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第93話「私たちはここにいた」

「円佳、起きて。そろそろ朝食の時間よ」

「う〜ん…絵里花、おはよう…」

 私にとっての一日は、絵里花のモーニングコールによって始まっていた。

 ちょっと怒りっぽいところもある彼女だけど、私の前だと冬の朝日を思わせるような優しく穏やかな声で語りかけてくることも多くて、とくにこうやって起こしてくれるときはその傾向が強かった。

 その言葉に目を開き、見慣れた天井を見つめた…はずだけど、それは手を伸ばせば届きそうになるほど近いように、まだ私と絵里花はあのマンションに戻れていないことを再確認する。

「本当ならもうちょっと休ませてあげたいけど、学校に行けないあいだは『因果の園』で勉強と訓練をしないといけないから…立てる?」

「うん、もちろん大丈夫。ここ、なんだかんだで寝るだけなら快適だし…自宅のベッドのほうが気に入ってるけど」

「それには同感ね…あなたがいてくれるだけで十分だけど、私も早く帰りたいわ」

 身を起こし、絵里花に微笑みかけてから、私はのそのそとベッドから降りる。そこは自宅にあるようなセミダブルのベッドではなく、壁の中に設置されたアルコーブベッドで、過酷な訓練のあとに身を休められるようマットは非常に寝心地がいい。しかもカーテンは遮光タイプであるため、これを閉じれば寝床は常世に包まれる。

 だからその気になれば私は昼くらいまではぶっ通しで眠れたのだろうし、研究所に戻ってきてからは真琴さんと千代さんにもより厳重な警備があてがわれることになったのだから、家に戻れるまではダラダラゴロゴロと過ごせそうなものだけど。

 しかしながら、実家とも言えるここは私たちにそんな怠惰を許すはずもなくて、むしろこの機会だからといわんばかりにエージェントとしての訓練と教養を再度施すべく、因果の園に通っていた頃と変わらない生活ルーチンを求めてきたのだ。

「…私たちさ、すっかり『あの家』が自宅になっちゃったよね。あそこだって研究所の息はかかってるけどさ、なんだろう…それでも『私と絵里花の家』って気がするんだ」

「…うん。ここのほうが安全だとはわかっているけれど、そうであっても…私は、あなたと二人であそこに戻りたいわ。それで、ずっと…二人だけで、生きていきたい」

「…絵里花」

「円佳…んっ」

 研究所の寮で暮らしていた頃も、マンションで暮らし始めてからも、私と絵里花はいつも一緒だった。そしてそれはとても幸せなことで、住む場所が変わってもそこにある幸福は変わらないのだろうけど。

 だけどあの頃、ここで暮らしていていたときよりも、私と絵里花は確実に前へと進んでいる。

 それを再確認するように、私はベッドから降りて絵里花にキスをした。触れる唇からは恋人の感情も伝わってくるようで、私の心はいつだって震える。

 私たちはここにいた、それは無機質な思い出ばかりだけど。

 こうしてキスができるようになったら、こんな場所であっても素敵なもので満ちていく気がした。


 *


 研究所内の学校施設、因果の園。ここは研究所のある本棟と併設されており、主にCMCが教育を受けるための特殊な教育機関となっていた。

 CMCには私たちのように高校進学を機に外へと羽ばたき、そして自分たちの存在でもって因果律の素晴らしさを伝えていくという役割を果たす人が多い。一方、清水主任のように研究者を志す人は一切ここから出ずに高度な教育を受けられるよう、外の世界でいうところの大学院…それも因果律関連については、隠れた最高学府と言ってもいいレベルになっていた。

 もちろんCMCはエージェントとして育てられる生徒も多いように、単なる勉学だけでなく特殊な訓練を受けるための設備も豊富にある。そう考えた場合、因果の園は『幼年から研究者まで、果てはエージェントを育てることも可能な軍学校』とでも言うべき様相となっていた。

「ほとんど自習みたいなものだったから、結構早く終わったね」

「そうね。ここで使っている教育用AIはスパコンが作成したものだから、教え方が上手いのよね…ちょっと褒めすぎる気はするけれど」

 因果の園では中等教育までは人間がメインに、それ以降はAIがメインで教えてくれるようになっている。なんでも『因果律は人間しか持つことができない奇跡の絆』であることを理解させるため、AIも予習や復習、あるいは補足といった面でフル活用しているけれど、生身の人間から教わることでより因果を身近に感じられるようにする…なんて名目らしい。

 そんなわけで、一時的に戻ってきた私たちは図書室と一体化した自習室に向かい、そこにある教育用コンソールを使って研究所側が用意した課題をこなすことになっている。CMCのパーソナルデータをほぼ網羅しているAIがマンツーマンで教えてくれることもあり、研究所曰く『単純に勉強を教わるだけなら人間の教師はもはや不要』というレベルらしかった。

 事実、私と絵里花は朝食後に与えられた課題をこなしており、これらは昼までに終わらせれば良かったのだけど…AIの手厚いサポートのおかげで、昼前にはすべて完了した。

 そんなわけで自由時間が生まれた私たちは久しぶりに学び舎を見学すべく、二人並んで因果の園を歩いている。

「あ、ここは初等部の教室だね…ほら、小さな子たちが授業を受けてる」

「本当ね…この頃の円佳、たしか今よりも無邪気というか、よく笑っていた気がするわ。今はすごく冷静で格好いいけれど、あの頃は天真爛漫ですごく可愛かったわね…」

「…えーっと、褒められてる、よね?」

「もちろんよ。私、子供を作るなら…絶対に円佳似の子がいいわ。できるだけ私に似ないで、みんなに愛される子になってほしい…って、ごめんなさい、変なこと言って」

 研究所に併設されているだけあって、因果の園も学校施設というよりは『研究所の教育区画』とでもいうべき雰囲気が強い。

 相変わらず白い壁と廊下が続く校舎内は病院にも見えてしまって、清潔ではあるものの落ち着かない。窓の数も多くはないため、聖央高等学校の開放的な校舎に慣れているとより一層圧迫感を覚えた。

 それをさらに強調するのが施設内を巡回する警備用ドローンの『セントリー・コーン』で、直径50cm、高さは90cmほどある上がやや平らな円錐形のそれは、上部に搭載されたセンサーアレイで不審者を警戒し、全方向ホイールによる滑らかな動きで何度も私たちとすれ違っていた。

 それでもふと覗いた教室ではまだ小さなCMCたちが何らかの授業を受けていて、その様子を目立たないようにこっそりと覗いていたら、どうしてもかつてここで学んでいた自分たちの姿がフラッシュバックする。

 絵里花の言うとおり、これくらいの年齢の私は今に比べれば表情豊かで感情も結構素直に出していたし、まあ、絵里花に気に入ってもらえるくらいには可愛かったのだろう。

 そして母性豊かな絵里花はそんな子供たちを見ていると、自分も『未来』を授かることを願うように、聖母のごとく柔らかに将来の展望を口にした。

 それは本来であれば女同士だと叶わぬ願いだったけれど、因果律は同性との絆を導き出すこともさほど珍しくないように、『性別の組み合わせに関わらず子供を迎える方法』というのは急速に進化していった。もちろんこうした取り組みにおいても、因果律研究所が大きく貢献している。

 そんなわけで私と絵里花の遺伝子を受け継いだ子供を作ることも可能で、もっと言うのなら私か絵里花にその奇跡を内包することもできるわけで…子供たちを優しく見守りながら自分のお腹にそっと手を添えた絵里花は、すでにそこへ私との未来を見いだしているようにすら感じた。

「…でも、私は絵里花に似ている子がいいな。絵里花に似たらさ、ちょっと不器用で優しすぎるから苦労するかもだけど…それでも何度でも立ち上がって、そして大切な人のために頑張れる人になるだろうから」

「…も、もう…自分でも気が早いってわかってるのに…あなたにそんなこと言われると、その、『欲しく』なっちゃうじゃない…」

「…あ、あはは…」

 絵里花はきっと私似の子供が生まれた場合、この上なく可愛がるだろう。それはもう、私が嫉妬してしまうくらいには。

 だけど、仮に自分に似ている子供であっても、ものすごく大切にするという絶対的な信頼があった。絵里花は昔からおままごとが好きで、それこそ子供役の人形やぬいぐるみを今も大切にしてて、もしかしなくてもそうした存在も自分の子供のように考えているのかもしれない。

 だからこそ、私は絵里花に似ている子供のほうが欲しくなって、彼女のお腹をさする手をそっと握り、私の素直な気持ちを伝えたら。

 絵里花の黄昏を思わせる瞳はゆらりゆらりと熱を帯びて、思わず「絵里花はなにを『欲しがっている』のだろうか」なんて思うような、バターが静かに溶けていくような声で私に返事をしてきた。

 その温度は私の胸の奥にも火をつけかねないもので、自分でも吐き出された吐息が切なくっているのがわかる。今の私たちにとっては、お互いの呼吸の音ですら睦言のような湿度を秘めていたのだ。

 それを自覚すると急速に顔が熱くなって、これ以上見つめ合っていると場所を忘れて『行動』しそうになり、もう一度教室のほうへと視線を逃す。

 すると子供たちの何人かは私たちへ気付いたように手を振ってきて、それを確認した教師がこちらへと歩いてきてドアを開いた。

「因果の園のOGの方ですよね? ちょうど今は『因果律理論』の初段階について説明してましたので、良かったらお二人のことを話してあげてくれませんか? 見たところすごく仲良しみたいですし、そんな二人ならわかりやすく因果のことについて伝えられそうなので」

 絵里花の手を握り、一緒にお腹を撫でている私の様子を見た教師はにっこりと微笑んで、教室へと入ってくるように促す。その視線に気付いてから手を離したけれど、それで私たちの絆が隠せるほど薄っぺらいわけもなく。

 同時に断れる雰囲気でもなかったので、顔を真っ赤にして黙りこくってしまった絵里花に変わり、私は「たいした話はできませんが」と苦笑しつつ、恋人の手を取って教室へと入った。


 *


「はぁ…まったく、下手な訓練よりも『晒し者』のほうがきついわね…」

「気持ちはわかるけど、もうちょっとマイルドな言い方をね…」

 あれから私たちは初等部の教室にて『因果律によって巡り会った相手との日々』について語ることになり、それはもう予想外の好評ぶりだった。

 CMCとして育てられていることもあってか、外の世界でエージェントの任務もこなしている私たちに憧れてくれる子も多かったように、絵里花との日常や戦いについて語るだけで何度も拍手された…もちろん、『夏祭り』や『別荘』でのことは話せないけど。

 絵里花は終始顔を真っ赤にしていたけれど、子供の無邪気な質問は邪険にできなかったのか、答えられそうなものなら口元をひくつかせながらも笑顔を作り、そして優しく応じていた。その姿にまた私は『母親』としての素質を見た気がして、無性に「私の子供を産んでもらいたいな」なんて思ってしまう。

 …いや、私も女でちゃんと産めるのだから、絵里花に対して一方的に産んでもらいたいと考えるのって…なかなかアレだな…。

「…でも、やっぱり子供は可愛いわね。さすがにあんな話をするのはもう勘弁だけど、調理実習とかの補助くらいならしてもいいかしら…」

「あはは、たしかに。絵里花が手伝ってあげたら、きっとおいしい料理ができるよ。私もまた絵里花の手料理を食べたいな…」

 ともかく、そんな晒し者…もとい、講演を終えたら昼食を取り、午後からは体を鈍らせないための訓練を行う。この際は早乙女さんとも合流して一緒に射撃や捕縛などの練習をしたけれど、一部の科目については絵里花も引けを取らなくなっていて、その光景を思わず腕組みしながら見つめてしまった。

 なお、早乙女さんは絵里花の目を盗んでは手を握ろうとしたり、腕を組んでこようとしたり、あまつさえ頬へ顔を近づけてきたりしてきた。どれも体術の要領でなんとか回避していたけれど、あのとき食堂で見たメランコリックな様子は消えていて、言いたいことは山ほどあるけれど安心できたのも事実だ。

 そんな早乙女さんも一緒に夕飯と入浴を済ませ、ようやく私たちは寮に戻ってきて一息ついている。研究所は全体的に娯楽が乏しいおかげで、多くのCMCがすでに部屋へと戻ってきていた。それでも最低限のプライバシーを確保できる程度の防音は施されていて、隣の生活音はほぼ聞こえない。

「…心配しなくても、戻ったら好きなものをたくさん作ってあげるわよ。これからもずっと、一生…あなたのそばにいるんだから」

「うん…そうだね、ありがとう」

 もちろんマンションほどのプライベートな空間とも言えず、何より規律面でも相当に厳しいため、有り体に言うのなら…研究所の敷地内であれば『そういうこと』は禁止されている。それを全員が守っているかどうかはさておき。

 それでも二人きりになった私たちの空気に小さじ一杯の砂糖が加わったような甘さが漂うのは、健全な恋人関係を営む上で仕方なかった。

 もしも血糖値を気にせずこの甘さを継ぎ足し続けた場合、私と絵里花はあの約束を果たすべく、すべてを開け放って心と体の一番深い部分でつながろうとするだろう。はっきり言うのなら、今もしたいって気持ちはある。

 けれど、私たちはここに戻ってきてからずっとそういうことはしていなくて、あくまでもキス止まりだ。それは絵里花とつながれることが理解できた今においては、物足りなさがあるのかもしれない。

「…円佳、あったかい…それに、いい匂い…」

「…絵里花、本当に私の匂いが好きだよね」

 でも実際は、とても満ち足りた日々を過ごせてもいた。

 絵里花も私も脳内でストッパーがきちんと機能しているため、過剰な『お触り』には至っていない。

 だから一日の終わりを迎えると、今みたいにお互いが同じベッドに横たわり、そして寝巻きのままふんわりと抱き合って見つめ合い、言葉とキスを幾重にも交わす。

 その行為は甘すぎない程度の砂糖をすくって入れ続け、そして重ねるだけのキスをする度に、甘さが自分たちの体内へと溶けていくようだった。

 甘いけれど、甘すぎない。そんな状態を続けるように、私たちはささやかなキスと何気ない会話を一緒のベッドで重ねる。それはあまりにも幸せで、満ち足りた瞬間だった。

「匂いだけじゃない…私、円佳の全部が好き。優しいところも、強いところも、格好いいところも、きれいなところも…自分を犠牲にしすぎるのは、ちょっと心配だけど…それも含めて、大好き…」

「ありがとう、私も絵里花の全部が好きだよ…優しいところもそうだし、面倒見がいいところも、可愛いところも、いつもそばで支えてくれるところも。いじっぱりでちょっと不器用なところだって、ずっと守ってあげたくなるくらい、大好き…」

 くすくす、私たちの言葉に秘めやかな笑い声が混じる。それは間違いなく隣の部屋に聞こえるほどの音量ではなくて、横たわって見つめ合う私たちにしか伝わらない、愛のテレパスだった。

 私たちの言葉には、まったく嘘がない。優しい嘘もそうだし、悪意のある嘘なんてなおさらだ。人間は生きているだけで嘘を重ねていく生き物だけど、私と絵里花のあいだにそれは不要だった。

 絵里花は私の隣だけでなく、胸の奥にも存在していた。同時に絵里花も同じように思ってくれていて、私たちは愛し合うために体を二つ与えられているだけで、実際はすでに一つの存在だったんだ。

 だから絵里花の言葉が、キスが、こんなにも気持ちいい。もっとつながりたいという欲望はあったとしても、そんな焦れったさすら私たちの心地よい体温に変換される。もう一人の自分とすら表現できるよすがに触れられることは、人生において最高の幸福だったのだ。

「ね、絵里花…いつもは消灯したら別々のベッドで寝ていたけど、今日は一緒に寝ようよ。ちょっと狭いけどさ、たくさんキスしながら…眠りたいな」

「もう、見回りが来たらどうするのよ…でも、私も同じ気持ち。残りの人生、一分一秒でも長く…あなたを感じていたい。今すぐあなたと溶け合って一つになりたいくらい、そばにいたい…」

 私たちはもうここを卒業したのだから、見回りが来る可能性は高くない。けれど、ここで過ごす以上は寮の風紀を守らないといけないのも事実で、そんなわずかな責任感が私たちのベッドを別っていたのだけれど。

 今日は『子供』について意識したせいか、とくに離れがたい。だから私は甘すぎない誘いを絵里花にして、そして絵里花もそれに応じてくれた。

 そうだ、絵里花の言うとおり…もう私たちは、一つになってしまうべきなんだ。その一つに肉体的なものが含まれるかどうか、それもどうでも良くなって。

 そして。


 ドォォォォォン!


 それはこの寮、ひいては研究所全体を震わせるような音だった。

 そして私たちはそれが爆発音であるのを悟ると急に甘さを失ったように飛び跳ね、お互いがリフレクターガンを手に取って入り口を睨む。

 ひとまずこちらに向かってくる音がないのに気付くと二人揃って制服に着替え、そして携帯端末へと手を伸ばした。

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