「お姉さん、なかなか連絡できずにすみません…はい…はい…ええ、本当に…こんな仕事をしているときに限って大変なことが重なってしまって…」
襲撃からすでに数日が経過し、因果律研究所は機能面に関してはほとんど元通りに復旧していた。
最大の要因は因果・京が奪われなかったこと、そしてこのスパコンがあればシステム関連については容易に復元ができるため、現在は今回の襲撃に至ったあらゆる脆弱性への見直しが進められている。
セキュリティシステムの部分的な制御権限を持つ技術スタッフへの厳重な取り調べ、認証システムに関わるバグの修正、搬入物の全量確認の徹底…これまでの秘匿性にあぐらをかいていた運営は、ようやく見直されていた。
無論美咲についても聞き取り調査が発生したものの、彼女は護衛対象を守り切ったこと、襲撃直後には実働部隊に合流しての『実力行使』に協力したこと、主任研究者の救出を行ったことが評価され、すぐに問題なしとして解放された。
そして今は研究所内の固定電話…言うまでもなくすべての会話が記録されている連絡端末にて、愛しの恋人である結衣との通話をしていた。普段使用している携帯端末は脆弱性の確認が終わるまではオフラインでの利用しかできないため、モデムチップが壊れたと伝えて固定電話での連絡を受け入れてもらったという背景がある。
「はい…円佳さんですが、命に別状はありません。ただ、少しお寝坊さんなのでなかなか目を覚ましてくれなくて…ああっ、大丈夫ですよ。じきに目を覚ますとお医者様も言ってますし、何より頼れるお姉さんな私がそばにいますから…え? それはそれで不安? ひどいです、結衣お姉さん…くすん」
元々エージェントに関するあらゆる情報は話せないものの、今回のように通話がリアルタイムで盗み聞きされているという状況に美咲は居心地の悪さを噛み締めながら、少しでも怪しまれそうな話題は避け、それでも自分たちを待ってくれている大切な人へ状況を説明した。
遠方での仕事の最中、円佳が事故に遭ったと連絡が入った。そして彼女の両親は遠いところにいることもあり、長年の付き合いがある美咲が保護者役として付き添うことになり、現在は絵里花と共に円佳が目を覚ますのを待っていた。
大きな外傷もなく生命を脅かすような問題は発生していない一方、意識や記憶に一時的な障害が発生している可能性があるため、現在は親族や同居人以外は会えないことから結衣は連れてこれない。
美咲もまた円佳の両親から頼まれているため、ここからは離れられない…だからこそ、自分たちが会えるのはもう少しだけ先になるだろう──。
…というのが研究所とも打ち合わせて決めた言い分であり、本当なら恋人相手とはいえ連絡すら控えるべきだという意見もあったものの、清水をはじめとした理解者たちの後押しによって、美咲はようやくその声を聞けたのだ。
(…お姉さんはいつもそう。こんなふうに冗談交じりでからかってくることはあっても、いつだって私のことを信じてくれる…なのに、私は嘘っぱちばかり…)
電話越しであってもわかる、愛すべき人の声。それは機械的なフィルターがあってもかき消せないほどのぬくもりを美咲へと届けていて、恋人までをも監視へ晒すことになったとしても…聞けてよかったと、美咲は目の奥が熱くなった。
さらに、通話に応じる結衣の調子はいつもとほとんど変わらない。円佳の身を強く案じているのは当然としても、美咲が軽口を叩けばそれを叱責するのではなく、ことさら明るい調子で応じてくれるのだ。
ああ、好きです、結衣お姉さん。いろんなものを捨てながら生きていた自分の中にある当たり前の気持ちが、結衣の温度によって開花する。
電話ボックスを思わせるような通話専用のスペースはこの研究所らしい不自然な潔癖さに包まれていて、自然を愛する美咲は自分の中の花がしおれていくのを感じていたが、結衣の声を聞くだけでそれは容易に復活してくれた。
心に潤いが戻ると同時に罪悪感が復活したとしても、美咲は決して通話をやめられなかった。
「そうですね、まだはっきりと言えませんが…もしかすると、少しだけ…円佳さんが元通りになるまで、時間がかかるかもしれません。でも大丈夫ですよ、絵里花さんが支えてあげればきっと…元に戻ってくれます。もちろん私も全力でお手伝いをしますから」
因果律を崩壊させる装置…因果崩壊パッドは研究所が密かに開発を進めていた、本来は分析や対策のためだけに使われる代物だった。
どのようにして因果は崩壊してしまうのか、そしてそれに対抗するにはどうすればいいのか…そのためには実際に『壊す』必要があると考えたチームは、最低限のリソースを与えられながら研究を開始した。
幸いなことに矯正施設には『因果を壊してしまっても問題のない人間』がいくらでもいたため、因果を操作する研究に比べてスローペースではあったものの、それでも着実に結果を出し続けていた。
その研究に敵も紛れ込んでいたこと、そして敵が作ろうとしている『完成品』の手助けになるとも知らずに。あるいはこの研究の立ち上げすら敵が関与していた可能性もあるのだろうが、美咲にそれを知るよしもなかった。
(…私はあの子たちを支えて、そして…結衣お姉さん、あなたに降り注ぐあらゆる残酷から守り抜いてみせますから…)
名家に生まれたことで多くのものを背負わされ、だからこそ不自由のない生活ができていたことを理解していた。
それでも因果を含めた多くのものを手放して、本当に守りたいものだけが手元に残った現在…美咲は、そんな選択をした自分を数少ない誇りだと感じていた。
因果を持たないがゆえに不自由な生き方を強いられ、それでも気高く、そして真っ当に生きようと努力してきた…結衣は美咲が求めていた生き方そのもので、そんな彼女を守ることは自分の命を守ることと同義だったのだ。
いいや、いざとなれば自分の命だって使い切れる。結衣はそんなことを望まないとわかっていたとしても、その決意があってこそ美咲は戦えていた。
「うふふ、もちろんです…結衣お姉さんだってあの子たちには欠かせない存在なんです。私と違って言葉に重みがあって、柔らかさがあって、優しさがあって…あなたがいてくれたからこそ、あの子たちは前へ進めた。どうかそれを忘れないで…私たちに、力を貸して…」
結衣は知っている。美咲たちにしか触れられない話題があって、自分はそこに足を踏み入れることを許されず、それはともすれば『自分だけが力になれない』という壁になっていることを。
だから結衣が弱音を吐いたら美咲はすぐにフォロー…いいや、事実を伝えるために言葉を絞り出す。
エージェントとして生きること、それはある種の『同じ穴の狢』であった。
いくら日本の平和と発展のためとはいえ、時に戦闘能力を持たない人間すら拘束せねばならなくて、とくに円佳と絵里花のような優しい少女たちがそんな運命を背負わされていることに、美咲は前衛芸術のように複雑な感傷を抱いていた。
同時に、その感傷を口にしてはならないことも自覚している。自分とて同じ任務を負うエージェントである以上、感傷は単なる憐れみでしかなく、そして賢いあの子たちはそんな憐憫にすらもお礼を伝えてくれるだろうから。
だから必要なのだ、結衣が。エージェントとは無縁で、それでも二人の悩みを察し、そして戦いから遠く離れた場所にいるからこその優しい言葉をかけられる…なにも知らないということは無知につながるだけでなく、汚れを知らぬ無垢な思いやりとなるのだ。
「…だから、自分じゃ役に立てないだなんて思わないでくださいね。お姉さんの優しさだけじゃなくて、おいしいお菓子があれば…円佳さんの記憶に障害が起こっても、きっと戻ってこれるって信じています。私があなたのお菓子を食べに、そして一緒に甘い時間を過ごすために戻るように」
これから先に何が起こるか、美咲にもわかっていない。もしかしたら何の問題もなく目を覚まし、あっさりと日常生活に戻れるかもしれない。
しかし、その逆…絵里花との因果を失ってしまい、運命レベルの絆が消えてしまう可能性もあるのだ。そして円佳ほどの年齢であれば今からまた因果を操作するのはリスクも高く、そもそも因果が消された時点でどんな問題が起こるかもわからない。
これから先、円佳と絵里花には新しい試練が待ち受けているだろう。そしてこれまでの試練において結衣が少なからず支えになってくれたように、彼女の力は欠かせないと美咲は確信していた。
だから、戻ろう。あの人のところへ、あの人がいてくれる生活へ。
それはまるで夜であっても世界を明るく照らすような、満天の星空のように美しくも力強い場所なのだから。
「だから、もう少しだけ待っててくださいね。美咲はあなたの可愛い猫ちゃんで気まぐれですが、帰る場所だけは間違えませんので…そしてちゃんと帰ってきたときは、私とあの二人をたくさん可愛がってくださいね。あ、私は後回しでいいので…その分、『深く』愛してもらいますから」
その星空を見上げながらつながる瞬間は、きっと多幸感に満ちあふれているだろう。
何度も、何度も、何度も繰り返してきたけれど。それでも私は、あなたを。あなただけを、求め続けるだろうから。
美咲は結衣の返事がいつも通りの内容であったことを確認してから、見えない彼女へとキスをするようなそぶりを見せて電話を切った。
*
「いいよ、たくさん可愛がってあげる…でも、待たせた時間が長くなるほど『厳しく』するから、それは忘れないでね? うん…またね」
恋人との通話を終え、結衣は携帯端末をローテーブルに置く。かつてはこの部屋に四人で集まり、そしてこのテーブルに料理を載せて全員で食事をしたものの、今はワンルームマンションでありながらも広く感じるほどには静かだった。
かつて美咲が訪れる度に「またか…」なんてぼやいていた──ただし毎回受け入れていたが──頃が遠くに感じるほど、結衣の胸の中に大きな空間が生まれている。
「…美咲…また、危ないこと…してるのかな…」
結衣はそのままカーペットに身を放り出し、右腕で目を覆うようにしてつぶやく。その言葉はまるで透明な淡雪のように、音や色もなく、誰にも届くことなく消えていった。
結衣は知っている。それは美咲が危なっかしいということではなく。
美咲が『危険な仕事』をしているという、事実を。
「…美咲、やっぱり言ってはくれないんだね…こんなときでも、大変なときでも…あはは、大変なときだからこそ、かな…」
ゴロゴロ、しっかり者の結衣としては珍しく床を転がる。もしも美咲がしていれば苦言の一つや二つは呈していただろうが、今はベッドへ移動する気力も湧かなかった。
だから、ずっと目を閉じる。美咲と過ごした日々を思い出すように、そして。
悲しい目をしながら、それでも自分を救うために戦っていた恋人を、結衣は想っていた。
因果のない人間、それは現代日本においては珍しく、同時に因果律に反発する勢力からすれば都合のいい存在だった。
因果がないことで理想の相手と出会えず、システムに見放された人生。それは因果律を国家の基幹に選んだ日本を恨んで当然の背景でもあって、ゆえに世界自由連合や関連組織から声かけがあれば、その協力者になるケースも多かった。
しかし、結衣は誰も恨んではいなかった。自分を産んだ両親も、因果を中心に運営する国家も、因果の相手と結ばれる知人たちも…結衣はこの世界でひとりぼっちになったような寂寞こそ感じていたものの、実際は一人でないことを理解していたのだ。
両親は結衣を責めることなく、それどころか『その分もあなたは好きなことをして』と娘の選んだ道を応援し、パティシエ修業に必要な資金もすべて用意してくれた。
知人たちはいずれも因果がないからと結衣を仲間はずれにすることはなく、交際や結婚を経験しても変わらぬ接し方を続けてくれた。
そして夢を叶えてパティシエとして就職した先では、オーナーをはじめとして全員が結衣を一人のお菓子職人として扱い、因果の有無なんてまるで気にもとめなかった。
そう考えると結衣は『因果を除いた環境に恵まれた』ともいえて、だからこそ祖国に不満を持つこともなく生きられたのだろう。
しかし、それでも彼女のことを知ろうとしない勢力は結衣に因果がないことを突き止め、自分たちの仲間へなるように勧誘してくる。結衣はもちろんそれらをすっぱりと断っていたが、過激な手段を躊躇なく講じるテロリストたちがそれに逆上するのは自然だった。
ある日、少し遠出をしていた結衣は背後に気配を感じ、時刻も夜であったことから足早に逃げようとしていたときのことだった。
近道のために人気のない公園に足を踏み入れてしまったとき、結衣を狙う人間も駆け出して彼女を拘束しようとした刹那。
結衣が振り向くと不審者は膝をついて倒れている最中で、その人間の後ろにいたのは。
都市に紛れる色合いのパーカーで目元以外を覆った、それこそ新しい不審者とでも言うべき存在だった。その手には銃を思わせる武器も握られていて、結衣は一瞬だけ危険を感じたが。
ホワイトパープルの光をたたえ、悲しげに目元を曇らせた様子を見たとき、結衣の頭の中にとある女性の姿が浮かんだ。
上品ではあるものの軽薄な調子で、自分に対して言い寄ってきた女性。そして結衣に因果がないと知っても態度を変えないどころか、より一層情熱的に、強く求めるようになった…あまりにも優しい、自ら因果を捨てた変わり者。
自分を狙う不審者を仕留めたかと思ったらすぐにきびすを返してどこかに消えていったものの、結衣の視界にはずっとホワイトパープルの灯火が残り続け、そしてそれは…奇しくも、結衣にとっての恋の始まりとなったのだ──。
「…私、知ってるからね。美咲が助けてくれたんでしょ?」
そうだ、私は…あの日から。いいや、きっとそれよりも前から…あのホワイトパープルの宝石に恋をしていた。
因果は『運命レベルの相手との結びつき』であるように、因果のない結衣は運命から見放されたと諦めていたのに。
それはまるで因果を持たない自分が掴み取った、ここから始まる新しい『因果』にすら思えた。
自ら因果を捨てたと語り、因果のない結衣を求め、そして結衣に新しい因果…あるいはそれに負けないほど強い、きらめく運命を与えてくれた美咲。
美咲が結衣に恋したように、結衣もまた美咲との恋に落ちていたのだ。それはいつも美咲が頼んでいたアセロラケーキのように甘く、そして少しだけ酸っぱい、一足遅れてきた青春のように。
だから、私は…それを、失いたくない。
「…待ってるよ、美咲。君がここに戻ってきてくれる日を、円佳ちゃんと絵里花ちゃんを連れてきてくれる日を、そして」
私に真実を教えてくれる日を。
でもよくよく考えるとそれは自分にとって重要なことではなかったため、結衣は言葉にしなかった。
もしもただの勘違いで、本当は危ないことをしていなかったら? それならそれで安心できて、私は作曲家として成功できるように美咲を支えよう。
もしも本当に危ないことをしていたら? とりあえずお説教をして、そして…その仕事が辞められるのであれば、本当に作曲家を目指してほしい。いや、一応は今も作曲家としても働いているのかな…?
どちらにせよ、美咲には頑張って働いてもらう。じゃないと安心して結婚できないし、子供だって作れないから。
「…ふふっ、やっぱりいいか。もしも仕事を辞めて路頭に迷っちゃったら、私が養ってあげるからね…」
あんな仕事をしているのだ、辞めてしまったらもうまともな生活はできないのかもしれない。そうなったら本当に食っちゃ寝してたまに甘える、猫みたいな生き方しかできないだろう。
そしてそうなったとしても、結衣は見捨てられなかった。口では厳しいことを言っているつもりでも、彼女は…美咲が心配するように、『ダメ女に引っかかってしまう優しい人』だったのかもしれない。
そこまで考えた結衣の口元には笑顔が浮かんでいたが、目元には通り雨が降っていた。そして傘を差すように身を起こし、乱暴に目元を拭う。
やがて結衣はキッチンへと向かい、お菓子作りの準備を始めた。
円佳ちゃんならきっと大丈夫、だから…今から全快祝いの試作をしようかな?
そう考えた結衣の表情は、すでにお菓子作りのことしか考えないパティシエに戻っていた。