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第98話「戻ってきて、ここへ」

(円佳…なんで私をおいていったの…!)

 おそらくは円佳も駆け抜けた道を、私は正確にたどって目的地へと向かう。行き先はオフィスエリア、清水主任が戦っているであろう部屋。

 幸いなことにここへ至るまではスムーズに移動できて、今さらながらに味方に戻った研究所のドローンの実力を噛み締めていた。

(…あの変なアナウンス、なんだったのかしら…端末にもよくわからないメッセージが届くし…)

 おそらくはスパコンに搭載されていたであろうAIによるアナウンスが届いて程なく、ドローンのコントロールはすべて戻って本当の敵である裏切り者だけを狙い始めた。相手がどれだけ研究所の職員を装っていてもドローンは無慈悲なまでの精度で見抜き、集団でゴムボールランチャーを発射して制圧する。

 私はこの様子に早乙女の護衛が不要になったことを理解し、今度は美咲にその介抱を押しつけて駆け出す。もちろん今回の一件についてはまだ恩返しも終わっていないけれど、今は誰が一番心配なのか、そんなのは火を見るよりも明らかだった。

(円佳、お願い…無事でいて。あなたに何かあれば、私は…)

 研究所は常日頃から円佳を優秀なエージェントだと評価していて、とくにその冷静な判断力はいつも真っ先に褒められていた。

 実際に円佳はどんな任務であってもおびえることはないし、かといって無計画に突っ込むこともない。自身の思考を溶けない氷で包み込んでいるような、無駄も温度も感じさせない判断を常に下せていた。

 だけど私は知っている。本当の円佳は常に周囲のことばかり考えていて、大切な人が窮地に陥ろうものなら…任務の達成どころか、自分の命すら投げ打って危機にぶつかっていくような、こんな仕事をさせるべきじゃないほどの優しさを心の奥底に宿していた。

 だから主任が危ないと思ったらすぐに立ち上がり、同時に早乙女も守らないといけないからと私をおいて、自分が一番危険な役割を負ってしまったのだ。本当ならすぐに止めて私が代わりになればいいのに、それができなかった。

 その原因は、円佳の判断の速さだけじゃない。

(…私は、そんな優しいあなたが大好き…だから、優しさからの行動を止められなかった…だとしたら、私は…私は…!)

 あの刹那の瞬間に短慮な私がそこまで考えていられたのか、それは心底怪しいのだけど。

 それでもはっきりしているのは『優しい円佳を心から愛している』という事実で、それはこのような状況に似合わない、あまりにも温暖で静かなぬくもりを私の中に宿した。油断してしまうと、また円佳の名前を口からこぼしてしまうように。


「よし、オフィスエリアからは敵を排除できたか!」

「先輩、清水主任のところに戻りましょう! いくらドローンを取り戻したとはいえ、非戦闘員に護衛がいないのは…!」


「…! こちらCMCエージェントのフロレンスです! 清水主任は今一人なんですか!?」

「きみは…あ、ああ、すまない! 清水主任をオフィスまで届けたところで敵とドローンが突っ込んできたから、それの応戦に今までかかってしまって…」

「円佳…ベイグルは!? 私のパートナーで同じエージェントの、小豆色の髪をした少女は見かけませんでしたか!?」

「小豆色…ロングヘアの子かい? その子ならたしかすごい勢いでドローンを破壊しながら、オフィスエリアを駆け抜けていったような…」

「!! ならベイグルはもうオフィスルームにいるはず、私が見てきます!!」

 その道中、私は研究所の警備員を見かけたので駆け寄り情報を集める。ドローンが正常に戻った状態であれば敵味方の判別は簡単なため、相手もすぐに応じてくれた…私が血相を変えていたのか、少しだけびっくりしてたけど。

 二人ともシールドとマシンピストルを携行していて、外傷を負った形跡もない。それでいてこのあたりで戦いを終えたような様子だったから、円佳を見かけていないかと尋ねると…やっぱりあの子もこの辺を通過していたようで、私は聞きたかったことだけを耳に入れると返事を待たずに駆け出す。

 後ろから呼び止めるような声も聞こえた気がしたけれど、それどころじゃない。私の頭の中は円佳の無事を祈ることで精一杯になっていて、ほかのことは一切考えられなかった。

 円佳と出会ったとき、私の人生は始まった。

 円佳が私を必要としてくれたとき、私の生きる意味ができた。

 円佳に好きだと言われたとき、私はやっと愛を知った。

 円佳は紛れもなく私のすべてで、そんな円佳になにが起こっているのかわからない現状は、すぐにでも終わらせたい。だから私は測定の際に褒められる数少ない点の『足の速さ』を活かすように、主任の部屋まで休むことなく走った。

「…ついた! 円佳、主任、無事で……?」

 ロックの解除されたオフィスルームに飛び込み、私が真っ先に目にしたもの。

 それはぐったり倒れる円佳に主任、そして円佳に対して拳銃を向けている女。

 その様子に対し、私の体は円佳以上の速度でリフレクターガンの早撃ちをしていた。

 女はすぐに崩れ落ち、私はリフレクターガンを投げ捨て、そして。


「円佳!! あんた、あんたがぁぁぁぁぁぁぁぁぁl!!!!!!!!」


 倒れた女を仰向けにして、まずは顔面に拳を一発叩き込む。鼻っ柱に直撃した全力の一撃は、相手の鼻から血液を吐き出させた。

 もちろんリフレクターガンを撃ち込まれた相手が動けるはずもなく、声すら出さずにぐったりとするだけだ。だけど私はそのままマウントを取り、両手を使って相手の顔を乱打した。

「円佳に何をした? 円佳に何をした!? 円佳に、円佳にぃぃぃぃぃぁぁぁぁ!!」

 自分の拳骨と相手の頭蓋骨がぶつかり合う、鈍い音が響き渡る。リフレクターガンを撃った時点でこれはまったく不要な追撃なのだけれど、もう私は止まれなかった。

 円佳が倒れている。その円佳に銃を向ける女。

 この状況は相手に『死』を与える理由としては十分すぎて、今になってサブマシンガンではなくリフレクターガンを撃った自分の小賢しさが憎くなっていた。

 けれど、サブマシンガンを撃ち込んでいれば高確率で絶命していたため、こうして継続的な痛みを与えることはできていなかったかもしれない。

 頭に血が上りきった私はやはりこれこそが正しい戦い方なのだと自分を正当化して、顔の色と形がすっかり変化した相手に終わりのない追撃を行っていた。


「そこまでですフロレンスさん! それ以上は相手が死ぬ、その人にはまだ『使い道』があります!」


 あとどれくらい殴れば、こいつの命を奪えるのだろう?

 早くこいつを殺さないといけない。でも、もっと苦しめないといけない。

 私は怒りの中で唯一生まれた葛藤に従って殴り続けていたら、後ろから飛びついてきた人間に羽交い締めにされた。そのまま女から引き剥がされた私はせめてもの抵抗として動かなくなった体を一発蹴り上げたら、少し大げさに転がっていく。

「離しなさ、離せ美咲!! こいつは円佳を、私の円佳を!!」

「だから落ち着いてください! あなたのやるべきことは殺人ではありません、円佳さんを守ることじゃないんですか!? 私に…失望、させないで…!」

「…!! 円佳っ!!」

 私を止めたのはやっぱり美咲で、普段は心を落ち着かせてくれるその柔らかな声質が今は邪魔くさい。珍しく大きな声を出しているけれど、それでもその中に落ち着きを隠しきれなくて、私は「円佳のために相手を攻撃できない薄情者」なんて実に身勝手なことを思っていたら。

 羽交い締めは抱きしめるような状態に変わり、美咲は絞り出すような声で…あらゆる感情を押し殺すようなうめきで、私に語りかけてきた。

 それはきっと、私と同じ感情…敵への『殺意』すら押し殺していたように。そこでようやく私は1秒にも満たないあいだ冷静になり、本当なら真っ先に駆け寄らないといけない相手、円佳の元へと飛び跳ねる。


「…よくも私の仲間に、後輩に手をかけてくれましたね。もしも聞こえているなら、お覚悟を…これから先あなたに待っているのは、死すら生ぬるい『地獄』ですよ。では、ごきげんよう」


 美咲は私が離れると同時にリフレクターガンを抜き、捕縛モードで女を厳重に縛る。その際にとても小さな声でなにかを言った気がしたけれど、やっぱり私は聞き取ることはできなかった。

 今の私の五感はすべて、円佳にしか向かないのだから。

「円佳! 円佳! 返事をして! 生きてるんでしょ!? なら声を聞かせて!!」

「……」

 胸元が暴かれた円佳にパーカーを掛け、私は左腕で首を軽く持ち上げ、右腕で精一杯抱きしめるように声をかける。

 けれども円佳は苦痛に顔を歪めたまま、なんの返事もしてくれなかった。

 その様子は、デスマスクすら連想するほど美しい。それと同時にいつも以上に儚げ…より遠くを見ているようにも感じられて、私は自分がいる場所を伝えるように叫んだ。

 脈はある。大きな外傷もない。毒薬を飲まされたという感じでもなくて、今の私にできることは彼女の名前を吠えるだけだった。

(…私は、やっぱり…変わらない。無力のまま、円佳を呼んで…手を、伸ばすだけ…)

 CMCカップルは支え合いが大切で、いつも私は絵里花に支えられている…円佳はそう言ってくれていた。

 だけど、それは間違いでしかない。性格、容姿、戦闘能力…あらゆる面で欠点がないこの人は、いつも私のために付け入る隙を晒し、そして私でも支えられるように振る舞ってくれていたんだ。

 円佳は一人でも任務を達成できるほど、強い。

 円佳はすべての家事をこなせるくらいには、器用。

 円佳はもっと優秀なパートナーを選べる程度には、優れている。

 私はそんな円佳に置いていかれないよう、いつも後ろから呼び続けて。手を伸ばして。

 円佳はそれすらも優しく包み込んで、笑って、そして手を握ってくれた。

 …私は、円佳に…なにも、してあげられない。


「…絵里、花…お願い、円佳を…円佳の名前を、呼んで、あげて…」


 私が支える円佳の顔も涙のフィルターによってぼやけてきた頃、すぐそばから途切れ途切れの、それでも幼い頃を思い出せるような胸の奥が軋む声が聞こえる。

 そちらに振り返ると美咲に肩を抱かれてなんとか立ち上がる主任がいて、その表情は円佳と同じくらい苦しげだけれど、いつも面談の時に私の話を聞いてくれていたときのような。

 そう、『お母さん』と呼びたくなるような、私たちを見守り続けてきた人の柔らかさがあった。

「…今の円佳は…あなたとの因果が…消されそうに、なって…うっ…」

「主任、あまり無理をなさらないでください…防弾性のある服を着ていたとはいえ、あなただって撃たれたんですから…」

「これくらい、普段、頑張っているあなたたちに比べたら…肋骨の一本や二本くらい、どうだって…いつっ…」

 美咲の気遣いをよそに、主任は一歩、また一歩と私と円佳へ歩み寄ってくれる。それは普段の姿勢と同じで、私の中にあった諦念はゆっくりと花びらを閉じるように、物言わぬ蕾となっていった。

 油断すればすぐに咲いてしまう、私の中の花…不安の権化。それは理想を超えた唯一絶対の人である円佳が恋人になってくれたことで生まれた、私が一生向き合わないといけないもの。

 きっとまたそれは咲き誇り、花粉のように恐怖をまき散らすのだろうけど。

 私は、一人じゃない。円佳が教えてくれたように、美咲も、主任も、今はここにいない結衣さんも…あと、どうでもいいけど…本当にどうでもいいけど、早乙女もいる。

 そんな人たちが私たちを見守ってくれていると思ったら、私は毒の花ごときに負けられなかった。

「…前にも伝えたように、因果は…あなたたちの、あなたたちだけの、積み重ね…だから…諦めちゃ、ダメよ…円佳を、ここへ…あなたのところに、呼び戻して…!」

「…!! 円佳、私はここよ! 私はあなたの恋人、辺見絵里花…あなたは!!」

 声かけなら先ほどもやっていた。だからすでに円佳には届いているかもしれないし、何度も呼ぶことで「うるさいなぁ…」と不快に思われるかもしれない。

 そうだ、それでいい。私は誰よりもあなたのそばにいて、あなたを何度も呼んで、呼び続けて、時には呆れられて…それでも一緒にいられる、唯一の存在なのだから。

 うるさいくらい、あなたを呼び続ける。

「あなたは三浦円佳、私の恋人よ!! 円佳、約束したでしょう!? この任務が終わったら家に戻って、それで…『全部』をしようねって!! 私、忘れてないから!! だから…あなたも忘れるだなんて、許さないわよ!!」

 私のような人間が縛り付けておくには、円佳はあまりにも魅力的だった。

 現実には存在しない技術で作られたような整いきっている顔立ち、冷静さの中に際限なしの優しさをたたえた性格、いつも大人びているのに本当は冒険が大好きな無邪気な一面…人間はここまで完璧な存在になれるのだろうかと毎日疑っていて、そんな人が永遠に私の元にいてくれるなんて、今でも信じられないのだけど。

 だけど円佳は、私の全部を欲してくれた。私の心だけでなく、体も…求めてくれていた。

 そして私は生涯を共にする相手以外には許すつもりなんてなかったから、円佳が私の体に触れてくれた時点で…私と添い遂げないとダメになった。

 だからもう…逃がさない!!


「円佳、好き! 大好き!! 愛してる!!!! だから…私を!! 抱いて!!」


「…絵里花…大きく、なった…わね…」

「…今、大変な状況なんですが…主任がいいなら…?」

 今の私の望み、唯一の希望…円佳に抱かれること。

 円佳が、私との約束を守ってくれること。

 それを声高らかに宣言したら。


「……──……」


「…え?」

 円佳はうっすらと目を開き、焦点の合わない瞳は霧の中を彷徨うようにゆらゆらしていた。

 そして、聞いたことがない、誰かの名前を。

 口にした。気がした。


「……──……──……」


「…誰よそれ!! もしかして、ほかの女の名前じゃないでしょうね!! あなたのこと、信じてるけど…浮気だったら、一生…生まれ変わっても呪うわよ! 永遠にあなたを呪うため、私は…何度でもあなたへ会いに行くんだから!!」

 本当は、嬉しかった。

 円佳が意識を取り戻して、そして言葉を発したことが。

 たとえその言葉が知らない人間の、そもそも名前なのかどうかすら怪しい、まともに聞き取ることすら難しい言葉の羅列だとしても。

 それでもなにかを伝えるということは、生きていないとできないのだから。

 でも私は…わがままだから。円佳が生きているのなら、真っ先に…大きな声で…叫ぶように!

 私を!! 呼んで!!


「……絵里花……やっぱり、重くて、面倒くさいね……大好き、だよ……」


「!! 円佳、円佳っ!!」

 その願いは言葉へ変わる前に、風に乗って彼女へと届いて。

 円佳は私の手に自分の手のひらを重ね、まるで寝起きのように弱々しく微笑んだら。

 わかりきったことを冗談めかして伝え、それに満足したかのように目を閉じ、添い寝をしてくれたときのように安心しきった寝息を立て始める。

 それからも私はただ円佳の名前を呼び続け、やっと到着した医療班が彼女を運ぶまで片時も離れなかった。

 いいや、運んでいる最中…医療関係者以外は入れないエリアに拒絶されるまで、ずっとそばにいた。


 …

 ……

 ………


 この日、研究所を狙った大規模な攻撃は完全に鎮圧された。

 幸いなことに死傷者は0名、とくに初等部の寮を守り切ったことが大きく影響したらしい。

 その一方で行方不明者が若干数存在しており、それらが裏切り者なのかどうかは不明瞭なままだった。

 そして『研究所が密かに研究を進めていた装置』のデータが奪取されたらしいけれど、このときの私はそれがどれだけ大変なことか、そしてどう自分たちに影響するか、そんなことは考える余裕もなかった──。

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