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第91話「里帰り」

「二人とも、よく無事で…!」

 急遽始まってしまったトレッキングだったけれど、こちらは脱落者を一人も出すことなく、無事に完遂できた。

 美咲さんの見立て通り、敵も山狩りができるほどの人的リソースがなかったのか、あるいは当初から想定していなかったのか、道すらない山林を突き進む私たちに追撃は発生しなかった。

 当然ながら車は放置することになったけれど、美咲さん曰く「回収班の方々に任せましょう…文句は言われるかもですが」とのことで、普段の後始末をしてくれている回収チームの業務は思っていたよりも幅広いらしい。

 そんな文明の利器も使えない環境をかいくぐっての移動は正直に言うときつくて、いくらエージェントとしての訓練で似たような環境に放り込まれたこともあるとはいえ、普段はテクノロジーの恩恵を受けつつ快適に生きている身としては疲労も蓄積する。

 それでも私たちが心折れなかったのは、護衛対象…いや、今となっては私たちを支えてくれる『仲間』となった真琴さんと千代さんがいたからで、そんな人たちを守りたいという意思は、たとえ道なき道に阻まれたとしても折れることはなかった。

 幸いなのは電波の影響を受けないGPSがあったこと、それを利用したオフラインマップが問題なく機能したことで、敵と遭遇しない限りは命の危険性も少ない。クマやイノシシに遭遇すると危ないだろうけど、悪意を持つ人間に比べたら可愛いものだし、私たちの武器ならそれらも対処可能だ。

 真琴さんと千代さんに苦労させるのは忍びないけれど、彼女たちもまた文句を一切言わず気丈に歩き続けてくれたことで、私たちはついに故郷とも言える研究所へ到着して。

 念のために全員が救護室へと連れ込まれ、清水主任が血相を変えて会いに来てくれたのだ──。

「主任、お待たせしました…護衛対象だけでなく、私たち全員無事です。ご心配をおかけして、ごめんなさ」

「あなたが謝ることじゃないでしょ! 何より、謝るのは私たち…こんなにも危険な任務だったのに、ろくな応援を回すこともできなくて…私はいつも『CMCはモルモットじゃない』なんてえらそうに言ってたのに、なにも…できなかった…」

「そ、そんなことないです…主任はいつも私や円佳に優しくしてくれて…あの、心配してくれてたの、わかってたつもりです…」

 簡単な問診を受け、とくに負傷していないと判断された結果、それぞれが解放されて自分に割り当てられた部屋へと戻っていた。

 でも絵里花だけは「円佳が終わるまでは絶対に離れない」って話していて、問診中もずっとそばにいてくれた。そしてそれが終わった直後に親代わりのようなこの人が来てくれて、ずっと外で待っていたのだろうかという申し訳なさが刺激されたのだけど。

 その申し訳なさに従って謝ったら、逆に謝罪された。その歯を食いしばるような音色には絵里花ですらたじろいで、私以外の相手には珍しい素直な様子で感謝している。そうした様子は聞き分けの良すぎた娘と優しすぎた母親みたいで、刹那的に微笑ましさを覚えてしまった。

「…私も絵里花と同じ気持ちです。主任はいつも私たちのことを大切にしてくれていて、それで…こんなふうに待ってくれているって、信じていました…だから」

 私たちがここに戻ってきた理由、それは間違いなく任務だからだ。

 CMCとして与えられた使命がなければ好き好んで戻る理由もなくて、今となっては絵里花と暮らすあのマンションのほうがよっぽど居心地がいいのだけれど。

 それでも…こうして私たちを、研究対象ではなく『三浦円佳』と『辺見絵里花』という人間として待ってくれている人がいるという事実に対しては、どうしても胸の奥が熱くなった。

 この感触の正体は…情報として知っている。それは懐かしさとも恋しさとも表現できて、人が故郷に対して抱く感傷。むず痒くもいやなものじゃなくて、鼻の奥がツンとなる、瞳が潤ってしまう現象が私から適切な言葉を吐き出させた。

「…ただいま戻りました、清水さん。私たちを心配してくれて、こうして会いに来てくれて…ありがとう」

「…円佳、絵里花!! ごめんね、ごめんね…!!」

 もしも私たちがCMCでなかったら、主任とはきっと何の接点もなかった。それはつまり、今も『研究者』と『CMC』という関係性が私たちに横たわっていて、これは一生残り続けるものかもしれない。

 だけど私と絵里花を幼い頃から見つめてくれていた瞳の色は、いつも無機質な研究所の中であたたかに輝いていた。私の中の思い出は大半が絵里花で埋め尽くされていて、とくに幼い頃は絵里花以外がほとんど思い出せそうになかったけれど。

 でも、この人…清水さんの目は、いつだって頭に浮かべられる気がして。

 涙を堪えきれずに私と絵里花を同時に抱きしめてくる彼女に対し、私も久々に絵里花以外の人のために涙を流した。

 絵里花もまた同じように「ただいま…」とこぼし、私と同じように瞳の潤いを隠せなかった。


 *


「…ごめんなさいね、本当に。あなたたちも疲れているのに、私は…ダメな大人だわ」

 私たちの瞳の潤いが落ち着く頃、主任はそっと離れて悩ましい様子で自戒する。けれどもほころんだ口元にはどうしようもないほどの安堵が宿っていて、私たちもまた同じように目元を拭って笑い返した。

 ふと、思う。「ああ、帰ってきたんだな」と。

 私と絵里花の住まいは離れているというのに、主任の放つ柔らかさは私たちに自宅のような安心感を与えてくれて、自分たちはここにいてもいいのだと思わせてくれる。

 もちろん、帰れることなら帰りたい。あのマンションに戻り、学校に通って、クラスメイトたちとささやかな交流をして、絵里花と家に帰って…自分たちがCMCであることを忘れられるような、普通の恋人同士として振る舞える場所にいたかった。

 それをするにはどうしても、この研究所というのは無機質すぎる。同時に、向けられる視線も研究対象に対する無遠慮なものが多くて、私はそれらから絵里花を離してあげたかったのだ。

 でも、主任は違う。強化ガラス越しに向けられるような冷たさは含まれていなくて、人肌らしいぬくもりをたしかに伝えてくれていた。

「本当ならすぐに休ませてあげたいけれど、どうしても伝えないといけないことがあるわ…単刀直入に言うと、今回の任務に際しては『内通者』がいる可能性が高いと判断しているの」

「内通者…裏切り者が、研究所内に…?」

「ええ。自分で言うのもなんだけど、私たちのいる場所は日本で最も秘匿性の高い組織よ。そんな組織が立てる作戦の目を盗むようにして実行される敵の追跡、攻撃…どれもこちらの動きを読んでいるとしか思えない。敵対組織にだって優秀な人間はいるのでしょうけど、それにしたって今回の件は異常よ」

「たしかに…」

 いつまでも浸っていたいリビングのような空気を諦めるように、主任は一呼吸置いてから重要な報告を聞かせてくれた。

 残念ではあるけれど、驚くほどでもなかった。私も絵里花もその報告を聞いた直後には顔を引き締めたけれど、そこに驚愕といった色合いは含まれていない。

 むしろ研究所側がその可能性にたどり着いた点に関しては、ようやくこちらも覚悟を決められるとでもいうべきか。

「あなたたちを危険にさらしたのもそうだけど、内通者たちに付け入らせたことも私たちの失態ね…今のところスパコンには不正なアクセスもないし、セキュリティチームもスタッフたちの調査を進めてはいるけれど…今のところ、敵の足取りは掴めていない」

「…そうなると、主任クラスには裏切り者はいない感じでしょうか?」

「あら、もしかして私も疑われてる?」

「あっ、そんなつもりは…」

「ふふっ、ごめんなさい冗談よ…主任研究者にはスパコンへのアクセス権限も多めに与えられているから、その分だけ監視の目も厳しいわ。もっとも、やましいことがなければ見られていることを意識する必要もないのだけど…そういった点も含めて、この研究所の心臓部分にはまだ付け入る隙はないはずよ。なにより…」

 重要な話ではあるものの、主任は私たちに過度の緊張を与えないためか、私の質問に対しても軽い冗談──だけど反応に困る──を交えながら対応してくれた。

 もちろん私たちがこの人を疑っているはずもなくて、仮に主任が敵勢力であった場合、もっと的確な攻撃ができたはずだった。それこそ、私たちを救ってくれたドローンの派遣すら阻止されていたかもしれない。

 もちろん主任たちもそういう危険性は織り込み済なようで、きっとこの人も私たちの想像を超えるような厳しい監視に晒されているのだろう…それをおくびにも出さずいつも優しく接してくれるあたり、今になって主任のストレスレベルが心配になった。

 …これ以上、白髪が増えないといいんだけど…。

「あなたたちだから言うけれど、スパコン…因果・京は、いざというときは自分で自分を守れるはずよ」

「? えっと、ファイアウォールとかが優れている…みたいな感じでしょうか?」

「そうね、わかりやすく表現すればそうなるだろうけど、詳しいことはもう少ししてから…うん、あなたたちが『結婚』するときに教えてあげようかしら」

「けっ…き、気が早いです! わっ、私と円佳は、その、まだ…」

「まだ? ふふふっ、まだ、ね…だけどあなたたち、前の検診の時よりもずっと仲良くなっているように見えるわ。私はその日が楽しみだけど、結婚したらもっと疎遠になるだろうし、少し寂しくなるわね…」

「…もう。主任、あまり絵里花をからかわないであげてください」

 因果律研究所に備わっている専用スパコン、因果・京…それは一施設が保有するにはあまりにも高性能で、同時に世間どころか世界相手にすら秘匿を続けられていて、ここで育った私たちですら知らないことのほうが多い。

 私たちに貸与されているパソコンも十分高性能でセキュリティにも優れているけれど、規模から考えてもそういう次元の話ではないのだろう…同時に、私はそういうガジェットに強い関心があるわけでもないため、主任の話の重要性には首をかしげるしかなかった。

 だけど…私たちが結婚するときは、その詳しい正体についても教えてくれるらしい。それは結婚祝いとしては色気がなさそうに見えるけれど、この人がそんな気の利かない贈り物をするとも思えなくて、もしかしなくても私と絵里花はとんでもない『世界』を垣間見られるのかもしれなかった。

 そう思ったら…うん、私と絵里花が一緒にいる理由が、また一つ増えてくれた気がした。

「大丈夫です、私と絵里花は何があっても離れません。絵里花との恋人関係、その先にある結婚…それだって、絵里花と一緒にいる結果でしかないって思っていますから。そんな当たり前の先に主任もいてくれること、それで京のことも聞かせてくれるのを…願っています」

「…大きくなったわね、円佳。私には子供がいないし、選び続けてきた選択肢に後悔もないけれど…あなたたちに出会えたこと、それには大きな意味があることだと信じているわ。だから、私にあなたたちの因果を…これからも守らせて」

「…はい。私も円佳と同じ気持ち、主任のことが…大切です。だから、その…け、結婚、したときは…『お母さん』って、呼ばせて欲しい…です…」

「…もう。今は気が抜けないのに、どうしてそんな…泣かせるようなこと、ばかり言って…」

 私も一応は女であって、『好きな人との結婚』については大きな意義があると思っている。ましてやその相手が絵里花なのだから、今からその瞬間が待ち遠しい。

 絵里花がウェディングドレス…あるいは白無垢を着て私の隣に立ち、リングを交換して、誓いのキスを交わす…あ、やばい…私も泣きそう…。

 それはともかく、そうしたまばゆい未来が待っていることは当然でもある。私と絵里花は因果律によって認められた強い結びつきがあって、同時にそれを自分の意思によって受け入れ、そしてもっと強いつながりにしていくことを選んだのだから。

 そんな当たり前を今一度誓うように告げると、主任もまたその因果を信じて、私たちの肩を撫でるようにぽんぽんとしてくれた。それはとっても嬉しいことであるはずなのに、どうして私の瞳はまた潤っているのだろうか?

 でもその答えを教えてくれたのは、やっぱり私の最愛の人だった。絵里花は私以外には滅多に見せない優しい微笑みで、私たちを幼い頃からずっと守ってくれていた人に対し…私と絵里花がこの人に望んでいたことであろう、その形を花束のように捧げた。

(…お母さん、か…私はその人を知らない、そしてきっとこれからも知ることはない…でも、それは悲しいことじゃないんだな)

 これまで私がなんとなく伝えられなかった、主任への望み。

 そしてそれを最初に伝えてくれたのは、いじっぱりで、恥ずかしがり屋で、素直になることが苦手な…それ以上に愛と勇気にあふれた、私の最愛の人だった。

 主任は確かにそれを受け取って、でも堪えきれないほど重い贈り物を喜ぶように、再び両目に涙を宿して私たちを同時に抱き寄せた。

 お母さん。私も絵里花も声には出さなかったけれど、確かにそう呼んでいた気がした。

 それからもう少しのあいだだけ三人で音もなく涙を流し続け、最後に主任は「ゆっくり休むのよ、二人とも」と母性にあふれる声音で気遣ってくれた。

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