最悪だ。
シリウスは束の間雨の上がった空から遠くなっていく地面を眺めていた。しっかりと生地に食い込んだ爪は、どんなにじたばたしようと緩まなかった。
二日目の夜、リーゼロッテはまた夢を見ていた。お世辞にも寝心地が良い寝床ではないせいで、眠りが浅かったのかもしれない。それでも二度目の夢の中で、リーゼロッテは再びシリウスに優しく抱き締められていた。今度こそ情緒たっぷりに、シリウスの様子もおかしくない。リーゼロッテもわけのわからない奇行に走っておらず、遠慮がちながらもシリウスの腰に腕を回していた。
シリウスの匂いがする。どんな匂いだと形容はしがたいけれど、いい匂いだと思った。この匂いが好きだと思った。昨晩飲んだ、ハーブティーの匂いに似ているような気もした。
「リズ……」
「……え?」
シリウスはリーゼロッテの頬に片手を添えた。そっと上向くように促す手付きに、応えるようにリーゼロッテも視線を上げる。リーゼロッテの顔に影が落ちる。覗き込むように真っ直ぐな濃紺の双眸が向けられる。
「シリウス……」
リーゼロッテは目を合わせて微笑んだ。こんなふうに目が合うなんてちょっと恥ずかしい。恥ずかしいし、擽ったいけれど、それ以上に嬉しい気持ちになった。
わたしはやっぱりシリウスが好き。思ったけれど、
「リズ」
再度呼ばれながら、他方の頬にも手が触れる。両手で柔らかく包み込まれ、更に距離が近づいた。リーゼロッテは瞬いた。ひとつ不思議なのは、シリウスが動くたびにどことなく羽音のような聞こえることだったけれど、そのときのリーゼロッテにはそれを気にしている余裕はなかった。
「……シ、シリウス……?」
シリウスはゆっくり間合いを詰める。身長差があるため時間はかかるけれど、上を向くリーゼロッテの鼻先にシリウスのそれが触れそうなほどに近づいた。リーゼロッテは不思議そうに空色の瞳を丸くする。緩く首を傾げようとするが、シリウスの手によりそれも阻まれた。
「……?」
そこでようやくはっとする。
これは……。これは、もしかして……。
ぞ、俗に言う(?)キス、というやつでは……!
「――ひぇあ!」
思い至ったリーゼロッテはとたんに顔を赤くして、あまりの恥ずかしさに思い切りシリウスを突き飛ばしてしまった。
ぽ――――ん。
力いっぱい両手で押し返されたシリウスは、遙か彼方へと飛んでいった。気が付けばその姿はぬいぐるみのシェリーの姿になっており、遅れて気づいたリーゼロッテは慌ててそれを追いかける。空高くまで弾き飛ばされたシェリーの姿はどんどん小さくなって――。
「シェリー!」
リーゼロッテはひっかけていた掛布を弾き飛ばす勢いで起き上がった。
「え……え? 夢?」
はぁはぁと肩で息をしながら、リーゼロッテは辺りを見渡した。昨夜と同じ洞窟だ。それでも明度が上がっているのは一時的にとは言え雨が上がっているせいだ。リーゼロッテは軽く頭を振った。寝癖の付いた髪を揺らしながら意識を整えると、
「シェリー、雨が止んでる……っ」
呼びかけながら、掛布の中を覗き込んだ。
「シェリー……?」
けれども、そこにシリウスの姿はない。代わりのように聞こえてきたのは、夢の中と同じ羽の音だった。遠くで聞き覚えのある鳴き声が聞こえる。
「……カラス?」
リーゼロッテは振り返った。入口から見えた景色に、黒い羽根が舞い落ちてくるのが見えた。嫌な予感がした。