「夕飯ができました。今日はライ麦のパンにビーフシチュー、サラダチキンときのこのマリネにしてみましたけど、いいですか?」
「わあ…すごくおいしそうです! 辺見さんは料理上手ですぅ…」
「い、いえ、褒められるほどのものじゃ…」
橘夫婦の護衛を開始して、一週間と少しが経過していた。
結論から言うとこれまではとくに問題は起こらず、護衛開始当初はピリピリしていた私と絵里花は油断こそしていないものの二人と打ち解けつつあり、こんなふうにのびのびと料理もできるようになっている。
ちなみにこれまでは不安で食欲がなかったこと、ろくに買い物へ行けなかったことで、二人の食事の大半は研究所から送られてきた栄養食だったらしい。だからなのか、絵里花が料理を始めると真琴さんと千代さんは目を輝かせて食べてくれていた。
なお、料理に使う食材はすべて美咲さんが買ってきてくれるため、安全性については問題なし。美咲さんは普段は外で警戒もしてくれているため、室内で過ごせる私たちよりも大変だと思うけれど、本人曰く『お二人がいるおかげで私は雑用係で済んでいるんです』とのことだ。
「…ごめん、辺見さん…今はハウスキーパーも雇えないから、家事までさせて…」
「だから、大丈夫です。私は家事が好きですし、今のところはインシデントも起こってないですから、手持ち無沙汰で…あ、これはその、そういうことが起こってほしいとかじゃなくて…」
「絵里花、大丈夫だから…私の恋人は面倒見がよくて家事が大好きだから、こうして家のことができるのが嬉しいんですよ。ですから、安全なときくらいはお手伝いさせてください」
私と絵里花は料理をリビングのダイニングテーブルまで運び、先に席へ着いていた千代さんは申し訳なさそうに謝ってくる。その口ぶりからこれまでは二人とも仕事が忙しく、家事はハウスキーパーが対応していたことが窺えるけれど、こんな状況で他人を家に入れるなんて難しいのは明白だった。
それでも室内が散らかっていなかったのは、千代さんが休職してでも真琴さんを支え続けていたからであって、自分もつらいだろうにメンタルケアと家事をこなしていた姿勢には頭が下がるくらいだ。
だからこそ、私は今はなにも起こっていないこと、そしてそんな二人を家事という平和な方法で支えられることに内心で安堵していた。口下手なところがある絵里花は謝られると逆にしどろもどろとしていたので、私は恋人アピールをしつつ自然と支える。
この夫婦に対抗するわけじゃないのだけど、護衛の名目で一緒にいるとやっぱり『恋人の先にある絆』を感じ取ってしまい、私も少しでも早く絵里花とそれを芽生えさせたいのか、ついつい言葉数も増えている気がした。
もちろん照れ屋な絵里花は私の言葉に顔を赤くして、それでも「あ、ありがとう」ととても小さな声でお礼を言ってくれる。二人きりだった場合、抱き寄せてキスくらいはしたくなる可愛いリアクションだった。
「…いい…やっぱり『まどえり』はいいです…ううー、最近はスランプだったけれど、ようやく抜け出せそう…今すぐ書きたいです…!」
「…真琴、先にご飯を食べてからね。せっかく作ってもらったのに、冷めたらもったいない…」
「あっあっ、それはもちろん! 私風情のために作ってくれたんです、決して無駄にはいたしません! お腹が張り裂けたとしても全部平らげますのでご安心ください!」
「ちょ、そこまで気にしなくていいですから! それに二人とも小食ですし、余らないように気をつけてますので…で、でも、いつもおいしいって言ってもらえるのは、嬉しいです…」
「…ふふ」
私と絵里花は普通に護衛をしていたつもり…なのだけど、桐生先生からするとその光景は『尊い』らしく、敵に狙われるようになってから陥っていたスランプからも徐々に抜け出せそうになっているみたいで、私たちの任務が思わぬ副産物を生み出す結果になっていた。
本人曰く「次は『クールで情が深い女の子×いじっぱりで世話焼きな女の子』の物語で決まりです…!」とのことで、もしかすると私と絵里花がモチーフになった小説が登場するのだろうか。
そう思ったら…間違いなくこそばゆいのだけれど、いやじゃない。少なくとも、CMCとしてパートナーと支え合っているこの人がスランプから脱する原動力になれたのなら、それは誇らしいことかもしれなかった。
だから私は笑ってしまう。それは少し失礼で、同時に警戒中のエージェントとしては反省すべき行動かもしれないけれど。
それでもこの場にいる全員が同じ微笑ましさを感じてくれていたのか、つられるようにみんながクスクスと笑みを漏らしてくれていた。
*
桐生先生が仕事をするためのスペース、それはリビングの隅っこにあった。
「クールな女の子がその包容力でいじっぱりな女の子の心を溶かし、やがて二人は戻れないところまでお互いに溺れていく…うへへ…最初は相手に合わせているだけだったクールな子のほうがズブズブとハマっていく様子、やっぱり百合はこうでなくっちゃ…」
前と左右を黒いパーテーションで簡単に区切られ、高さ調節ができるデスクにランバーサポートがついた椅子が置かれた場所、それがこの人の執筆環境だった。使っている端末はノートパソコン、いわく「画面は狭いほうがシングルタスクに集中できるんです…」とのことだ。
そんな先生は夢中になると独り言が増えてくるのか、汗ばんだ肌のようなじっとり感のある声でブツブツとなにかをつぶやいていて、パーテーション越しに待機している私はその全容こそ見えなかったけれど、奇妙と言えるほどの熱量が向こう側から伝わってきた。
…もしかすると、先ほどの私と絵里花の様子は想像以上にこの人へ影響を与えたのかもしれない。
「…真琴、徹夜はしないようにね…やっと安心して眠れるようになったんだから、ほどほどで切り上げて…」
「あっ、千代さんありがとうございます! えへへ、小説って筆が乗っているときに進めないと書きたいことを忘れちゃうから…大丈夫です、今日も千代さんと一緒にねんねします!」
「…もう…三浦さんがそばにいるのを忘れないでね…」
「あ゛っ…い、今の『ねんね』は純粋に寝るって意味でして、百合の花が咲いちゃうって意味じゃないですよ!?」
「あ、あはは…わかってます」
ぶつぶつふひふひとタイピング音に混ざって楽しげな声が聞こえてきて、私はそれに対して不気味さよりもやっぱり安堵を覚えていた。
こうして仕事ができる…以前の生活に近い日々を送れるということは、ひとえに私たちの護衛が役立っている証拠だ。これまではターゲットを仕留めて捕縛するばかりだったので、こうした『仕事で感謝されること』なんて機会はなかったから、今になってエージェントなんて立場にやりがいを感じているのかもしれない。
そんなことを思っていたら千代さんがお茶を運んできて、パーテーションの中でなんとも仲睦まじいやりとりが繰り広げられる。あえて仕事場をリビング…解放空間に設置しているのは、仕事中であっても千代さんとの隔たりを作りたくないという真琴さんの意思なのかもしれなかった。
そこまで仲良しだと薄い壁の向こうに私がいるなんてことは忘れてしまうのか、千代さんの困っていそうで困っていない声音と、慌てて言い訳してくる真琴さんの言葉が私に届いた。今となっては『ねんね』の直喩も暗喩もわかるようになってしまったため、私は気遣いになりそうでそうでもない乾いた笑いを漏らしてしまう。
もちろん二人とも怒るはずがなくて、千代さんはパーテーションから出てきたら「…真琴を守ってくれて、ありがとう…」とささやき、絵里花との家事に戻っていった。
「ううう…私、昔からこうなんです…一度妄想が始まるとなかなか止まらなくて、勉強も運動も落ちこぼれ、もちろんエージェントになれるわけもなくて、ずっと千代さんに迷惑をかけてきて…」
「でも、千代さんは真琴さんと話しているときはすごく幸せそうでした。真琴さんも楽しそうですし…その、やっぱり因果に従ってパートナーといるのって、幸せなことですか?」
真琴さんは千代さんが去ったあと、パーテーション越しにそんなことを教えてくれた。表情は見えないけれど、その声は『しょんぼり』という表現がどこまでも似合うもので、きっと本人はそう思っているのだろう。
そして私は、そんな様子を知っていた。自虐というのはいきすぎると嫌みに聞こえるけれど、心から自分はダメだと思っている人…たとえば私の最愛の人はいつも自分を責めていて、そういう人からすれば自虐というのは心からの叫びでもある。
だから私は真琴さんも同じ苦しみを知っている人だとわかって、気休めでもなんでもない言葉を口にできた。視界しか遮らないパーテーションは私の声もたしかに真琴さんへと届けてくれて、向こう側から小さな身じろぎ、椅子の背もたれが軋む音色が聞こえた。
「もちろんです! 千代さんは私と違ってものすごく頭がいいのに一度もえらそうにはしなくて、私にいつも勉強を教えてくれて…文字や言葉に力があるって理解できたのは、千代さんのおかげなんです。だから私も千代さんの言葉みたいに誰かへなにかを伝えられる文章を紡ぎたくて、小説を書き始めました…」
「…そういうの、すごく素敵だと思います」
「あと…あの、笑わないでほしいんですけど」
真琴さんの書く文章は『その場面が思い浮かぶ』と評されてることが多いのだけど、その言葉もまた同じだと思った。
研究所にいた頃の真琴さんは今以上にコンプレックスがあって、きっと自分にはなにもできないと苦しんでいたのだろう。その様子は絵里花とダブって見えた。
けれど千代さんという理想のパートナーがいたおかげで彼女は前へと進むことができて、今は人気小説家として活躍できている。それは絵里花と身近な人たち以外の相手に感心が乏しい私でも、すごく素敵なことだと心から賞賛できた。
でも物語はまだ終わらないように、真琴さんは続きを奏でる。
「…千代さんと仲良くなればなるほど、不思議な夢を見るようになったんです。千代さんとは子供の時から一緒にいて、たくさんの思い出があるんですけど…夢の中だと知らない場所にいて、でも一緒にいる人は千代さんだとわかる、なんだろう…強いて言えば」
夢。それは脳内の情報整理とも、記憶の再現とも、時には過去や未来とも言われる不思議な光景。
もちろん私も見ることがあったし、そこに絵里花が出てくることは度々あったけれど、真琴さんの語るそれは私の経験したことがないものだった。
はずなのに。
「前世、あるいは未来、別の世界線…あっ、自分でも変なことを言ってるってわかってるんですけど、でもそういう小説を書いたことがあるとどうしてもそんな情報を結びつけちゃって…だけど私、信じたいんです。千代さんとは過去も未来も、この壁の向こうにある世界でもつながっていて、それを形にしたのが『因果律』なんだって…因果は私に絆を教えてくれる大切なもの、だから小説にしてみたいって思っているんです」
「…絆を教えてくれるもの…」
因果は過去と未来、ここではない世界でも存在していて、どこにいても同じ人と巡り合わせる次元すら超えた絆。
だからだろうか、私は真琴さんの言葉に「私と絵里花もきっと同じように、いつもどこかで出会っていた」なんて思えて、その見えない光景すら脳内で再現されそうだった。
そして真琴さんはそれを脳内だけでなく小説という形にして、多くの人に届けている…だからこそ、この人の文章は評価されるのだろう。
同時に、因果を否定する連中に狙われてしまうのがやるせないけれど…そのために、私たちがいるんだろうな。
「ああっ、私、また一方的に語っちゃいました…ごめんなさいごめんなさい、昔から千代さんにも『真琴は好きなことだとおしゃべりになるね』って褒めてもらえたから、どうしても!」
「いえ、本当に大丈夫です…むしろ、私はその話が聞けて嬉しかったです。これからは真琴さん…桐生先生の本、もっとたくさん読みたいです。だから私、絶対にお二人を守り抜いてみせますから」
「え…ありがとう、ございます…?」
因果がこんなにも素敵な物語を紡ぐのなら、やっぱり私は守りたい。すぐそばにいる真琴さんたちだけでなく、この世界に存在するすべての因果を奪わせたくはない。
絵里花を守れればそれでいいと納得していた私にそう思わせてくれた真琴さんに対し、パーテーション越しにしっかりと頭を下げておいた。すると向こう側から真琴さんの困惑した返事が聞こえてきて、その直後にお互いが声を出して笑い合った。
*
「…正直に言うと、不安はあったよ…物心ついたときから研究所に育てられて、決められた相手と一緒にいるように命令されたとき、どうして私なんだろって…」
「そうですよね、やっぱり…」
夕飯を終えたあと、私は真琴さんの護衛を円佳に任せ、今は千代さんと一緒に洗い物をしていた。
高級なマンションらしくキッチンには食洗機とディスポーザーが完備されていて、家事の負担は極限まで減らされている。それは羨ましく感じると同時に物足りなさを私に覚えさせて、自分がますます贅沢に不向きな気がしてきた。
なので一人でも家事は余裕だったけれど、「…二人に任せっぱなしだと悪いから…」という千代さんの申し出に従い、二人で洗い物をしつつ雑談を始めたときのことだった。
私の『因果に従いパートナーといるは幸せなことなのか?』といった質問に対し、この人は普段の調子を崩さないぼそぼそとした声で回答してくれる。それはシンクに流れ落ちる水の音にかき消されそうだけど、私ははっきりと聞き取れた。
「…でも、二人で生きているうちに、もっと一緒にいたいって思えるようになって…気付いたら、真琴が大好きになってた…『因果律が定めた相手とは惹かれ合う』っていうのは、統計から見ても正しかったんだろうね…」
「…そうですね。私と円佳も因果を与えられたからこそ、すごく仲良くなれた…」
「…でも、因果律は100%の成功率を約束するものじゃない…」
食器を軽くゆすぎ、食洗機に入れる。食器が擦れるわずかな音に混ざって、千代さんの小さく、そしてはっきりとした声音が私に届いた。
それは見方によっては因果律への疑念にも聞こえるけれど、同時に揺るぎない事実でもあって、政府が意図的に広まらないようにしている情報の一つだった。
「…私と真琴だって、ケンカすることはあったよ。ううん、すれ違い…かな。どれだけ私が肯定してあげても真琴は自分を否定し続けて、それにちょっとだけ疲れていたんだけど…そのときの真琴、仲直りのために何をしたと思う…?」
「…文章が得意だから、手紙を書いてきた…とか?」
「…すごく近い。真琴はね、『自分と私を題材にした短編小説』を書いてきて、その中で私と真琴が結婚してて…それがプロポーズになった…」
「…わぁ…」
千代さんの頬が桜色に染まると同時に、私の顔もぽっと熱を宿した。漏れてしまう声は呆れではなくて、紛れもなく賞賛だった。
…もしも円佳に似たようなプロポーズをされた場合、私なら号泣してその日は会話にならないと思う。
それくらい、素敵だった。そして単純な私は「やっぱり因果っていいわね…」なんて心から思える。
だって私も円佳もこの二人と同じように、因果によって結ばれているのだから。
「…まあ、その…その小説、ちょっと過激なシーンもあったけど…でもね、嬉しかった。もしも私たちがCMCだったとしても、そこでお互いがなにもしなければ…きっと、すれ違ったままだった。だから、真琴が私を選んでくれたのも、私が真琴を選んだのも、お互いの自由意志があった…そう信じてる…」
「千代さん…」
円佳は因果があるから私と出会ってくれて、誰よりもそばにいてくれる。それは事実なのだろうけど。
でも私たちにだってすれ違いはあって、そこから立ち直るべく、毎回必死に知恵を絞り合っていた。
そしてこの人だけでなく主任も言ってくれたように、そこにはたしかに私たちの意思があって…それすらも因果に内包されていたとしても、私と円佳はお互いの感情のまま手を握っていたのだ。
それを教えてくれたこの人たちが殺されていい理由なんて、絶対に存在しない。
「私、絶対にあなたたちのことを守ります。自分の意思で自分たちの因果を守った二人を、私は…っ! 緊急の連絡です、すみません」
だから私は守りたい、円佳以外の人の因果も。
そう思っていた矢先にポケットに入れていた端末が震え、緊急事態を知らせる特殊な通知音が吠えた。
きっとリビングにいる円佳にも同じ知らせが届いていて、何事かと応答したら。
『こちらアセロラ、配送業者になりすました不審者を拘束。現在荷物を──』
そこまで聞こえたと思ったら、『パァン!』というなにかが破裂する音が聞こえて。
私はコードネームで呼び合う決まりも忘れ、「美咲!!」と何度も叫んでいた──。