「ここが桐生夫婦の暮らすマンション…すごく立派だね」
「こんなに大きいとセキュリティもしっかりしていそうなものだけど…」
「おっしゃるとおり、ここは研究所の息がかかっていて監視カメラも多く、今のところは不審者の出入りも確認されていませんが…現在、上層部は『内通者』がいることも視野に入れて警戒を強めています。基本的には私たちと護衛対象以外は信用せず、必要に応じてすぐにリフレクターガンを使ってください…護衛対象もそうですが、自分の身を守ることも忘れずに」
ついに護衛開始当日、私たちは桐生夫婦の住まう場所へと足を運んだのだけれど、事前に情報があったとしてもその光景には少しだけぽかんとした。
そこは富裕層が多く暮らす住宅地の一区画にそびえる、タワーマンションの一つだ。私たちの住まいも普通にいいところではあるのだけど、それとは次元の異なる高層マンションは威圧感を伴う静謐さを生みだしていて、都心にあるオフィスビルのように生活感が欠けていた。
無論入り口には最新式のAI搭載監視カメラが設置されていて、周辺にはこの住宅地のみを担当していると思わしき監視ドローンがせわしなく行き来している。現代日本では『監視カメラやドローンが多い場所ほど土地代や家賃が高くなる』という傾向があるものだけど、その頂点に近い場所がここなのだろう。
住宅地でありながらも人の行き来は控えめ、さらには生活が生み出す喧噪も感じられず、不審者が歩けば即座にドローンがマークしそうな場所は一見すると危険とは無縁だけど…美咲さんの言葉により、私と絵里花は体に緊張を復活させた。
(内通者、か…もしもそいつが絵里花に手を出すようなら、私は一切容赦しない)
今回の護衛対象は桐生夫婦で、私たちエージェントは万が一があれば彼女たちの盾にならないといけない。もちろん私もその覚悟は終えているし、絵里花だって同じだと思う。
けれど、絶対に口にできない本音として『本当の万が一が起こった場合、私は絵里花を優先してしまう』というものがあった。護衛対象と絵里花が同時に狙われた場合、私は本能的に絵里花を守ってしまうだろう…そんなことを考えてしまう。
もちろん桐生夫婦だって守りたいし、自分の命と天秤にかけたらきちんと護衛対象を優先できる。だけど、絵里花は…絵里花だけは、どうしても最優先の座から降ろすことができなかった。
絵里花はいつも自分よりも私を優先してくれるように、気付いたら私もそうなっていたのだ。絵里花は私にとっての太陽、月、星、花、海…世界を構成するすべてとほぼ同一の存在になっていて、絵里花を失うことは私にとって世界が滅亡するのと同義だった。
よく『人の命は世界よりも重い』みたいなことを言われているけれど、そんなのは綺麗事だ。だって絵里花は人である前に『世界』なのだから、多くの人々の本音が世界を優先しているように、私もなによりも自分の世界を守るのは当然だろう。
…なんてエージェントにあるまじきことを考えていたら、美咲さんに案内されてマンションの敷地内へと足を踏み入れる。もちろんエントランス前にも複数のカメラ、清掃用の名目で設置されている警備型ドローンもあって、厚かましさに定評のある悪徳業者でも命の危険を感じる程度のセキュリティレベルだった。私たち、本当に必要なのだろうか。
「お世話になっております、大石です…はい、ありがとうございます、すぐに向かいますね…では行きましょうか。たしかにこういうAIカメラや警備用ドローンは頼りになりますが、ハイジャックの危険性もあります。最後に人間を守れるのは人間である、この原則は覚えておいてくださいね」
なんて思っていたら、美咲さんはエントランス前のタッチパネルを操作して護衛対象に連絡し、了承を得てからガラス扉のロックが解除される。そしてエントランスホールへと入る前に私の油断を見透かすようなことを言ってきて、改めてこの人が歴戦のエージェントであることを教え込まれた。
それでも私と絵里花はドキリともせず、「了解」とだけ口にして後に続く。その先にはエレベーターが…と思いきや、さらに管理人と思わしき人が待ち構える受付まであって、その様子に私は行ったこともない高級ホテルのロビーを連想した。
…なんだろう、敵地に侵入したような緊張感がある。あるいは研究所の重要区画に連れて行かれたような、これからなにをされるかわからない不安感、とでもいうべきか。
それでも美咲さんは一切動じておらず、いつも通りの穏やかな様子で「桐生先生に呼ばれてきました。アポイントメントの確認をお願いします」と伝え、同じく管理人もコンシェルジュめいた恭しさで「承っております。どうぞ」と柔和に入館許可を出してくれる。
「…私、こういう場所で暮らすと逆に落ち着かないかもしれない…」
「私もよ…どちらかというと、一軒家のほうが欲しいかもしれないわ…」
「いいですねぇ、一軒家。お二人はパン屋になりたいって話していましたし、お店と家を兼ねたマイホームを手に入れるって選択肢も悪くないと思いますよ。あ、パン屋を始めたらパンの耳は私に譲ってくれるとありがたく…」
「それ、結衣さんの前では絶対言わないでよ…多分泣いちゃうから」
とくに怪しまれることもなく入館できた私たちはエレベーターに乗り、つい率直な感想を漏らしてしまう。
研究所はおそらく日本でも有数のお金がかかった施設であって、そんな場所での暮らしは少なくとも貧しさはなかった。けれど、このマンションのような上流階級が好む雰囲気ともまた違って、無機質なまでの実用性に包まれていた結果、私と絵里花はいわゆる贅沢のような雰囲気に慣れていないのかもしれない。
同時に、絵里花の言葉はまさに私の理想でもあった。今の集合住宅がいやというわけではないけれど、自分と絵里花だけの住まいを想像すると、そこには先ほどのような『世界のすべて』が詰まっているようにすら思える。
私にとってもっとも、そして唯一必要なものだけがある場所。それを手に入れることができたら、どれほど幸せなことなのだろう?
そんな訪れるかどうかわからない未来を夢描いたら護衛対象のいる部屋の前まで到達し、美咲さんはインターホンを押して「お待たせしました、大石です」と一度も崩れたことがない穏やかさで来訪を告げていた。
『き、来てくださいました…あの、私が出ますので、千代さんは念のため安全な場所へ…』
『…真琴、無理しないで。それに、狙われているのはあなた…私が出るほうがいい…』
玄関に向かう複数の足音、そして話し声。それらは決して大きな音ではなかったけれど、騒がしさが存在しないこの空間ではどちらもしっかりと聞き取れる。
その会話内容は間違いなく現状に対して不安を抱いているそれであって、私は先ほどの『いざとなったら護衛対象よりも絵里花を守る』と考えていた自分をわずかに恥じた。
この二人はきっと、私が思う以上に不安を抱いていたのだろう。それだけでなく、今もお互いが大切な人を守ろうとしていて…その姿は、間違いなく私と絵里花、美咲さんと結衣さん、そんな存在とダブっていた。
「お、お待たせしました、桐生流沙…あっ、えっと、
「…真琴の妻、
ついに開かれたドアの向こう、そこにいたのは…私よりも年上であるはずなのに、随分と小柄な二人の女性だった。
一歩前に出てドアを開いたのは小説家の桐生流沙…もとい、護衛対象である橘真琴。煉瓦色のセミロングヘアをフィッシュボーンにしていて、メガネの向こう側にあるレッドブラウンの瞳は今も警戒するように周囲を慌ただしく泳いでいた。
そんな女性の後ろにいたのが彼女のパートナーである橘千代で、こちらは黒檀の髪をボブカットにしており、透明感のあるレッドアンバーの瞳をじとりと私たちに向けている。おそらくこの人も警戒しているのだろうけど、真琴さんが怯えを多分に含んでいるのに対し、千代さんはそんなパートナーを守ろうと気丈な上目遣いでこちらを見ていた。
「直接お目にかかるの初めてですね、大石美咲です。この二人は私の恩師の子供で、とても信頼できる後輩ですからご安心ください」
「初めまして、三浦円佳です」
「…辺見絵里花です」
そんな警戒を真っ向から受け止めつつも安心させるように、美咲さんは深々とお辞儀をして簡単な自己紹介を行う。すでに研究所から連絡がいっているのだろうけど、それでも礼儀を軽んじないのは実にこの人らしく、そしてきれいかつ無防備なお辞儀をして信頼を得ようとするのが上品だ。
私と絵里花も後輩らしく同じ角度でお辞儀をし、次に頭を上げたら幾分か柔らかになった二人に「こちらです」と案内してもらえた。
部屋に入るとまず出迎えたのは、チーク材の無垢フローリングだった。単なる廊下ではあったものの、非常に清潔な漆喰調クロスの壁と間接照明のコーブ天井と相性がよく、リビングに続くハイドアがこれまたグレードの高い賃貸であることを物語っている。
もちろん天井は高く、ダイニングキッチンとつながったリビングに圧迫感は0で、バルコニーにつながると思わしき窓はカーテンで遮られていたけれど、ここを開けば部屋全体に気持ちのいい日光が入ってきそうだ。
空調は全熱交換型換気システムが入っているらしく、まだ若干暑い日々が続く外界からは完全に隔離されている。私たちは真琴さんに案内されてソファに腰を下ろし、千代さんはお茶を入れにキッチンパントリーへと向かっていた。
「素敵なお部屋ですね…ああそうだ、シュークリームを買ってきたので一緒に食べませんか? 私の大好きな洋菓子店のものですから、味は保証しますよ」
「…は、はい…あっ、でも…えっと…」
真琴さんは一人用のビーズソファに、私たち三人は彼女へ向かい合うようにして横長のソファに座り、美咲さんはルミエラで買ってきたと思わしきシュークリームの箱をローテーブルに置く。
その所作はどこまでも静かで音なんてほぼ聞こえないはずなのに、テーブルに箱が載った瞬間にびくりと真琴さんは全身を震わせ、これまた余裕のない様子でキョロキョロと千代さんを探す。
私と絵里花は顔を見合わせてどうしたのだろうかと思案を巡らせていたら、美咲さんはすぐに察したように頭を下げた。
「ああすみません、こんな状況ですから不安になりますよね…大丈夫です、変なものは一切入っていません。先に私が食べますので、その上で好きなものを取っていただけたら」
「ち、違うんです、すみませんすみません! 皆さんのことは窺っておりますし、疑っているわけじゃないんです! で、でも、あの、その、わたし、私、わたしなんかでも狙われているって思ったら、ど、どうしても! だから、千代さんだけはどうか! 千代さんだけは!!」
「…真琴、落ち着いて。ここにいるのはみんな研究所の関係者、命を狙う人なんていない…それに、私だけ助かるのなんて…いやだよ…」
なるほど、お菓子に何か盛られていると不安になっていたのか。
美咲さんの言葉でそれに気づいたとき、もちろん私に不快感なんてなかった。むしろ、「この人もCMCなんだな」と思うくらいの警戒心の強さに少し安心していたのだけど。
あろうことか真琴さんはソファから飛び降りて正座、そのままきれいすぎる土下座を披露してきて…パニックを起こしたように、病的な勢いで謝罪を繰り返した。
それに対し美咲さんですら言葉を失っていたら、お茶を持ってきた千代さんはすぐに真琴さんへ駆け寄ってその小さな体を抱きしめる。すると「ごめんなさい」を連呼しつつもゆっくりと真琴さんは身を起こして、千代さんの体に腕を回した。
「…ごめんなさい、最近の真琴はずっとこんな調子で…落ち着くまで、少し待ってほしい…」
「ええ、もちろん。こちらこそ気が利かずに申し訳ありません」
ぽんぽん、千代さんは真琴さんの背中を何度も叩く。そのたびに震えは収まっていき、きっと何度も同じことを繰り返されたことが痛ましいほど伝わってきた。
そしてまったく悪くない美咲さんは何度目かわからないお辞儀をして、私たちに「少し廊下に出ていましょうか」と促す。もちろん私も絵里花もすぐにそれに従って、少しのあいだだけリビングを後にした。
(…この二人、やっぱり夫婦なんだな…)
私は廊下に出る刹那、一度だけ振り返ってそんなことを思う。
怯える真琴さんを抱きしめる千代さんの姿はどこかで見たことがあるような気がして、そしてそれは普段から支え合う私と絵里花に似ていたけれど…だけど、違う。
もっと自然でもっと包容力のある、とても強固なつながり。ただ単に私がそう感じただけなのだけど、それでも無性に「いつか私たちもこうなりたい」と思えた。
*
「先ほどは取り乱してしまい、申し訳ございません…私が橘真琴、小説家の桐生流沙です…ご覧の通りクソ雑魚メンタルで、今は絶賛スランプ中でもあります…へへ…今の私なんてかまぼこのついていないかまぼこ板みたいなものですよね…」
「…真琴はこんなふうにネガティブになりやすいけど、小説家としては本物だから…気にしないでほしい…ちなみに私は大学教授をしているけど、今はちょっと休ませてもらってる…」
あれから少ししてリビングに呼ばれ、私たちは再度の入室をする。すると先ほどのビーズソファに千代さんが座っていて、その足のあいだに収まるように真琴さんが座っている…まだまだラブラブな恋人同士みたいな距離感で私たちを迎えてくれた。
そして先ほどの反省をするように真琴さんはわずかにニチャリとした笑みを浮かべ、改めて自己紹介をしてくれた…けど、その内容は有名作家としては思えないほどネガティブなもので、千代さんはいつものことのように頭を撫でながら「…大丈夫、真琴はすごい子だからね…」なんて言い聞かせている。
…ちょっと羨ましい。今度私も絵里花とこうして座ってみたいな。
「このたびは到着が遅れて申し訳ありませんでした…私たちの名前は先ほどお伝えしたとおりで、コードネームは私がアセロラ、円佳さんがベイグル、絵里花さんはフロレンスとなっています。お二人ともまだ高校生ですが、すでに数々の任務を達成した優秀なエージェントです。これより事態が解決するまでは24時間体制で二人が護衛しますので、どうか安心してください」
「は、はい…それで、えっと…円佳さんと絵里花さんは、恋人同士…でよかったですか?」
「はい、そうです。まだお二人みたいに結婚はしていないんですけど、いつか同じくらい仲良くなりたいって思っています」
「…あ、ありがとう…その、私も、羨ましいって思ってる…思ってます…」
もう一度ソファに座り、今度は夫婦と向かい合って自己紹介と今回の目的を伝える。美咲さんのよどみない紹介は私たちを本当に優秀だと思ってくれていることがひしひしと伝わってきて、エージェントとして褒められてもあんまり嬉しくないはずなのに、ちょっとだけ耳のあたりがむずむずした。多分これは、嬉しいときの反応なのだろう。
そしてこれから任務についての詳細な説明を…と思っていたら、なぜか真琴さんは私と絵里花のほうをじっと見つめてきて、予想外の質問に軽く戸惑う。けれどその返事についてはよどみなく、そして素直に答えられた。
チラリと横を見ると絵里花も私のほうを向いていて、いつもの彼女らしく照れつつも、これまたくすぐったいことを言ってくれる。それは先日の『続き』を求めたくなるような、甘いささやきでもあった。
「…いい…クールそうな女の子がストレートに愛情を伝えて、ツンデレっぽい女の子が恥じらいつつも嬉しそうに頷く…尊いです…」
「……はい?」
「…真琴、気持ちはわかるけど先に護衛のことについて話そうか…」
「あっ…す、すみません! うう~、私、『百合小説』もよく書くから…尊い組み合わせを見ると、どうしてもメモを取りたくなるっていうか…気持ち悪いですよねごめんなさい…」
「…い、いえ、そんなことないです。私、小説のことは詳しくないんですけど…絵里花と私がそんなふうに見えていたのなら、嬉しいです」
「も、もう、やめて…今から仕事なのに、そんなこと言われると…気が抜けちゃう、から」
「…うふふ。やっぱりお二人を連れてきて正解でしたね」
じっとりと、でも確実に警戒が抜けた声で、真琴さんは私たち二人のことをそんなふうに表現してきた。
…これ、褒められているんだろうか? その辺は小説家らしい感性のない私には理解できなかったけれど、少なくとも悪くは思われていないこと、そして彼女の警戒を取り去れたのなら嬉しいことだったので、苦笑しつつお礼を伝えた。
美咲さんはそんな光景にようやく普段通りの優しい笑顔を浮かべて、それでも「では、ここからは私が説明させていただきますね」と任務についての解説を始めた。