくさん書いていて、そういう作品にはそこそこ刺激的なシーンが多いという評価もある。そういった点も含めて、私と絵里花にとっても気になる作家と言えるかもしれない。
なので護衛をすること自体に精神的なハードルはないのだけど、気になる点はいくつもある。とくに私たちエージェントは表には知られていない存在であるのだから、そんな立場の人間がなぜ有名作家の身辺警護が必要なのだろうか?
なんて思っていたら絵里花はその可能性について私よりも一歩先に気付き、その様子を見ていた私も予測できた。
「ええ、お二人が考えるとおり…多くのファンがいて、そんな人たちに因果律について良いイメージを持たせられる存在というのは、世界自由連合みたいな因果を否定する勢力からすれば目障りです。これまでもそういう相手から敵視されていたのですが、先日出版された小説がベストセラーになった結果、身の危険を感じるような出来事がいくつも起こったのです。これがその本の概要ですね」
「…これは…うん。桐生先生は悪くないと思うけど、あいつらからすると不愉快なんだろうね…」
「でも、そんなのはただの逆恨みよ。あいつらだって『言論の自由を認めろ』なんて言いながら因果律やそれを維持する人たちに暴言を吐いているのに、自分たちに悪いイメージがつくと思ったら力ずくで排除するだなんて、『自由』の名前が聞いて呆れるわ」
美咲さんは桐生先生が狙われる原因となった本についての概要をモバイルディスプレイに表示し、私と絵里花はそれをチェックする。
簡単にまとめると、『因果が消滅させられた世界において数々の悲劇…すれ違いや一時の感情に流されての不幸を経験した結果、人々がもう一度自分たちの因果を探すために旅をする物語』だった。
もちろん作中に世界自由連合といった固有名詞は使われておらず、お約束とも言える『これはフィクションです』という注書きもある。けれど、一昔前もそういった文言を無視して自分たちの主張を押しつける思想家気取りのクレーマーがいて、一時期はあらゆる芸術が特定の思想への配慮を強制された結果、世界的に低品質で売れないコンテンツが量産されていたのだ。
それから人々は自分たちの過ちに気付き、ごね得の時代は終わりを迎えた…とも言い切れず。現代も『声の大きい行動力のある迷惑な人間』は掃いて捨てるほどいて、それが犯罪者集団であればなおさら危険だ。
軽蔑を隠さず正論を口にする絵里花に私と美咲さんも深く同意するように頷き、今回の任務がエージェントでないと対処できないものであるのを理解した。
「この本が大ヒットして以降、桐生先生のSNSアカウントに誹謗中傷が繰り返されるだけでなく、凶行をほのめかすメッセージを送りつけたり、個人情報を特定しようとしたり、嫌がらせと表現するには生ぬるい行為が相次いでいます。最近は外出すらろくにできなくなっていますので、いつも通り事後処理以外ができない警察に代わって私たちが動くことになりました」
「それはいいけど…私たちが動くだなんて、桐生先生はエージェントのことを知っているの? 社会的影響力が大きいのはわかるけど、個人を守るために動くなんてレアケース過ぎて気になるんだけど」
「ああ、その点はご心配なく…桐生先生とその配偶者はですね、元CMCなんですよ」
「…え?」
いつの世の中も過激な思想を持つ人間はいて、それらの多くは自分たちを正義と信じて疑わず、自分が攻撃されれば相手を烈火の如く非難するのに、自分たちの攻撃は正当なものだと言い張る。
改めて思う。自分がそんな極端な思想を持っていなくて、そしてそんな思想のためにダブルスタンダードになれる人間でなくて、本当によかった。隣に座る絵里花はますます瞳に怒りを燃え上がらせていて、私は自分の恋人が同じ気持ちであることに心底安心する。
…なんて思っていたら、美咲さんの口からこれまた予想外の事実が告げられた。
「桐生夫婦も幼い頃は研究所に育てられて、その後は外の世界に出てCMCとしての仕事をしつつ、流沙さんは小説家に、その配偶者は大学教授になったんですよ。なんでも研究所にいた頃からお二人とも勉強熱心で、それぞれがやりたいことを完遂した結果、今の立場に落ち着いた感じですね。ちなみにエージェントとしてのお仕事はされていません」
「…そうなんだ。CMCって私たちみたいにずっと戦うことになるかと思っていたんだけど、そんなふうに生きる人たちもいるんだ…」
「…そうね。その、そんな話を聞くと…少し、羨ましくなるわ」
私たちCMCは生まれたときからやるべきことが決まっていて、私と絵里花みたいにエージェントになることが求められた場合、漠然と「ずっと戦い続けるのかな」なんて思っていた。
けれど、CMCであっても戦いから離れ、そして自分たちのやりたいことをしながら生きていける…そんな話を聞いてしまったら、絵里花のように羨ましく感じてしまう。
私は絵里花といるためなら戦いから逃げないけれど、戦いが好きだと思ったことは一度もなかった。戦える力があるから、戦うことで好きな人を守れるから、そう自分へ言い聞かせてきたのかもしれない。
けれど、不思議と妬ましくは思っていなかった。それは絵里花と深く結ばれた──まだ『最後』までは至っていないけど──ことでの余裕もあるけれど、同じCMCだからこその感じ方があったのだろう。
(…きっとこの二人も、いろんな苦労があったんだろうな。それを乗り越えてやりたいことができているのなら、私はこの人たちを守りたい)
CMCは幼いうちから両親とは離され、研究所にて特殊な教育を施される。当時の私たちはそれが普通だと思っていたけれど、外のことを知る度に、そして外で生活する度にそれがある種の異常さを孕むものであると気付いて、お世辞にも楽だとは言えなかった。
そんな場所から外へと羽ばたき、さらには大きな成功を収めているのだから、見えないところで努力をしていたのは想像に難くない。私は同じCMCだからというだけで親愛を持てる人間じゃないけれど、桐生夫婦については不思議と守りたいという意思が強く芽生えていた。
だって私もいつかは…絵里花と『戦いのない世界』で生きたいと思っているのだから、そんな世界にいる人たちを守りたいと感じるのは当然なのだろう。
「そうですね…いつか私たちもそう生きられるよう、今は目の前の仕事を片付けましょう。ああそれと、桐生夫婦に私たちが護衛としてつけられたもう一つの理由ですが…実はこのご夫婦も女性同士、言うなれば『桐生
「……え」
これまでとは毛色の異なる任務、守るための戦いについて誓いを捧げていたら…これまた驚きの情報を、美咲さんは清らかな声ですらすらと口にする。
…いや、私と絵里花もいつかはそうなるし、美咲さんと結衣さんもそこに至るのは既定路線なのだけど。
けれど、奇しくも自分の周りに女性同士で愛し合う人が集まるというのは、これも因果の力なのかと馬鹿なことを考えそうになった。いくら女性同士も普通の世界になったとはいえ、マイノリティな組み合わせであるのは明白なのだ。
「さすがに女性同士の組み合わせに対して男性を向けるのは避けたいですし、それこそ見るからに屈強な護衛をつければ余計目立ちかねません。まだ住所が特定されたかどうかまでは未知数ですから、それならば一般人の親戚も装いやすい私たちのほうが好都合なんですね」
「な、なるほど…?」
「お二人には身辺警護として護衛はもちろん、来客対応、定期的な報告などをしていただきますが…私も外で見張っていますし、安全なときは雑談などもしていただいてかまいません。CMCの先輩として、この機会に気になることは聞いてみるのもいいと思いますよ」
「それ、職権乱用じゃないかしら…」
今回の任務は情報量が多く、今も少し考えがまとまっていない部分がある。同時に「もっと適任がいるのでは?」とも感じていたけれど、美咲さんの言葉に私ははっとする。
絵里花はどこまでも真面目なので素直に受け取れないのだけれど、美咲さんは多分、私たちにとってもいい機会だと思ってくれているのだろう。
同じくCMCとして生きてきた先輩たちの意見はきっと、私たちにとって有益なものとなる。桐生夫婦がどんな人なのかわからない以上、おっかなくて聞きにくい可能性もあるのだけど…。
それでも私は知りたい。これから先、一生を絵里花と生きていく上で役立つであろう、同じ境遇から夫婦になった人たちの…物語を。事実は小説よりも奇なり、そう思ったらまた別のベクトルからやる気が出てきてしまった。
「もちろんお二人だけでなく、様々な人員がいろんな場所で動いています。桐生夫婦に危害を加えようとしている人間の特定、関連組織の足取り、必要に応じた『実力行使』…あなたたちを守ろうとしている人間もいることを、どうか忘れないでくださいね」
「…ありがとう、アセロラ。任務了解、これよりベイグルとフロレンスは桐生夫婦の護衛につきます。因果律だけでなく、それに導かれて幸せな日々を送っている人たちを、私は守りたい」
「ええ、私も同じ気持ち…どんな人間だって現状に不満を持っているのに、自分たちだけが正しいだなんて思い込んで他人を傷つける人間を、私は絶対に認めない。私は私の大切な人たちと、ベイグルと巡り合わせてくれた因果律を守るわ」
そうだ、私たちは一人じゃない。
私には絵里花がいてくれるだけじゃなくて、美咲さん、結衣さん、主任、早乙女さん、クラスメイト、それに同じ目的のために戦っている人たち…みんながいる。
そんなみんなとの巡り合わせも因果だというのなら、私は全部を守っていきたい。
その先に絵里花との平和な日常が待っているというのなら、なおさらだ。桐生夫婦は私たちの到達点の一つで、それを教えてくれる人たちなのだろうから。
そして戦いが始まる。これまでとは異なる、守るための戦いが。
私たちはそれぞれに視線を向けて頷き、誰もがこの戦いに意味を見いだしていることに、何よりも強い誇りを感じられた。