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第86話「いってきます」

「すみません、県外のクライアントにどうしても現地での相談が必要と指定されまして…そこそこ大きな案件ですから、しばらくは会えなくなっちゃいそうです…やんなりますね」

 桐生流沙の護衛任務開始直前、美咲は結衣の家へと向かい、仕事の影響で会えなくなることを伝えていた。無論本当の仕事内容は言えないものの、心からの寂寞を伝えるような表情、持ち込んだケーキ──無論ルミエラで購入したものだ──、正座でしっかり背筋を伸ばした姿勢と極めて真面目な向き合い方もあって、結衣までもが襟を正すように正座で向かい合っていた。

 ローテーブルを挟んで向かい合う二人のあいだに、疑念や憤懣といった感情は漂っていない。そこにあったのは大人らしい諦めの良さと、そして大人であっても隠しきれない寂しさであった。

「そっか、寂しくなるね…でもそれだけ大事なお仕事ってことは、美咲が頼られているんでしょ? ならさ、私がいなくてもちゃんと頑張りなよ」

 今も氷細工のように真面目な表情を浮かべる美咲に対し、結衣はそれを溶かすように柔らかく、そしてすべてを溶かしてその本心に迫るような乱暴さもないぬくもりで、春の日だまりのように微笑み返した。

 それでも頬に宿る寂寞の大きさは美咲に勝るとも劣らず、同時にそこへ含まれる感情の複雑さはむしろ彼女のほうが大きいと予想されるような、どんな色にも染まりきれない言葉が渦巻いている。

(…美咲、今日も本当のことは言ってくれないんだね…)

 結衣は察していた。美咲がとくに真面目に結衣に向き合うとき、大抵は真実を口にしていないことに。

 しかし、それを不誠実だとは思っていなかった。そもそも美咲に隠し事があると知ったこと自体も、本当に偶然だったのだ。


 美しい顔と髪は完全に隠され、唯一覗いていたのはその目元だけ。

 たったそれだけの情報で誰かを特定するのなんて、本来であれば不可能だろう。しかし、結衣にはわかる。わかって、しまった。

 あの日、結衣の心を奪ったホワイトパープルの瞳は彼女と交差すると悲しげに澱み、そして逸らされる。

 それからは何事もなく去って行き、残された結衣は無意識のうちに大切な人の名前を呼んで、そして。

 いつかはその瞳の奥に隠されたものを自分にも見せて欲しいと、強く願っていた──。


(…結衣お姉さん、あなたはいつもそう…私が隠し事をしているときに限って、聞き分けがよくなる…)

 そしてまた、美咲も。結衣がなにかに気付いていることを察していた。

 結衣は美咲にとって、あまりにもできすぎた恋人であった。真面目でありながらも朗らかで角張ったものを感じさせず、慈悲深いとすら評せるほど面倒見がいい。さらには努力家で今もなお洋菓子作りの研鑽を続けており、美咲にとってはまさに尊敬できる『お姉さん』だったのだ。

 だからこそ、結衣に隠し事をすること、そして我慢させること…そのどちらもが茨のように美咲の心を締め付け、何度も『こんな仕事は辞めてしまいたい』と叫ぶ。

(でも、こんな仕事をしていたからこそ、結衣お姉さんと出会えて…添い遂げることも許される…)

 良家に生まれ、学業は優秀、音楽の才にも恵まれ、容姿は美術品と称されるほど整っている…そんな美咲ではあったが、彼女の人生はここぞと言うところでままならなかった。

 慕っていた『お姉さま』と添い遂げられなかったこと。

 その流れで『本来の因果』に逆らったこと。

 そして結衣に対して『真実』を伝えられないこと。

 誰が見ても恵まれている美咲の人生には、その代償としては十分すぎるほどの障壁がそびえ立っていたのだ。それに屈してしまいたいと思っていたときに結衣と出会い、そして新しい壁が立ちはだかって。

 美咲はもう一度、そしてこれが最後だと自分に言い聞かせ、なんとか引き金を引き続けていた。

「念のために言っておくけど、連絡はなるべくこまめにね? 仕事で忙しいのはわかっているけど、心配になっちゃうから」

「あら…もしかして私、また浮気を疑われています? もうっ、私は結衣お姉さん一筋って何度も申し上げておりますのに」

「それもあるけど…」

「あっ、ちゃんと疑ってはいるんですね…くすん…」

 この引き金を引くことで、こんな壁も壊れてしまえばいいのに。

 美咲はこういうときにどんな表情を浮かべればいいのかわからず、心の中で自分と恋人を隔てるものに八つ当たりをしていたら、結衣の落ち着く声音に顔を持ち上げた。

 結衣の顔を覆っていた寂寞は朝日が上がるようにやんわりと晴れていくように見えて、美咲はその穏やかな光ですらまぶしさを感じていた。

 それを見つめ続けていると、自分の心と口は決壊してしまいそうで。美咲は冗談めかすようにふにゃっと笑ったら、真面目に返されてへこんだ。

「…美咲って、危なっかしいから。ちゃんと元気なのかどうかわからないと、不安になるんだよ。正直さ、仕事が上手くいったかどうかよりも…美咲が苦しんでいないかどうか、それだけが…って、わっ」

 それでも結衣は照れくさそうに頬をかきながら、まばゆさの中から手を伸ばすように、美咲に向かってまっすぐな気持ちを伝えた。

 結衣は面倒見がいい一方、無制限に甘やかすこともなかった。仮に美咲が結衣に寄生してだらけ続けるような人間であれば、遅かれ早かれ見限っていただろう。

 だからその言葉は、紛れもなく美咲への信頼によって紡がれたものだった。私の恋人はとても優しくて頑張り屋、どんな仕事でもきっちりこなすだろうけど、だからこそ無理をしていないか心配。

 それは美咲が最も欲しかったもの、揺るぎない『信頼』だった。本当のことが言えない、だけど私はあなたを信じている、だからあなたも私を信じて…そんな言葉にならない思いを、結衣は見透かすでもなく自分の気持ちに従って口にしたのだ。

 それは因果による結びつきにも負けないほどの奇跡、スパコンに計算させれば非現実的な確率でしか起こらないと言われてしまうような、美咲が完全に諦めていたものだった。

 だから美咲はたまらず結衣に抱きつき、結衣はそれに小さく驚きつつも受け止める。あまりにも柔らかで女性的な体つきの美咲に引っ付かれると、結衣ですら『あらぬ欲望』を刺激されてしまいそうで、バレないように小さく苦笑を漏らした。

(…って、仕方ないかな。だって私、美咲のこと…大好きだし)

 因果のない結衣は美咲に出会うまでは恋愛すら経験しておらず、自身の恋愛対象がどちらなのかすらわからなかったというのに。

 今となっては美咲の心と体に埋もれるように、会えば自然と重なり合っていた。それは単なる本能的な欲求以上に、美咲という存在が心地よかったのだろう。

 結衣は胸の奥でじんじんと存在を主張する衝動から逃げることなく、正直な気持ちを見つめ直した。それを口にすると本当におっぱじめてしまいそうなので、これは戻ってきたときに伝えようかな…なんて思っていたら、美咲はようやく口を開く。

「…実はですね、今回は怖いお客さんも来るかもしれませんから、本当は逃げ出したいんです」

 自分でも声が震えていることを美咲は自覚しながら、ついに我慢できなくなった感情の切れ端を、かろうじてエージェントらしく偽装しながら吐き出していた。

 この察しのいい人が相手だと、もしかしたら無駄な抵抗なのかもしれない。だけど今言わなかった場合、美咲は永遠に伝えられないと思ってしまったのだ。

 それは自分の命が失われてしまうのか、あるいは精神的な障壁に屈してしまうのか、わからない。

 同時に余計なものを漏らすほど結衣を危険に巻き込むと理解していたが、美咲は止まれなかった。

「わかってます、本当は逃げられないことくらい。それにお仕事から逃げれば生活もままならないし、そうなったら結衣お姉さんと一緒にいることもできない…私は、怖いんです」

 命を奪われることよりも、結衣お姉さんと一緒にいられなくなることが。

 それは伝えられない部分だけを端折った、美咲の叫びだった。

 これまで数え切れないほどの敵を捕らえ、必要であれば撃破すら辞さなかった、凄腕のエージェントである美咲。そんな彼女にとって怖いのは敵ではなく、結衣といられなくなること…ただそれだけだった。

 大切な人に本当のことが言えない環境なんて、すぐにでも飛び出してしまいたい。しかしそれをした時点でこの国では生きられなくなるも同然で、自分の恋人であるこの人までも巻き込んでしまうだろう。

 逃げたいけど逃げられない、そして逃げようともがき続けるうちに大切な人からも見放されてしまうのではないか、美咲の一寸先は闇で包まれていた。

「…もしもそんなのが来たらすぐに逃げて。そして私のところへ帰ってきて」

 自分から闇に飛び込んできたというのに、私は弱い。

 美咲はすがるように強く抱きついていたら、やがて結衣は降り積もった雪を払うような手つきで、ゆっくりゆっくり美咲の頭を撫で始めた。

 それだけで美咲の闇は晴れていき、実家に戻ったときのような寒さは溶かされ、嘆息するような吐息を漏らしてしまう。

 この人ならこうしてくれる、そんな甘ったれが心のどこかに潜んでいたというのに、美咲は再び結衣の手つきに奇跡を見つけた気がした。

 それはもしかしなくても、彼女にとって因果すら凌駕する絆だったのかもしれない。

「もしもそれで仕事追われたのなら、私が養ってあげる…半年くらいは、だけど」

「…うふっ、半年…ですか。再就職先が見つからなかったら、追い出します?」

「んー、そうなったら…お店にお願いして、レジ打ちと品出し担当として雇ってもらおうかな。でもそれだけだと繁忙期以外は立場も危ういし、お菓子作りも覚えてもらおうかな…私がみっちり教えるよ」

「…スパルタですね…」

 くつくつと笑う結衣に対し、美咲もまたクスクスとようやく自然な笑い声を漏らした。

 そして、考える。もしも本当に仕事を放り出して結衣の家に転がり込んだ場合、半年間はゴロゴロさせてもらえる。さすがに家事くらいはしないといけないだろうが、美咲も一人暮らしが長いのでそこそこはできた…やる気のあるときに限り。

 けれど自分のような人間が就活を成功させられる自信はなくて、そうなったら結衣は本当にお店へ引っ張っていき、頭を下げて美咲を働かせるだろう。しかし小さな店である以上、いつまでもレジ打ちと品出しだけでは働かせてもらえない。

 となると、お菓子作りの修行も必須だろう。パティシエとしてはあまりにもストイックな結衣のことだ、美咲が根を上げても許してはくれない。

 それなら…私は、戦うしかない。

 ともすれば悲壮な決意にも見えるだろうが、結衣と向き合った美咲には笑顔が浮かんでいた。

「大丈夫ですよ、私はきちんとお仕事をこなして、それでお金を稼いで…いつか結衣お姉さんを私のお姫様にするんですから。それにパティシエは朝早そうですし、働かせてもらっても寝坊してクビになりそうです…」

「…もう、台無し! でも…私、美咲が仕事をしているときの姿、好きだよ。真剣で、でも楽しげで、誰かのために頑張っているキミを見てるとね…ずっと一緒にいて、誰よりも近くでその横顔を見たいなって思えるくらい、大好き」

 それは私の表の顔ですけどね、そんな言葉は必要なくて。

 美咲は涙を大輪の笑顔で華やかに隠し、そしてゆっくり飛び込むようにキスをした。

 柔らかく重なった唇に衝撃はなく、体に緊張も走っていない。猫が昼寝場所を探すために日向へ歩いて行くような、悠々として静かなキスだった。

 誰かのために頑張る、それはかつての自分と一緒に捨ててきたはずなのに。

 でも大好きなこの人がいてくれるなら、あの子たちもいてくれるなら、もうちょっとだけ頑張ってみてもいいかもしれません。

 美咲の誓いは秘めやかな吐息と一緒に紡がれ、キスによってお互いへと浸透していった。気付いたら凍えるような闇夜は終わって、朝焼けが近づいてくるようなぬくもりだけが残る。

 それはいつまでもこうしていたくなるような名残惜しさがあったが、美咲は自分から唇を離せた。結衣もまた追いすがることはなく、優しく送り出すように頬を撫でた。

「いっておいで、美咲。あなたには帰れる場所がある、そして私はそこを守る…たいしたことはできないけどさ、戻ってきたときはおいしいご飯とお菓子を作るからね」

「十分…ううん、これ以上ないほどの喜びです。本当ならこのまま『したい』んですけど、それをすると離れられなくなるから…帰ってきたときは覚悟してくださいね? あと、浮気は絶対ダメですからね?」

「それはこっちの台詞、美咲は美人なんだから…そういうのも含めてさ、私は待ってるからね。いつまでも、ここで」

「…はいっ」

 今日は泣かないって決めていたのに、結衣お姉さんは悪い人ですっ。

 美咲は自分を送り出し、そしていつも無事を祈ってくれている結衣の強さと優しさに感極まって、顔は笑っていたのに涙はこぼれ落ちてしまった。

 結衣は頬を撫でる手でそのまま雫を拭い、今度は自分からキスをする。そして「キスまでなのが残念だな」なんて思っている自分に気付いて、唇を強めに重ねてぎゅっと抱きついた。

 そして美咲も抱き返し、二人は時間までは離れることなく、お互いに涙を流しながらつかの間の別れを惜しむ。それが本当につかの間になることを祈り、どちらも叶うと信じていた。

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