「個体番号、003-A。検査結果は異常なし、多因果型CMC…『
「うーん、あたしには莉璃亜っていうカワイイカワイイ名前があるんだけどなー…それに真面目にお仕事をこなしているんだから、そろそろ信頼してくれてもいいんじゃない?」
「ああ、信頼していますとも…エージェントとして優秀、我々の実験にも適合、研究対象としてはこの上なく素晴らしい」
「…そーですかそーですか」
手術室を思わせる無機質な部屋の真ん中、莉璃亜は病衣のような服を着てベッドに横たわっていた。腕や頭には様々なパッドが取り付けられ、そこから伸びたケーブルはいくつもの計器とつながり、様々な数値や文字が表示されている。
それらは莉璃亜にとってあまりにも退屈な情報の塊でしかなく、彼女は退屈しのぎに傍らへ立つ女性研究者へ声をかけたところ、計器の駆動音と変わらないような機械的な声で返事をされた。
まるで道化師のようにどんな場面でもおちゃらけてみせる莉璃亜だったが、その研究者の反応に対しては体の芯が熱を失ったように静まりかえり、お互いに無関心であることを伝え合うように低い声で返事をしていた。
「被検体の様子はどうだ?」
「もちろん順調です。個体番号005-M…いえ、今は三浦円佳ですが、彼女の近くに配置したのはやはり英断だと思います。いくら我々の技術が優れているとはいえ、三浦の因果の強さは目を見張るものがあります…それでいてエージェントとしても優秀、ならば『相応のパートナー』をつけるほうが今後の研究のためになるでしょうに」
莉璃亜が返事をした直後、また別の女性…より年齢を重ねた、けれどもすでにいた研究者と変わらない冷たい声をした人間が入室してくる。莉璃亜はそちらに一瞬だけ視線を動かして、けれども何の興味も持てないように天井と見つめ合った。
しかし、それでもその名前…運命を感じてしまった少女に関する情報が飛び出してきたと思ったら、莉璃亜は身じろぎ一つせずに聴覚だけそちらに集中させた。なお、彼女の心拍数を計測していた機器は一瞬だけ急上昇を見せたものの、バイタルに異常がないとわかっていたのか、研究者たちはほとんど関心を向けなかった。
「仕方ないだろう、三浦も辺見も清水主任のお気に入りなのだからな…まったく、あの人は優秀なのにCMCに対して肩入れしすぎる。我々がその気になれば人生すら操作できるようになるはずなのに、やれ『因果はきっかけに過ぎない』だの『因果律は幸せに満ちた人生を支えるためのもの』だの…もっと自分たちの力について自覚してもらわんとな」
「まったくですね…今は研究所に『裏切り者』が入り込んでいるみたいですし、清水主任がそうなのではないですか? 彼女は因果律の研究に対して熱心な割に、研究所の方針について反対意見を述べることが多い。その鬱憤を晴らすために情報をリークしているのでは?」
「あり得るな…セキュリティチームに具申してみるか」
清水主任。莉璃亜はその名前を知っていた。
というよりも、『よそ者』と呼ばれて信頼されていない彼女を危険な任務へつけようとしたとき、真っ先に異議を唱えたのが清水だった。
『彼女もまた人類を幸せにするため、そして彼女自身を幸せにするために私たちの研究に付き合ってもらっています。彼女が因果律の新しい可能性を切り開くというのなら、ほかのCMCと同様に保護を進めるべきです』
清水主任の所属する研究チーム、『
因果律の発展に尽力するのは同じである一方、CMCの側に立つことが多く、たとえ経歴などに懸念点を持つ莉璃亜であっても、仲間である以上は丁重に扱うべきだ…との主張をしていたのだ。
ゆえに自分を担当する研究者からこうしてしばしば愚痴を聞かされており、否応なくその名前を覚えてしまった。そしてそんな情報を断片的に集めると、それだけで悪い人間ではないことが伝わってくる。
(…いいなぁ、円佳ちゃんと絵里花ちゃんは。そんなにも優しい人に面倒を見てもらえて、小さな頃から最高のパートナーと一緒にいられて。二人からすると、あたしは…実験動物みたいなものかな? あははっ、笑えてくるね)
もちろん、顔は笑わなかった。笑い声も漏らせなかった。
最初に計画を聞かされたとき、莉璃亜はとても楽しみにしていた。それは研究対象となることで矯正施設から解放されるのが嬉しかっただけでなく、単純にその計画…自分に与えられる因果に興味が湧いたからだ。
『お前の因果は【複数と同時につながれる可能性】だ。今は都合のいい穴埋めが関の山だろうが、CMCエージェントは欠員も珍しくないからな…研究を続けていけば役立つこともあるだろう。複数の相手との関係も辞さないお前にはぴったりじゃないか?』
そうだ、とてもぴったりじゃない?
だから莉璃亜は二つ返事で応じて、同時に禊のためにエージェントとしても戦うことになったが、どちらにも後悔はしていなかった。
いや、違う。少なくともこの瞬間、莉璃亜の心の中には曇天が続いたようなやるせなさが満ちていた。
「…はぁ…つっまんな…」
それは意識せずに漏れ出した、莉璃亜の揺るがない本音だった。
つまらない。この人たちの会話も、自分への扱いも、全部が。
あたしはこんなにも楽しい日々を過ごそうとしているのに、口を開けばただただ研究。しかもその研究だって楽しんでいるようには見えなくて、ただ満点が欲しくてテスト勉強を頑張るだけの、結果の先を見ているとは思えない頭でっかちにしか思えなかったのだ。
だから。毎日のように、考えてしまう。
もしも円佳ちゃんのパートナーがあたしで、ずっと前からあたしと出会ってくれていたのなら?
この人たちは円佳ちゃんにもっと優秀なパートナーをあてがいたいみたいだし、今からでもそれは叶うんじゃないの?
…やっぱり、つっまんないの。
「…こいつの経歴もなかなかに怪しい、任務の最中に敵と通じているんじゃないのか?」
「気持ちはわかりますが、そんなのは不可能ですよ。003-Aにはエージェントになった直後から十分な監視の目を向けています、裏切りなんてあり得ませんよ…そんなことをすれば、今度こそ『実働部隊』が動くでしょう」
「ふふっ、くわばらくわばら…軽率な発言は控えないとな」
この人たちを最大限利用して、そしてあたしが円佳ちゃんの隣に立つことができたら?
それを想像すると、莉璃亜はようやく薄ら笑いを浮かべた。面白いはずがない、それどころか…あまりのつまらなさに、一周回って笑えたのだ。
常軌を逸するほど面白くないお笑い番組を見た場合、こんな気持ちになるのだろうか?
(…あたしはここだよ、円佳ちゃん…約束してくれたよね…? 二番目でもいいから、あたしも愛してくれるって…)
その一方的な約束を取り付けたときですら、キミは曖昧に、だけど包み込むように笑ってくれた。
だからあたしは忘れない、そして信じている。
莉璃亜はそれ以上は研究者たちから聴覚を遮断し、やがて視界も投げ捨てるように目を閉じた。
*
(うーん、あの部屋から出てきても誰も近寄らない…アイドルってやっぱり近づきがたいオーラが出ちゃうんだねぇ…)
無機質な部屋で冷たい検査を終えてから制服に着替え、莉璃亜は研究所内を歩く。床も壁も清潔な白で統一され、廊下では縦長で大きなプリンを思わせる形状の警備ドローンが行き来し、莉璃亜は改めて「どうやってこんなところに敵さんが入ってくるんだろうねぇ?」と感じる。
そんな働き者であるドローンをすれ違いざまに軽く撫でてみたら、金属製のボディが生み出す冷たさが伝わってきた。それに対して先ほどの研究室を思い出した莉璃亜は「冷たい男の子はモテないぞ!」と文句を伝え、鼻歌交じりに歩き続ける。
「検査も終わったし、射撃訓練場で勝負しない? 勝ったほうがジュース奢りで!」
「ええー、やだよいっつも負けてるし…」
あてもなく散歩をしていたら代わり映えのない景色が続き、こうなったら円佳と絵里花の部屋に押しかけようか…なんて思っていたら、ようやく人間とすれ違った。
その二人はどちらも少女、制服は莉璃亜と異なるものを着用している。おそらくは担当区域の異なる学生CMCであると悟り、莉璃亜は努めて明るく手を振りつつ、まるで友人との再会を祝うように名前も知らない二人へと声をかけた。
「お二人さん、射撃訓練をするんならあたしも付き合うよ! あたしは射撃訓練でもトップクラス、一緒に練習すればもっと強くなれるよっ」
「あっ、あんた…よそ者の…」
「あっ、こらバカ!…ご、ごめん、わたしたち、そんなに上手くないからさ…勝負になんないし、別の子に声かけてくれる?」
「ええー、つれないんだから…でもしょーがない、強すぎるのもまた罪ってね☆ じゃあね、また今度!」
ありゃりゃ、ここでもその呼び方かぁ…。
莉璃亜は一瞬だけ自分の笑顔が垂れ下がりそうになるのを堪え、やっぱり最後まで明るく二人の横を通り抜ける。あの呼び方は研究者たちから影響を受けたのだろうか、そんなことを考えていたら。
「あいつ、幼い頃から訓練を受けたわけでもないのにめちゃくちゃ強いんだよ…あんなやばい奴に『よそ者』とか言って怒らせちゃったらどうすんの!」
「ご、ごめん…私も怖くなって、口が滑った…」
(…はぁ…女の子は陰口が好きだけどさ、そういうのは聞こえないところでやってよぉ…)
程なくして莉璃亜の後ろから隠す気のないひそひそ話が聞こえてきて、それを誤魔化すように彼女は少しだけ大きな鼻歌を再開した。
その旋律は底抜けに明るい、アイドルソングを思わせるアップテンポだった。だというのに莉璃亜の笑顔は徐々に陰りを見せてきて、今になって自分の生きるべき世界は『外』、ここは自分がいていい場所じゃないと痛感させられる。
『──、こんなことしかできなくてごめんなさい…でもあなたなら、きっとどこでも愛されるだろうから。ここから先、【外の世界】、光の当たる場所…あなたをそこに送り出すこと、それが私にできる唯一の…母親らしいことだから』
在りし日の記憶、母親に呼ばれた『本当の名前』と一緒に捨てたもの。
どうして今になって思い出したのかと、莉璃亜はほの暗い自分の思考に耐えられなくなって、ふらふらと食堂に向かった。
そこはあの日、円佳と出会った場所。正確にはもう少し前に目を合わせたのだが、お互いの存在を認識したのはここが初めてだった。
そして今は食事時ではないこともあり、利用者はまばらだ。その利用者たちも飲み物片手に一休みしている姿が目立ち、莉璃亜を見た瞬間にわざとらしく目を逸らす者、連れ合いと何やら話し合う者、そそくさと逃げ出す者…それはまるで、研究所を疑心暗鬼に導いた者…内通者を見る目だった。
(あーあ、有名人はつらいね…前からこういう目には慣れていたはずなのに、今はとくにつらい…あはは、失恋、したせいかな…)
ママ曰く、あたしは誰にだって愛される子らしい。当然だ、こんなにも可愛くて、強くて、正しくて…何より、たくさんの人を愛せる女の子なのだから。
そんなあたしを振った人、円佳ちゃん。でもそれは諦める理由にはしなくていいのに、けれどもあたしは…多分、傷ついている。
でないと、こんなにも胸の奥が痛みに疼かないから。ちょっと悪いことが重なっただけでこんな気持ちになってしまうなんて、全部全部…円佳ちゃんのせいだ。
「…そうだよ、円佳ちゃんのせい…ならさ、責任、とってよ…円佳ちゃん、あたしの『共犯者』なんでしょ…?」
「早乙女さん、となり、いいかな?」
女の子はつらいとき、わがままになってしまう。
だから莉璃亜は自分勝手にその人の名前を呼び、あるはずもない責任を押しつけ、机に突っ伏して小さくぼやいた。
あの日と同じカフェオレを購入し、その優しい香りに慰められながら、届くはずもない名前を呼んだのに。
どうして、キミは。
「…へ? 円佳ちゃん? なんでここに?」
「いや、私も検査が終わってちょっと暇だったから…絵里花はまだ時間がかかるし、少しここで待とうかなって思って。そうしたら早乙女さんが突っ伏していたから、ちょっと気になったんだけど。邪魔だった?」
「う、ううん! あはっ、円佳ちゃん、案外寂しがり屋さんなのかにゃ~? それとも、今になってあたしの魅力に気付いたとか?」
「早乙女さんは前から可愛いとは思うけど…あはは、元気ならよかったよ」
円佳もまた同じようにカフェオレを手に持ち、そして莉璃亜の隣に何の気負いもなく腰掛けた。
すると莉璃亜の心はこれまでにないほど回り始め、その中心部にあった星は引力を失ったように様々な感情を放り投げて、目まで回ってしまうような感覚に包まれる。
あたしは早乙女莉璃亜、愛されて当然の可愛い女の子…だというのに。
(なんであたし、可愛いって言われて…こんなに胸の奥、ドンドコドンドコ言ってるのぉ…!?)
その反応は莉璃亜にとって、あまりにも未知のものだった。
自分は可愛いから他人をドキドキさせることはあっても、自分がドキドキすることなんて滅多にない。それが可愛い女の子である理由で、今だって、当たり前のことを言われただけなのに。
なのに、あたしは。この胸のリズムを、支配できなかった。
「ふう…やっぱり私、外のほうが好きだな。今は仕方ないとはいえ、護衛の必要がなくなるまでは警戒を続けないといけないから戻れないんだよね」
「…そうだね。あたしもここ、あんまり好きじゃないな…円佳ちゃんも知ってるでしょ、あたしの扱い」
「いや、実を言うとあんまり…私、自分や他人がどう見られているかとか、ほとんど関心なくて」
「遠回しにあたしへ関心がないことを伝えるのはやめよう? 泣いちゃうよ?…ま、あたしなんて所詮は『よそ者』だしね? そーいう目がさ、今になってちょっとやんなってる感じ…」
いつもの莉璃亜であれば、こんな気持ちを覆い隠すように笑っていただろう。
しかしうるさいままの胸の音を消せないように、今の莉璃亜は言葉を隠せない。
愛されているはずのあたしにはあり得ない状況、それを自覚して弱音を吐いちゃうなんて。
莉璃亜はもう一度自嘲気味に笑おうとして、円佳にじいっと見つめられたことで続きは口にできなかった。代わりに出てきたのは、さらなる弱音だった。
「…だから、円佳ちゃんも…一緒にいると、裏切り者を疑われるかもよ? いい機会だし、あたしと距離を置く? それなら、あたしは」
「大丈夫、私は信じてる」
「…え。円佳、ちゃん?」
お願いだから、あたしの本音を見ないで。
お願いだから、あたしを助けて。
相反する気持ちをコントロールできなくなった莉璃亜はただ目の前にある光明だけを掴むように、円佳へ手を伸ばしたら。
円佳は机の上に置かれた莉璃亜の冷たい手を温め直すように、力を入れずに握っていた。
「私、大切な人がどう思うか以外はどうでもいいよ。早乙女さんは目立つから悪く言われやすいのかもしれないけれど、私はちゃんとあなたを見ている。一緒に過ごしてきて、私たちを何度も助けてくれて、いつも笑わせてくれたあなたは…絶対に裏切るわけがないって信じてる」
「…円佳ちゃん…」
「…あ、ごめんね。私、前のデート…お出かけであんなこと言ったのに、咄嗟に手を握っちゃった。でも、その…早乙女さんはね、大切な人なのは間違いないから。私たちの仲間で、クラスメイトで…それで、友達だって思って」
円佳ほどのエージェントであれば、相手の急な動きに対応して回避や反撃を取ることも難しくない。
しかし彼女は、動けなかった。なぜか?
それは言葉通り、莉璃亜を信じていたからだった。
だから莉璃亜が衝動的に頬へキスをしてきたときも、円佳はされるがままだったのだ──。
「…!? ちょっ、早乙女さん!?」
「…いーっだ! 円佳ちゃんの女たらし! 振った女に粉をかけようだなんて、悪い人なんだから!」
「いや、今のはそういうのじゃないってわかってたでしょ!?」
「わっかんないよ! だから!」
そうだ、わからない。
これからこの人とどうなるか、早乙女莉璃亜にはなにもわからない。
自分から振った相手に対して、運命のようなタイミングで手を差し伸べ、かつて目指していた場所へと連れて行ってくれる…そんな人のことなんて。
わからない。だからこそ、莉璃亜は…楽しくてしょうがなかった。
「前も言ったとおり、あたしは諦めていないからね! 円佳ちゃんがあたしを欲しがるとき、あたしもまた円佳ちゃんを欲している…それを忘れちゃダメだよっ!」
んべっと舌を出し、莉璃亜は挑発的に笑う。そこに先ほどまで感じていた退屈さは消えて、ただ未来への可能性が感じられた。
それはまるで、自分へと与えられた因果のように。
今も抗議してくる円佳に対し、莉璃亜は終始ご機嫌にあしらっていた。